昨日は山登りの会の町歩きに参加し、山陽電車高砂駅南の町並みを3時間ほど歩いた
参加人数は8人、ガイドさんは以前、私たちの山登り会の会員だった人でメチャ楽しい人だった
まず、旧国鉄高砂線の線路あとをテクテク

高砂線は海水浴場や浜の工業地帯へ通じていて、大正3年から昭和59年(1914-1984年)の70年間使われていた
次は、今でも現役のお風呂屋さん

昭和18年開業(1943年) 木材で沸しているらしい
十輪寺の境内横の墓

豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592-1598年)に高砂からも100人ほど駆り出され、戦争後に戻れたのはたったの4人だった
「21世紀になっても世界中で同じことやってる。人類は進化できない生物なのかな?」ってつくづく思った
申義堂(しんぎどう)
江戸時代に庶民教育を行った学問所で女性も学んでいたそうだ
明治維新のあと廃校になったが、お寺の説教所として別の場所に移築し、1990年にこの場所で復元された
昨日は祝日みどりの日
大通りには国旗がズラーーっとひるがえっていた
そういえば、もう50年くらい前から民家で国旗を上げなくなったなぁ
旧高砂消防会館と旧南本町巡査派出所
普段はシャッターで隠れているが特別に見せてくれました
半鐘やまといなど昔の火消し道具がずらり
高砂神社の赤松と黒松
黒松は葉っぱが硬く、赤松は葉っぱが柔らかかった
裏の結婚式場で着付けしたなぁ あれ何年前だろう? 30年以上前だ~
工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅
江戸時代後期に廻船業を経営していた人
彼は相当なアイデアマンだったみたい
例えば丈夫な船の帆を発明したり、海の浮力を利用して重い石を運ぶための船の構造をかんがえたり、舟で瀬戸内海から日本海を経て北海道までの港々で各地の産物を売り買いしながら帰港し、今のお金で一億ほど儲けていたそうだ
商売だけでなく地域の社会貢献もしたようだ
工楽松右衛門(くらくまつえもん)旧宅の外壁
白壁の代わりに、実際使われた船板を再利用して壁にした
使われた舟板は腐れにくくて丈夫なのだそうだ
堀川湊(ほりかわみなと)
一緒に回った山登り会のメンバーが、この堀川湊の発掘に携わっていたそうだ 苦労して発掘した場所が半分以上埋め立てられてちょっと悔しそうだった(埋め立てられた場所はこの写真ではないが)
10歳まで造船所のすぐ横で育った私は、舟を上げるための坂石に思い出がある
坂石に付く青のりを泥だんごにまぶしてお料理ごっことかしてた
波の音を聞いて育ったことにも感謝している
毎日コテッと寝付けるのは、この波の音のおかげ
夫のいびきも無問題
昭和に栄えたショッピングモール
私たちが歩いた道はアーケードだったところ
ここのスイミングプールに通っていたオリンピック選手もいたなぁ
町歩きって...栄枯盛衰をたどる歩きなのかもなぁ
でも66歳の私が見るからそう思うのであって、子供の目で見れば違う発見があるんだろうな
昔の活き活きと生きた人たちから学べる歩きでもある
シャッター街になった高砂商店街のお弁当をみんなで食べた
味が染みててとっても美味しかった
この付近に住んでる山登り会のメンバーが「お弁当おいしかったやろ?」とアピールしていた
彼はこの町が好きなんだろうな
お弁当を食べた交流センターにはこの町を盛り上げるイベントのパンフもいっぱい置いてあった
いちばん長く住んでる高砂市の事を少しずつ知っていこうと思った
※GoogleMAPを拝借しました
碁盤の目の高砂の町
なぜ碁盤の目かというと、400年くらい前に高砂に城があったからだ
姫路城が築かれたのち、姫路城の近くの海の守りを固めるために築かれたのが高砂城で、1612年に建てられた
そして町は城下町に作り替えられた
が、1615年に「一国一城令」という国のルールができてしまい城はつぶされた
一国一城令は徳川家康が考えたルールで、大名の軍事力をなくし、全国統治を安定させるために作られた
なので高砂城はたった3年だけの城だった
高砂城があった場所は今の高砂神社で、城を建てる時に高砂神社を別の場所に移したそうだ
高砂神社が元の場所に戻ったのは1926年だった
それにしても高砂城下町って城の北側にあったのかな?
グーグルマップで見ると碁盤の目の町は高砂神社の北側にある
姫路城の城下町は城の南側にあるよね?
なんかおもしろい
世界中の城の城下町の位置とか調べたらおもしろそう
それから、城下町の町名が職業であらわされているのも高砂の特徴
全部で材木町とか船頭町、田町、魚町など29町ある
だから番地がなくて材木町1など、とてもシンプルな住所なのだそうだ
もういろいろ勉強になるなぁ
登山もいいけど町歩きもいいな
登山と言えば、1年間の学習会もあとはロープワークで終わり
きのうの町歩きのあとにロープワークに使うロープや金属の輪っかを山友さんと買いに行った
一日よく遊んだ