思い返してみると、あれから10年近い歳月が
流れていた。
この間、有津は宗宮佐衣子という名を
忘れることが出来なかった。
普通の知己なら月日とともに
薄れていくのだが、その名前だけはその時々に
鮮明なイメージとなって浮かび上がってきた。
妻と初めて▲吻したときも、●の交渉をもったときも、
あまり多くはない浮気のときにも、彼は
その名を思い出した。
▲■を登りつめて、もうダメだと思う寸前に、
宗宮佐衣子の苦痛に歪んだ白い顔が有津の頭を
かすめていった。●えてしまうと、あれほど求めて
いた欲望が白々しいほどに消え、それとともに、
宗宮佐衣子の顔も、おぼろげになり、もうどう思い
起こそうとしても蘇ってこない。
(露崎先輩がいったように、やはりそんな名前は
聞くべきではなかったのだ)
醒めたあと有津は、きまってかすかな悔いを覚えた。
聞きさえしなければ、いつまでもその名に
引きずられ、思い続けることもなくて済んだはずである。
だが、考えてみると、これは奇妙な錯覚であった。
なぜなら有津はまだ、宗宮佐衣子と逢った
ことも話したこともなかった。肝心の名前もただ
一度教えられただけにすぎない。
それは、有津京介がまだ大学院の学生出24歳の
ときであった。
高校のときにやっていた関係で、有津は大学の
1年目からサッカー部に入った。キャプテンは
経済学部4年の落合だったが、練習中には他の
先輩もよく現れた。
露崎政明は有津より5つ上の先輩で、医学部を出て
3年前に医者になっていた。専攻は婦人科で
あったが、大学病院にいたので暇をみてはグラウンドに
現れ練習を見ていた。
秋であった。その日は朝から雨で練習もなかった。
夕方、有津は、部屋にたむろしていた4~5人
の学生と、雑談をしていた。そこへ、ふらりと露崎が現れた。
入るなり露崎は、部屋を見回した。
彼は、部員の挨拶に軽くうなずいただけで、
しばらくはものを言わず、煙草をふかしていた。部員たちは
少し戸惑い、また前の話に戻った。
「どうだ、君たち、アルバイトをしないか?」
2本目の煙草を吸い終わった時、見計らったように
露崎が言った。
「どんな仕事ですか、先輩?」
どうせ、暇をもてあましている連中である。
彼らは、先輩の周りを取り囲んだ。
「少し変わった仕事だが...」
露崎は、一通り皆の顔を見渡した。
「他の連中には、言わないでほしいんだ」
「言いませんよ、何です?」
先輩の思わせぶりな態度が、若者の興味をそそった。
「実は...」
露崎は皆に顔を近づけ、それから声を潜めて行った。
「キミらの●ーメンをほしいのだ」
「ザー▲ン?」
向かい合っていた竹岡が、素っ頓狂な声をあげた。
「そうだ、●ーメン、●液だ!」
少し、怒ったように言うと露崎は、5人の顔を順に
見回した。5人は瞬間、顔を赤らめた。それから
照れたように互いの顔を見合わせた...。
備考:この内容は、
昭和59-2-25
発行:新潮社
著者:渡辺淳一
「リラ冷えの街」
より紹介しました。