”ああ、飛騨が見える・・・”。厳しい冬
将軍があたりを、覆い尽くそうとする頃、
野麦峠の頂上で、「みね」という名の製糸工女が、
小さくつぶやきながら○んだ。
口減らしのために、岡谷の製糸工場(キカヤ)へ
でかせぎに行き、病のため貧農の実家へ
連れ戻される途中だった・・・。
過酷な労働と、折檻に耐え、流行の
赤いリボンとも、無縁の青春を過ごした
「みね」が、見つめていたものは何か・・・?
・・・明治政府が、強力に推し進めていた、
生糸を軍艦に変える富国強兵政策を
底辺で担ったのは、「みね」のような無数の
女工たちであった。これは、彼女たちの
青春に捧げる哀歌であるとともに、
数百の聞き書きによって、浮き掘りにした
素顔の日本近代史である。
戦後ノンフィクション屈指の名作!
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【文明開化と野麦峠】
地図にないノウミ峠
日本アルプスにの中に、「野麦峠」と
呼ばれる古い峠道がある。
かつては、飛騨と信濃(岐阜県と長野県)を、
結ぶ、重要な交通路であったが、今では、その土地の
人にさえ、忘れ去られた道になっている。
また、「野麦」という名から、人は野生の麦の
ことを思うらしいが、実はそうではなくて、
峠一面をおおっている、「クマザサ」のことである。
10年に1度位、平地が大凶作と騒がれるような
年には、このササの根本から、か細い稲穂のような
ものが現れて、貧弱な身を結ぶ。これを飛騨
では、「野麦」といい、里人は、この実をとって、
粉にし、ダンゴをつくって、かろうじて飢えをしのいで
来たという。
「笹に黄金が、なりさがる」という東北の民謡と
同じもので、峠の呼び名も、おそらくそこから
出たものであろう・・・。
・・・もう、だいぶ古い話になるが、僕は、
○んだバアさまから、よく、この野麦峠の話を聞いた。
もっとも、バアさまは、これを、「ノムギ」とは発音せず、
いつも、「ノウミ」と言っていたから、後で
日本アルプスの地図を広げて、いくら探しても、
どこにも、そんな名の峠は見つからず、
閉口したことを覚えている。
何でも、バアさまの話によると、そのクマザサ
に、おおわれた峠を、幾千幾万ともしれない
おびおただしい数の飛騨の糸ひき(製糸工女)
たちが、50人、100人と、
群れをなして超え、島島谷
(上高地登山口)、へ下って、
そこから諏訪湖畔の岡谷、
松本、上田、佐久方面の工場へ
向かった。
若い娘たちのこととて、その賑やか
さは、まるで、5月のヒバリのようで、騒々しく
も、はなやかにも見える行列が、幾日も、幾日も、
峠から、岡谷や松本へ続いた...。
みんな髪は桃割れに、赤い腰巻きをつけ、
ワラジばきに、木綿のハバキ、背中に荷物を袈裟
掛けという、いでたちで、5月春びきが終わる
と田植えに帰り、またすぐ、夏びきに出かけ、
暮れ迫る12月末には、吹雪の峠路を飛騨へ帰って
いったという。
しかし、避妊具も、普及していなかった当時の
ことで、数多い女達の中には、身ごもって帰る
女も少なくなかったらしい・・・。彼女らは、
誰にもそれを、打ち明けられず、小さな胸を痛めながら、
みんなの後ろに続いていくが、険しいアルプスの峠道は、
あくまで非情に、これをはばみ、脂汗をにじま
せ、よろよろと列をぬけて、ササややぶにうずくまり、
そこに赤黒い肉魂を産み落とした。
さいわい
丈余のクマザサは、この女のみにくい苦悶を、
やさしく包容してくれたが・・・。
やがて、肉魂は、
赤い腰巻きにつつまれたまま、
ササの根本にほうむられた。
くる年も、来る年も・・・。
そして、誰かが、いつごろ建てたものか、
知るすべもないが、そこに小さな地蔵様が建ち、
誰とはなく、「野産み峠」というようになったと、
これは、バア様の話である。
明治から大正にかけて、国鉄高山線が開通
(昭和9年)するまで、これは、飛騨と信濃を結ぶ
交通路の野麦峠にまつわる哀話である・・・。
備考:この内容は、
昭和55-3-30
発行:角川書店
著者:山本茂実
「ああ野麦峠」
より紹介しました。
(感想)
う~む。筆者は、このときの
「大竹しのぶ」さんの涙を誘う演技が、
今でも・・・、思い出せません。
きゃは!
Qちゃん、
しっかりと、
思い出してよ!
ところで、
筆者って、誰?
「松田聖子」さんの、
主題歌も、
魅力的でした・・・。
きゃは?
それを言うなら、
「野菊の墓」でしょ!