名取佐和子著「板垣さんのやせがまん」...その1 | Q太郎のブログ

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残りの部分を持って自宅のソファーで寝ている男 - ソファの ...

 

 

 

 板垣さんは、たてつづけに、くしゃみを

 

して目覚めた。

 

 

 

 鼻をすすり、伸びをする。もうだいぶ日が

 

高い。体が痛いのは、キッチンの床の

 

上で寝てしまったせいだろう。頭が痛いのは、二日酔い

 

のしるしだろう。ひとりで深酒なんて

 

何年ぶりだろうか? 板垣さんは、寝癖のついたごましお

 

頭をかきつつ、腹まわりの気になる

 

我が身を見下ろした...。

 

 

 

 

 モーニングタイは、はるか彼方に

 

投げ飛ばされ、ワイシャツのボタンも2つほど、なくなって

 

いる。醜態だ。

 

 

 

 荒井のご主人から借りた

 

モーニング。ベスト、ズボンの3点セットを酔っ払う

 

前に脱いで、きちんとハンガーにかけて

 

おいたことが、せめてもの救いだった。

 

 

 

 

 

 板垣さんは、冷たい水で、じゃぶじゃぶと

 

顔を洗い、ついでに歯磨きもしてから、寝室に向かう。

 

寝なおすわけではない。そこに置かれた

 

仏壇の前まで挨拶に行くのだ。灯明をつけ、線香を焚いて、

 

手を合わせる。

 

 

 

「よぅ。腰の重い娘が、やっと片付いたぞ...」

 

 

 

 仏壇の脇に置かれた写真立ての中で、

 

奥さんの早苗さんが笑っていた。35歳で時間を

 

止めた愛する人の前で、板垣さんは、そわそわと

 

寝癖をなおす。

 

 

 

「まあ、喜んでやれ」

 

 

 

 写真の早苗さんは、変わらず笑顔のままだ。

 

「おとうさんもね」となつかしい声が響いた気が

 

して、板垣さんは肩をすくめる。

 

 

 

「俺は、せいせいしたよ」

 

板垣さんの、やせがまんは、割にバレやすい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 熱いシャワーを浴び、爪先までしみこんだ

 

酒を払って出てくると、リビングのほうから、

 

クーンクーンと鼻を鳴らす声がした。見れば、

 

茶色い毛の小さなムク犬が、ケージの中で

 

伸び上がるように、2本足で立っていた...。

 

 

 

「よぅ、しゃもじ、メシの時間だな?」

 

 

 

 板垣さんが、もったいぶってケージの扉を

 

開くと、

 

「しゃもじ」と、名付けられたイヌは、のんびり

 

体をゆすりながら出てきた。クンクンと

 

ひたすら鼻を動かしながら、板垣さんに近づく。

 

 

 

 板垣さんは、「しゃもじ」を抱き上げて、

 

キッチンに入り、ぐるりと見渡した。

 

 

 

 

 食器棚、シンクの下の引き出し、床下収納庫、

 

ありとあらゆる収納場所にラベルシールが

 

貼られていた。それぞれに「片手鍋」「蒸し器」

 

「中華調味料」「缶詰」など、几帳面な文字が記さ

 

れている。キッチンに不慣れな板垣さんの

 

ために、娘の美沙子さんが残していってくれたのだ。

 

 

 

 

 板垣さんは、老眼鏡をかけて「ドッグフード」の

 

文字を探す。視界がはっきりすると、美沙子

 

さんが貼ったラベルシールの下や横に、

 

別のシールをはがした跡がうっすら見えて、

 

板垣さんは、少々せつなくなる...。

 

 

 

 

 

 23年前、板垣さん家は、キッチンだけで

 

なく、すべての部屋がラベルシールだらけだった。

 

心臓の手術をすることになった早苗さんが、

 

入院前日の夜中までかかって貼ったのだ。

 

 

 

 

「これで大丈夫。私がいなくても、

 

探しものは、見つかるはずよ」

 

そう言って、誇らしげに笑った早苗さんを、

 

板垣さんが怒鳴りつけた。

 

 

 

 

「バカヤロー、楽するんじゃねーよ。

 

とっとと治して帰ってこい」

 

 

 

 

 板垣さんは、知っていた。早苗さんの手術の

 

成功率が、限りなく低いことを...。それでも、また

 

家族3人で、暮らせる可能性を信じたかったのだ。

 

信じなきゃ、やってられなかった。

 

 

 

 

 早苗さんもまた、自分の手術が難しい

 

ことを、知っていた。妻としては、夫の胸で思いっきり

 

泣きたかったことだろう。けれど、早苗さんは、

 

10歳になったばかりの娘の母親でもあった。

 

最悪の事態に備えつつ、冷静に、そして朗らかに、

 

娘と接し続けた...。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おとうさんを、よろしくね」

 

 

 

 

入院する日の朝、板垣さんには内緒で、

 

早苗さんは、小さなノートを美沙子さんに手渡した。

 

ノートには、早苗さんがふだん、作っていた何気ない、

 

でもちゃんと板垣さん好みの、味つけに

 

なっているレシピが、たくさん載っていた。

 

 

 

 

 『ドッグフード』は、炊飯器が載ったワゴンの

 

一番下の段にあった。板垣さんは、「しゃもじ」用の

 

食事マットを、所定の位置に敷き、その上に

 

飲水とお湯でふやかした、ドッグフードを出して

 

やる。食事の回数や与え方、「待て」「よし」の

 

号令まで、すべて美沙子さんに、教わったとおりに

 

やった...。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 「しゃもじ」のスローペースな食事が終わる頃、

 

チャイムが鳴った。玄関を開けると、荒井の

 

奥さんが、小さな鍋を抱えて立っていた。

 

 

 

「あぁ、起きてたの? 新聞そのままだったから、

 

まだ寝ているんじゃないかと思ってた」

 

 

 

甲高い早口で、まくし立てながら、朝刊を

 

渡してくれる。

 

 

 

荒井夫婦が、美沙子さんの仲人をして

 

くれたのだ。

 

 

 

 

「仲人ってガラじゃないし...」

 

と、尻込みをする

 

夫婦の前で、美沙子さんは手をつき

 

「どうしてもお願いしたい」と、譲らなかった。

 

 

 

「私と、おとうさんを、ずっと見てきて

 

くれた人たちだから...」と。

 

 

 

 

 そして、式当日、荒井夫婦は新調した

 

紋付き袴と黒留め袖でもって、無事大役を果たして

 

くれた。奥さんは、美沙子さんの門出を喜んで、

 

参列者の誰よりも一番先に泣いてくれた。

 

 

 

「いい式だったわねぇ。飛行機はいつ出発なんだい?

 

見送りに行かなくていいの?」

 

 

 

「行きませんよ。ガキじゃあるまいし」

 

 

 

そう言って、肩をそびやかした板垣さんに、

 

荒井の奥さんは、微笑んでうなずく。

 

 

 

「どんな国でも、美沙子ちゃんなら、

 

うまくやっていけるよ」

 

 

 

 板垣さんが、口に出せない不安を、奥さんは

 

ちゃんとわかっていた。励ますように、板垣さん

 

の背中をパンとはたき、持ってきた

 

鍋を突き出す。

 

 

 

「はいこれ、卵雑炊」

 

 

 

 式場では、ほとんど酒に口をつかなかった

 

板垣さんが、夜ひとりになった家で、したたか

 

飲みつぶれたことなど、お見通しらしかった...。

 

 

 

「作り過ぎちゃったんでね。と、付け足して

 

くれるところが、荒井の奥さんのやさしさだ。

 

 

 

 板垣さんは、「助かります」と受け取って、

 

帰っていく奥さんの背中を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 早苗が○んだとき、真っ先に駆けつけて

 

くれたのが、商店街の小さなマーケット

 

『スーパーアライ』を切り盛りする荒井夫婦だった。

 

 

 

彼らの娘が美沙子さんと同級生ということも

 

あって、以来、何かと気にかけてくれた、

 

 

 

そして、気にかけるゆえ、口を出して来ることも多かった。

 

 

 

 結婚してからずっと、下町の濃密な近所

 

付き合いを早苗さんに、任せてきた板垣さんである。

 

 

 

 最初は、夫婦のやさしさが、おせっかいに思えて、

 

なかなか素直に耳を傾けられなかった。荒井の

 

奥さんが、時折持ってきてくれる手料理も、

 

同情の押し売りに感じていた。

 

 

 

 

 

 早苗が○くなって、2年が経ったころ...。

 

 

 

 

 

 

 

備考:この内容は、

2011-1-9

発行:泰文堂

編著:リンダブックス編集部

「99のなみだ・空

涙がこころを癒す短編小説」

より紹介しました。