【今日、見た花...】
(新川和江:詩人)
春です。
うらうらと日が照って、
戸外のほうが、家の中よりもずっと
暖かそうです。
郵便局に用事があるのを思い出して、
わたしは、出かける
ことにしました。
この季節には、
「れんぎょう」や
「こぶしの花」や、
「もくれん」など、
家々に咲いているのを、垣根ごしに
眺めることができますので、
出不精なわたしも、比較的まめに
外へ出かけます、
運悪く、花には出会えなくても、
都心を離れたこの町を、
吹く季節の風には、どこから運んで
くるのか、花のにおいが含まれていて、
ふっくらとやわらかです。
横断歩道を、郵便局のある側へと
渡り終えた時、路地から自転車が
2台、走り出てきました。中学生と、
小学生の兄と弟、といった感じの
少年たちです。
先に出てきた自転車は、
上手にカーブして、すいすい走って
いきましたが、続いて出てきた
小さい子のほうの自転車は、曲がりしなに
よろけて、私の提げた紙袋に
ペダルが触りました。
もろに倒れかかるのではないかと、わたしは
瞬間、危険を感じて表情を
こわばらせました。
「ごめんなさい!」
おや?
と、わたしは、少年を見ました。
ハンドルをしっかりつかまえ、
少年は、立て直しに、真剣な顔つき
ですが、たしかにそれは、その少年が、
言ったものでした。
すると、ややあって、前方から、
「ごめんなさ~い!」
もう1つの声が、聞こえてきました。
先に行った少年が、後ろの声を
聞きつけたらしく、自転車を止め、
こちらを向いています。たいした
ことでなくて、ほっとしているらしいのが、
声の調子でわかります。
こわばっていた私の表情が、
にわかにゆるみました。何年か前、
ロンドンのある街角で聞いた声を、
思い出したからです。
「エクスキューズ ミー」
ぶつかるよりも前にそう言って、
敏捷に身をかわし、さっそうと
歩み去った少年の、実に
すがすがしい声を...」
日本では、実際にぶつかってしまっても、
ごめんなさい ひとつ言う
ことを知らない人が多い...
と私は、
つねづね思っていましたから、
紙袋をちょっとかすっただけなのに、
ごめんなさい を言った少年たちに
出会い、すっかり晴れやかな気分に
なっていました。
「こちらこそ、ごめんなさい。
こんなところに、立ち止まっていたりして」
声が届けば、私は、そう言いたい
のでしたが、自転車はもう、
両方とも、小さくなっていました。
今日は、れんぎょうでもない、
もくれんでもない、花を見ました、
少年の心が咲かせた、「ごめんなさい」
という名の、たいそう気持ちの
よい花です...。
備考:この内容は、
昭和58-3-31
発行:東京書籍
著者:新川和江
「改訂 新しい国語1」
より紹介しました。