「青函トンネルを掘り抜かせたもの...」
(角谷俊雄 青函トンネル元トンネルマン)
青函トンネルの命がけの掘削作業も、だいぶ
進んだ昭和50年代。昔から可愛がられて
いた青年のA君も、作業機械に挟まれるという
悲惨な事故で●くなりました。
A君は、角谷班で、
1年ほど働いた後、別の班に異動
していたのですが、ある日、私のもとを突然、訪ねて
きたんですよ。写真を見せて「俺、結婚したよ」って。
それで私が、「もう、1人じゃないんだから、
がんばれよ!」と、肩をぱんぱん叩いたら、
彼の「はいっ!」と返事をしてくれました。
翌年には、子供の写真も見せに来てね。その年
のことでした。
夜、私が自宅で休んでいた時に、
現場から、連絡を受ける直通の電話機が
鳴ったんです。これが鳴ると、たいてい良いことは
ありません。それで、「A君が、大怪我をしたよ」と。
私は、すぐに搬送された病院に駆けつけた
のですが、すでに、息を引き取った後でした。
子どもを連れた奥さんが、A君に泣きすがる姿は
今も忘れることはできません。
先進導坑貫通は昭和58年1月。いよいよ
青森側の先進導坑と、つながる(貫通する)
という日、最後の爆破を任されたのは、
私たち角谷班でした。
その日、私は、水風呂で身を清め、
新しい作業着でトンネルへ向かいました。
胸ポケットには、●くなった同僚3人の写真を
入れてね。最後は、当時の中曽根首相が首相
官邸から電話回線を通じて、スイッチを押すという
仕組みになっていました。
失敗は、許されませんので、とても緊張
しましたが、中曽根首相が
スイッチを押すと、爆音とともに、壁が崩れ、
無事貫通することができました。
その後、先進導坑の後から掘り進めてきた
「本坑」も、昭和60年に全貫通し、昭和62年
11月に、青函トンネルは貫通しました。
掘削開始から、20余年の歳月が流れました。
完成したときは、当然うれしさはありましたが、
その一方で、非常に複雑な感情も込み上げて
きましたね。
何十年も掘ってきて、その
途中で、友は失う、怪我人も出る。障害が
残った人もいる。悲しい、苦しい、もう酷いと
いうものじゃない。人間ここまで、苦しまないと
行けないのか? と思うくらい苦しみました。
結局、作業中に●くなった人は、北海道側、
青森側の作業員合わせて 34人に上ります。
また、青函トンネルが完成したことで、
北海道と本州をつなぐ 主要な輸送手段だった連絡船が
廃止になり、多くの方が職を追われました。
もちろん、青函トンネルで働いていた人も同様です。
(北海道)新幹線が開業し、注目を、
集める青函トンネルですが、そのような現実の
上に完成したということだけは、忘れないで
ほしいと願っています。まさに「闘魂」という
2文字がなければ、青函トンネルは、絶対に
貫けませんでした。
海の下を掘っていくというのは、自然との闘い、
はっきり言って「命懸け」ですよ。自然と
人間、どちらが勝つか、負けるか。
だから、一時も気が休まる時がない。毎日が命懸けの
闘いの連続でした。そして、そのような闘いに
勝って物事をやり遂げるには、まず忍耐力、
それから絶対に弱音を吐かないこと。冷静で
あること。
自分の中で弱音を吐いたら負けです...。
「第2青函トンネル構想...」
備考:この内容は、
令和4-3-25
発行:致知出版社
「1日1話、読めば心が熱くなる
365人の生き方の教科書」
より紹介しました。