天井から下がったコードに笠のついた
電球があって、スイッチを入れると、
カチッ!
と、小さな音を立てて、黄色みを帯びた
明かりがついて、そこは、8畳の和室で、
箪笥と、戸棚と鏡台があった...。
「ここ、人が住んでるのかなぁ?」
と、Eさんが言うと、
「そりゃないだろう。台所だって、
使っている様子もないし、鍋も食器もないん
だから」
と、お兄さんが言った。
そうして、掃除をして、家具や
家財道具が
所定の場所に収まって、ふっと
ひと息つく頃には、陽も落ちて、
外はもう夜の闇...。
「なァ。腹が減ったなァ。食事に
行かないか?」
と、お兄さんが言ったんで、
「ああ、そうしようか」
と、2人が、ぶらぶらと歩いて、
表通りに出ると、古い食堂があったんで、
入ってテーブルにつくと、
「そうだ。あいつどうしてるかなぁ...
電話してみるか?」
と、お兄さんが言って、
「すいませ~ん。電話、貸してください」
と、食堂の電話を借りて、奥さんの実家へ
電話した。
この当時は、タバコ屋さんとか、食堂で、
お客さんが、
「すいません、電話、貸してください」
と、断わって、店の
電話を借りることは、普通だったんですね。
で、電話が終わると、店の人に代わって、
電話局から、料金を聞いて、客が払う
わけなんですが、それが、後に、
タバコ屋さんとか、食堂に公衆電話が置かれる
ようになるんですね。
で、お兄さんが、電話を終えて、
テーブルに戻って来ると、
「今しがた、カミさんが産気づいて、
母親が、付き添って病院に行ったっていう
から、食事済ましたら、このまま病院へ
向かうからさ、あと頼むよ。で、
何かあったら、カミさんの実家の方へ
電話でも、電報でもよこしてくれよ」
と、言って、食事を終えると、
さっさと行ってしまった。
1人、残されたEさん。
食堂を出ると、ぶらぶら歩いて、
酒屋を見つけたんで、酒を買って、また
ぶらぶらと二股の道までやってくると、
昼でも薄暗いこのまま道が、
夜ともなると、一段と暗さを増して、
黒々とした大きな木々の枝葉が、
覆いかぶさってきて、
まるで明かりの無いトンネルの中を、
歩いているようでした...。
緩やかな坂道を、登って屋敷の角を、
曲がると、塀と塀に挟まれた路地の
突き当たりに、夜空を背景に、2階建ての
黒い輪郭が見えた。
明かりは、あるんですが、
屋敷の角を曲がった路地の、入り口に電柱から
突き出た笠をかぶった電球の明かりが
ひとつ、わずかに辺りを照らしている
だけ。酒瓶を抱えて、歩いていくと、
カッ、コッ、カラン、コンッ
カッ、コッ...
下駄の音がして、不意に闇の中から、
女が現れたんで、びっくりした。
暗くてよく見えないんですが、
着物姿に髪を結って、鼻の辺りまで
ショールを巻いているんで、黒髪の下から
目だけが、のぞいている。
距離が近づくと、年の頃は、
おそらく30前後の、中年増といった感じの
垢抜けした女で、つくりからして、
どうやらカタギじゃないらしい、
で、すれちがった瞬間、
(...いい女だなぁ)
と、思ったんですが、
(あれ!? この女、どこから来たんだ?
路地の両側は、高い塀で、突きあたりは、
自分の帰る家があるだけだし、
ここは、袋小路で通り抜けできないよな。
ということは、この家から出て
来たのかな?)
と、振り向くと、
(あれ!? いない!)
闇の路地があるだけで、女が
消えちゃった。
(おっかしいなァ...
どこ行ったんだ?)
妙な気がしたんですが、そんまま
家に帰ると、庭に面した下の座敷に布団
を敷いて、枕元に電気スタンドを
置くと、腕時計をいつでも見れるように
わきに置いて、上着を脱いでから、コップを
持ってきて、買ってきた酒を注ぐと、
1人で、ちびちびと始めた。
そうして、時間が過ぎていって、
まぶたも、重くなってくると、やがて、
うつらうつらと眠気を催してきた...。
時計を見ると、夜中の12時を
回ろうとしている。
(...もう、こんな時間かァ...)
で、明かりを消して、横になって
半ば眠りに入りかけた頃、
カラッ、コッ、カッ、コッ、カッ、
コロン、カラン...
静けさの中で、下駄の音が路地に
こだまして、次第に大きくなって、
近づいて来る。
(ん!? あの女か?)
眠りかけた意識の中で、それが
家の中に入ってきた。
(...2階に上がっていったなァ...)
と、思いながら、眠りに落ちた...。
備考:この内容は、
2022-7-21
発行:リイド社
著者:稲川淳二
「すご~く怖い話」
よりしょうかいしました。