『ふりむけば愛』という映画の中で、初めて
上半身のみ、何もまとわずに撮影した。もちろん、
私自身、納得しての結論だったのだが...
そういうシーンを、撮影するのは初めてと
あって、周囲の気の使い方は、
並大抵ではなかった...。
監督、カメラマン、
照明の人たち、記録係の女性、そして、共演
していた彼。強化ガラスの上での、特殊撮影だった。
セットに入る前の私は、不思議に落ち着いていた。
メイク係の女性に、首、手、胸、背中と
ドーランを塗ってもらっている間も、頭の中は
無の状態で、これから光の時間の経過は、予測
出来なかった...。テキパキと段取りのよい撮影に、私は、
笑顔で望んでいた。
「ライティングを、変えます。少し時間が
ありますから、休んでいてください」
それまでのリズムが、途切れた時、私の中に
妙な虚しさが漂ってきた。その時すでに、彼に
対して、愛を感じていたからなのだろう? 彼が、
いてくれることに対しての安心感と、なぜだか、とても
大切にしてしまっておいたものを、壊されてしまった
ような寂しさとが、重なって、辛かった...。
夕焼け空になっていた。セットの外へ出た。
中にいる若い異性たちの目が、嫌だった。彼らの目
から私は、好奇の色を感じ取った。私は、
その場を、一刻も早く去りたかった。
ひとしきり外を
歩いてやっと、落ち着いた私は、セットへ戻った。
また、ライティングは、まだ、終わっていなかった。セットの
外に腰を下ろして、彼がいた。並んで座った...。
「どう、大丈夫?」
「うん」
続けようとした言葉が途切れた。いけない、
と思った時にはもう、私の瞳から、涙が溢れて
いた。あわてて、取り繕うとした私に、
「もう少しだからね、頑張れるかい?」
彼の、優しい声音に、私はうなずくことしか、
出来なかった...。予想していた以上に、私の中では、
衝撃的な出来事だった...。
備考:この内容は、
昭和58-12-28
発行:集英社
著者:山口百恵
「蒼い時」
より紹介しました。