美里たちに卓哉を引き取ってもらおうと
考えた時、舞子はやっと大原に「いっしょに行く」
と返事をした。一度、口に出してしまうと、
心は決まった。
男と暮らすために母親が自分を捨てたと
知ったら、きっと卓哉は私を恨むだろう。でも舞子に
とっては、その方がよかった。
恩着せがましく
「あなたのためを思って」などと言ったら、
卓哉はずっとそのことを 気にして生きる
ことになってしまう。憎んで恨んで、そしていつか
忘れて、美里たちのもとで不自由なく
暮らしてくれればいい。
自分のようなこわい顔や、しかめっ面でなく、
美里や義弟のように木漏れ日の
ような笑顔を浮かべる大人になってほしい。
自分の荷物をボストンバッグに詰め込み、
美里に手紙を書く。
卓哉名義の通帳を用意し、
美里が持っていきやすいよう卓哉の、冬服を
カラーボックスにまとめた。1週間でそんなコマゴマと
した準備をするうちに、自分のした選択は
正しいのだ、という気がしてきた。美里への手紙は、
何度も便箋を丸めては 書き直した。
「卓哉が風邪気味のときは、ホットレモンを
飲ませてください」
「卓哉は ほうれん草が嫌いだけど、
ミキサーにかけてスープにすれば大丈夫です!」
そんなことばかり書きたくなって困ったが、
サンザン悩んで仕上がったのは、実にそっけない
文面だった。母親を、廃業する自分からの
申し送りなど、美里には重荷になるだけかもしれない。
だから、卓哉にも別れの手紙は書かないことにした。
自分は最後まで、最低の母親でいるのが
正しいのだ、きっと。
「ほら、お肉が煮えてるよ」
せっかくのシャブシャブなのに、卓哉は
目をうっとり閉じたまま、モグモグ噛んでいるばかりで、
ちっとも次の肉を取ろうとしない。
舞子はもどかしくなって、煮立った鍋にドンドン肉を、
くぐらせて卓哉のつけダレに入れてしまう。
「味わって食べろって、いつも言うくせに、
舞子は食わないのかよ!?」
「お母さんは、野菜が食べたいからいいの」
今日が最後なのだから、もっと、もっと、
旺盛な食欲を見せて欲しい。そんな風に願って
しまうのも自分のわがままなのだろうか?
舞子は思わず、トイレに立ったふりをしてこぼれ落ちかけた
涙を拭った。
そんな夕飯の時間も終わり、
風呂から上がった卓哉が眠ってしまうと、家の中は急に
静まり返った...。
この家は、こんなにし~んとして
いただろうか?
明日の朝、こんな静けさに迎えられて目覚める
卓哉は、寂しくないんだろうか?
美里への手紙は、ここに置いていくつもりだが、朝になったら
「卓哉を迎えに行って」ぐらいは、
電話で知らせたほうがいいかもしれない。その理由を
どうやって説明するのかも 考えられないまま、
卓哉が寝返りを打って横を向いてしまうまで、その寝顔を
見つめながら、とりとめもなく思いをめぐらせる。
そして、息子に呼びかけた。
ごめん、卓哉。
こんなやり方しか、できなくて...。
アパートのドアを閉め、できるだけ音がしないように、
鍵をかける。ボストンバッグが思いの
ほか軽くて、舞子は 拍子抜けしてしまった。
息を潜めるように歩いていたら、すぐに私鉄の
駅に着いた。これなら、始発の新幹線に十分
間に合いそうだ。
舞子は切符を買おうとボストンバッグを
開けた。財布や貴重品の入ったポーチも、バッグに
まとめて入れてある。ジッパーを引いて、
ポーチを出そうとしたとき、カラフルな色使いの
布が目に入った。
「あのハンカチ」だ。
どうして、ここに入っているのか?
そこで舞子は、昨日のことをはっと思い出した、ゆうべに
限って卓哉の新しい下着を出し忘れてしまって、
風呂上がりの卓哉が、自分で出さなければ
ならなかった。ボストンバッグは押入れの
奥に隠しておいたけれど、下着やパジャマを
探しているうちに、何かの拍子に見つけて
しまったのかもしれない。
卓哉の寝顔が、よみがえってきた。いつも
布団を はいでしまうのに、昨日はやけに寝相がよく
いびきもかかなかった。そして舞子が、こらえきれずに
小さく嗚咽をもらしかけると、卓哉は目を
閉じたまま、顔をそむけてしまった...。
卓哉は、きっと知っていたのだ!
母親が家を出ていこうとしていることを! そして、自分を
置いていくつもりでいることを!
それを知って、卓哉はこのハンカチを、バッグの中に入れて
くれたのだ。
モグモグと、肉を噛んでいる幸せそうな顔。
ちょっとわがままを言うときの口をとがらせた顔。
そして、ハンカチをポケットに入れるときの、
あの生意気な笑顔。舞子が怒っても、わけも
なくイライラをつのらせても、卓哉はいつも
そばにいてくれた...。
ごめん、卓哉...。
舞子はもう一度、卓哉に呼びかけた。
やっと射してきた朝の光が視界の中で滲んでいく。
拓哉はたぶん、美里たちに育てられた
方が幸せなのだろう。カツカツの暮らしをしなくて
済むし、両親が揃っている方がいいに
決まっているのだから。でも...
私は卓哉が一緒に
いてくれないと、やっぱりやっていけない。
だから卓哉、もう一度、母親になる
チャンスを私にくれる?
眉間のしわや、しかめっ面から
卒業して、卓哉と一緒に楽しく笑える
ように頑張るから...。
舞子はあふれてくる涙を、派手な
色使いのハンカチで拭き、それを握りしめたままアパートへ
向けて走り出した。
部屋のドアを開けたら、卓哉が眠っていても起きていても、
思いっきり抱きしめて、何度でも、謝りたかった...。
備考:この内容は、
2009-5-2
発行:泰文堂
印刷・製本:廣済堂
編著:リンダブックス編集部
企画・編集:リンダパブリッシャーズ
原案:水森野露
小説:田中夏代
「99のなみだ・風
涙がこころを癒やす短編小説集」
より紹介しました。