O津高校に転校した私は、バレー部の
同級生の家のすぐ、向いにある
アパートに部屋を借りて、ひとり住まいを
することになった。その同級性のお母さんが、
私の食事や洗濯などの面倒を、
見てくれるという。私にとっては、とても
ありがたい環境だ。
最初のうちは、同級生と一緒にその子の
家に帰ってご飯を食べていたが、
練習が遅くなった日などは、食事だけを
もらってアパートの部屋に帰ってきて、
そのまま寝てしまう、なんていうことも、
多くなっていった。練習はそのくらい、
きついものだった。
O津中学バレー部の練習は、休みなく、
每日ある。放課後、午後4時くらい
から、7時半か、8時くらいまで。1日の
練習時間だけを見れば、普通の学校の
部活と、それほど大差はないように思える。
でも、中身がぜんぜん違った。
最初に練習見学に来たときにも、
感じたけれど、それまでのバレーボールとは
レベルが違う。だから、とにかく必●で
ほかの部員について行こう、ついて
いかなきゃって、それだけを考えていた。
厳しさもハンパじゃない。少しでも気を
抜こうものなら、すぐにコーチの罵声が
飛んでくる。
走り込みもきつい。ちょっとでも、
ダメなプレーをすると、すぐに
「走ってこい!」
と言われて、コートの周りをひたすら走る。
コートに入って、また、ダメな
プレーをしたら、「もう5周!」と。
そんなことは、本当に日常茶飯事だ。
もちろん、ダメなプレーをしたときには、
厳しいワンマン(コーチと選手が
1対1で行うレシーブ練習)もあった。
どこまでもボールを追いかけて、それが
取れなければ、取れるまで何度でも
同じようにやらされる。自分の吐く息の音
だけしか聞こえなくて、目の前が
クラクラするなんてことも、しょっちゅうだった。
それだけじゃなくて、ビンタが
飛んでくることも。内容の悪い試合を
すれば、怒られる。
「痛い」とか「ツライ」とか、
そういうことを口に出すことさえ、
はばかれるような雰囲気だった。
まるで、スポーツ根性もののマンガみたい。
それが、毎日なのだ。
バレーボールをやっていること自体は、
決してイヤではない。ほかの生徒との
レベルの差を感じていたから、
自分自身は必●だったし、先輩や同級生
みたいに上手になりたいって、ボールに
しがみついていた。
だけど、本当に初めて
経験する厳しさに、私はいつしか、
バレーボールをやっていて笑うということを、
忘れていった。試合で1本、
強烈なスパイクが決まったとしても、それで
うれしいなんて思うこともなかった。
父も母も、一緒に練習見学へ行ったから、
すぐにダメだって帰ってくるんじゃ
ないかと思っていたようだ。また、
O津中学の先生たちも、転校してきた
のはいいけれど、やっぱり帰ってしまうのでは
ないかと思っていたみたいだったし、
島でのんびり育った子どもだから、
やっぱり無理なんじゃないかって。
「いつでも、帰ってきんさい」
母は、ことあるごとに、私にそう
言っていた。
ひとり住まいを始めてから、両親が
携帯電話を持たせてくれた。家の電話と
私の携帯電話が、家族をつなげてくれる
唯一の手段だったのだ。每日、練習で
電話をかけるのもツライくらいに
クタクタに疲れてしまっているけれど、
それでも、やっぱり声を聞きたくなったりする。
でも、自分から連絡することは、
ほとんどない。そんな私に母はいつも
「帰ってきたって、いいんよ」と
言い続けてくれた。
試合の日には、両親が必ず見に
来てくれた。そのときには、両親が私の
小さなアパートに泊まって、3人で川の字に
なって寝ることもあった。そうやって
楽しいひとときを過ごした後、
両親が帰ってしまうときには、さすがにちょっぴり
ツライなと思うこともあった。
それでも練習づけの每日だったから、
ホームシックにかかる暇もなかった感じだ。
ツライ毎日だったけれど、それでも、
最終的に島に帰ろうとは思わなかった。
バレーボールがやりたいって、
ここに来たんだから、自分で決めたんだから...。
意地だったのかもしれない。
近畿大会などでは常勝チームだったけれど、
私が3年生で出場した全中では、
結局1回戦を勝ち上がったところで
敗退して
、ベスト16くらいという成績だった。
なんだか、ひどい負け方をした
ということだけが、記憶に残っている...。
備考:この内容は、
2008-5-17
発行:実業之日本社
著者:栗原恵
「めぐみ MEGUMI」
より紹介しました。