【急に降り出したひどく激しい雨】
その業界では、営業一筋で生きてきた
千葉さんは語る...。
「夏の盛りでした。うだるような暑さのね。
得意先に行った帰りに、突然、雷雨に
遭いましてねぇ...」
京都市内とその周辺を受け持つ彼は、
車に弱いこともあって、めったに営業車を
使用することは、ない。
営業の際は、
もっぱら電車、地下鉄、バス、そして徒歩で
得意先まで赴くのであった。
時代錯誤の
ようでもあるが、どの都市でも駐車禁止に
対する罰則が強化されつつある昨今、
千葉さんのポリシーはコスト安で、かつ時代を
先取りするものであったかもしれない。
それはともかく。その日も千葉さんは、
●●電鉄も、某駅から徒歩で得意先に
赴いた。用向きをすまして辞去し、再び駅に
向かって、数分ほど歩いたところだった
という...。
「今の今まで、かんかん照りだったと
いうのに、暗くなったなぁ...
と思ったとたん、
大粒なのがバラッときましてね。
ええ、見る見るうちに
アスファルトの上に
染みができていくんですよ。肩や頬にあたったら、
冗談抜きに痛いくらいの勢いでね。
雷も、遠雷なんかじゃぁ、ない、もう、
いきなりですよ...」
彼のいる場所から駅までは、まだずいぶん
距離がある、得意先に引き返すにして
も やはり、その間に、ずぶ濡れになることは
明らかであった。
営業まわりの心得と
して折りたたみ傘は、
カバンの底に入れていたけれど、
そんなもの、何の役にも たたない
本格的な、どしゃ降りになりそうだった...。
千葉さんは、両側に、京都特有に間口が
狭い民家の並ぶ、細い裏通りにいた。昨今は
古い民家を取り壊しては、マンションが
出来あがる ご時勢だが、まだまだこんな
通りも残っている。
進退極まった千葉さんは、どこか
雨宿りをする場所はないものかと、周囲を
見回した...。
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夏の盛りだと言うのに、視界に入る家は皆、
戸口が固く閉まっている。身を寄せられ
そうな、張り出した軒先もないようだ。
民家が並んでいるといっても、見ず知らずの
家の戸をどんどんと叩き、チャイムを
鳴らしてまで、雨宿りを頼み込むわけには
いかないだろう...。
ザーーーーーッ!
ためらっている間にも、雨勢は、容赦なく
増してくる。
(どうしたものか...?)
すると、背後を見た千葉さんは、
そこに細い通りよりも、はるかに細い路地が口を
開けているのに気がついた、そこから、
トタン塀が、奥に伸びているのだが、一角に
隙間があって、ガラス戸がのぞいている。
で、その戸が半分ほど開いて
いるのだ...。
(しかたない)
千葉さんは、思わず路地まに走り込み、
そのガラス戸の中に、飛び込んだ。
ふだんなら、そんな非常識な真似は
しなかったろう。仮にも他人様の
家だ。
軒先を借りるだけならまだしも、
屋内に、見ず知らずの男がいきなり駆け込ん
できたなら、家人は、驚くだろうし、泥棒と
叫ばれても、文句は言えないというものだ。
「大事な書類がありましてね。もう濡らしたくない
一心でした。軽はずみだったと
思っています、...いろいろな意味で...」
千葉さんは、そんな奥歯に物の はさまった
みたいな言い方をするのだった。
【突然、頭の上から降ってきた声...】
話を戻そう。
ザ~ッ........。
ガラス戸の中に飛び込んだとたん、
千葉さんは、自分の耳がおかしくなったので
はないか、と思った。
あれほど、ひどかった雨粒が、地面を叩く音、
軒から滝のように落ちる音と、そして
鳴り響いていた雷鳴...。
それらが、ぷつっと、途切れるようにして、
ほとんど聞こえない。
まるで、高層ビルで、エレベーターに
乗ったような感覚だったそうだ。耳がツーン
として、鼓膜がおかしくなり、周囲の物音が
聞こえなくなる...。
間一髪で、肩先や頭を、多少濡らす程度で
済んだ千葉さんは、背後を見た。
ガラス戸...それは、曇ガラスの入った
木の引き戸だったのだが...
その隙間からは、
どしゃぶりの路地がのぞめる、
けれども、それは、
なんだか、とても遠くに
見える...?
(耳だけじゃぁ、ない。目まで、おかしく
なったようだ...)
...
暑気あたりなのだろうか? 営業まわりの
心得として、普段から水分や休憩
には、気をつけているつもりであったのだが...。
千葉さんは、目をしばたいて、今度は
屋内を見た。そこは...
土間であった。
急に、明るい外から家の中に入ったせいか、
奥のほうはよく見えない、京都の
家屋は間口は狭くても、奥行きがあるものが
多いのだが、この家も、そうなのだろうか?
とにかく...古い家であった。古くて、
そして小汚い、第一印象はそうだった。
やがて、目が慣れてくると、土間は、かなり広く、
上がり口のすぐ向こうに、やはり
木の引き戸があって、閉じ込められているのが
見てとれた。引き戸は、くすんで、
真っ黒だ。
(なるほど、これでは奥が見えないわけだ)
それほど、物音を立てたつもりはないが、
突然の闖入者にも、誰も顔を出す様子が、
ない。家人は留守、なのだろうか?
それにしても。だ、ガラス戸が開いていたのが
解せないが...?
(そう言っても、自分は雨宿りさえ
させてもらえばいいのだ。このまま雨が
止むまで、っておいてもらえれば、これほど
ありがたいことはないのだが...)
そんな勝手なことを考えながら、ハンカチを
取り出し、肩のあたりを拭っていた
千葉さんは、土間の片隅になにか...
光る
ものが落ちていることに気づいた。
(何だろう...?)
近寄ってみると、それは...ハサミであった。
洋裁に使う上等の裁ちばさみでもなければ、
和ばさみでも、ない。小学生が学校に
持ってくるような...いや、もっと愛想が
なく安物の、金属製のハサミなので
あった。
それが、ガラス戸の向こうの外の光を
反射して、鈍く光っている...。
「...
いけませんねぇ。ひどい雨だ...」
千葉さんは、冗談抜きに飛び上がりそうに
なった。突然、頭の上から声が降って
きたのだ。ねっとりとした声が、いったい、
いつの間に、そこに来たのだろう?
引き戸が開く気配はもちろん、足音も
何もしなかった。
なのに、あがり口の引き戸の前に、男が1人、
立っているのである、
「それがね。今、思い出しても、あれは...
あの男は、ふつうじゃありません
でしたよ」
どういう意味なのか...?
「背が高くて、そして、着ているものは、
”作務衣”でした。あぁ、ご存じない?
私は、営業エリアが京都ですから、おなじみ
なんです。こう、お坊さんが、切る作業着
みたいな、こざっぱりとした服で...
その男も、
家の小汚さに反して、清潔な印象で
した。ただ、あの顔。あんな顔は...
見たことが、ない」
襟元から伸びている首は、青白く、そして、
恐ろしく長かった。そして、その
上には、小さい頭がある、毛が1本もない頭だ。
顔はといえば、耳や鼻や唇といった凸凹が、
ほとんどないような、のっぺりと
した顔面であった。
そのかわりに目だけが、すさまじく...
すさまじく大きいのだった。ぎょろりと、
むき出され、まばたきもせずに、千葉さん
のほうを
凝視している...。
「かまきり、だと思いました。わかりますか?
かまきり...虫のかまきりです。
私が一番に連想したのは、それでした。
あぁ、あんなに、かまきりそっくりの
顔は、後にも先にも お目にかかったことがない...」
備考:この内容は、
2009-7-5
発行:KKベストセラーズ
著者:さたなきあ
「とてつもなく怖い話」
より紹介しました。