AKB48ヒストリー...その1 再UP | Q太郎のブログ

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プロローグ


 

 2010年12月31日。東京・NHKホール。年末の国民的番組ハート

 

「紅白歌合戦」。

 

 

 

 61回目を数えるこのステージに、今回で出場3回目となるAKB48ハートと矢

 

が現れた。しかも、AKB48研究生、SKE48、NMB48のメンバーも

 

一緒に出演し、ステージ上には紅白史上最多人数である130人ハート

 

の少女たちが立った。その姿は、本当に壮観だった。

 

 

 

 デビューから約5年。

 

 

 

 当初は歌やダンスどころか、まともにスキップすらできないメンバーheart

 

もいたという。そんな彼女たちが、”国民的アイドルグループ”

 

と呼ばれ、この日、あの紅白歌合戦で歌い、踊ったのだ。

 

 

 

 きっとハート お茶の間で見ていた

 

人々の多くは、ステージ上で輝く彼女たちが

 

これまで歩んで来た 荒野のような道を知らないだろう。ハート

 

 

 

  道なき道、その上にこぼれ落ち、しみこんだ、少女たちの汗。涙。

 

 その歩んできた道には、いったい何があったのだろうか。ハート

 

 

 

 さあ、AKB48のすべての始まりから振り返ってみよう。

 

 

 時計は2005年の7月まで巻き戻る・・・。wハート☆

 

 

 

 



 

 

画像 篠田麻里子、AKB初期メン5SHOT公開し大反響「涙出ます ...

 

 

 

第1章 少女たちを救った2通の手紙


 

5年半前。すべては1枚の広告から始まった

 

 


 

  2005年7月。

 

 都内の駅や街角、そしてオーディション雑誌に、ある広告が掲載された。ハート

 

 

 

 そこには白地に黒い文字で「秋葉原48 プロジェクト始動!」と書かれ、総合プロ

 

デューサーとして”秋元康”の名前と写真が乗せられていた。ラブラブ

 

 

 

「伝説のアイドルグループ(おニャン子クラブ)を手掛けたあの秋元氏が、アイドル

 

グループを作る!」

 

 

 

 その広告は、アイドルを夢見る多くの少女たちの瞳に飛び込んできた。恋の矢

 

 

 

小嶋陽菜「私は駅に貼られていたポスターを見たんですよ。応募要領に(顔写真は写メで

 

OK)って書かれていて。写メならかわいく撮れる自信があったんです(笑)。それまでもハート

 

いろいろオーディションを受けたりしていたんですけど、高校生活の最後に受けてみようか

 

なって。それに秋元さんの写真のほかに、モーニング娘。の振り付けで有名な夏(まゆみ)d.heart*

 

先生の名前もあったから、(これはすごいオーディションなんじゃないか!)って」

 

 

 

 

 

 

 

 

板野友美、AKB48デビュー前 14歳当時の写真を公開:【エンタメ】

 

 

板野友美「私は子供のころからダンスが好きで、そういうアーティストさんになりたかった

 

んです。ある日、家で(デビュー)っていう雑誌を母と見ていたら募集が載ってて、母にd.heart*

 

(秋元康さんってすごい人だから受けてみれば?)って言われて」

 



 

 かくして、夢を抱いた少女たちは全国から東京を目指した。第一次の書類選考の後、d.heart*

 

第二次選考は東京・芝浦埠頭のスタジオで行われた。オーディション当日の様子を、浦野

 

一美(現SDN48)はこう振り返る。

 

 

 

 

「正直、会場は○伐としていましたね。私は一人で行ったんですけど、怖くてどうしたらs.heart*

 

いいのかわからなかった。歌とダンスの審査があって、ダンスは最初に説明があって・・・

 

短時間で覚えるんですよ。で、そのあと5人ずつくらいで秋元先生や夏先生が座ってる前でハート

 

踊るんですけど・・・みんな緊張してうまくできないの。もちろんわたしも」

 

 どんどんと審査が進む。秋元たちの前で、踊り、歌う少女たち。その多くは、その会場でheart+kira*

 

すぐに帰らされた。

 



 

 オーディションは何度も続き、いよいよ最終審査の日を迎える。d.heart*

 

 

 

 2005年10月30日。

 

 

 

 50人ほど残った少女たちは皆、合格発表の直前、控室の椅子に座り、顔を上げることがd.heart*

 

できなかった。のちに、”AKB48の小さな大黒柱”と呼ばれる高橋みなみも、下を向いた

 

まま小さく震えていたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は当時14歳で、それまでもいろいろなオーディションを受けてきたんです。でもお母さんとハート

 

(そろそろ学業に専念しなきゃね)(これがだめだったら諦めよう)って約束して

 

居たんですよ。

 

 

 

 だから本当に”最後”の挑戦だったんです。審査が終わって、祈るような花とハート

 

気持ちで待っていると、スタッフさんが部屋の真ん中に来て(●番、○番・・・)って番号を

 

呼ぶんですよ。呼ばれた子は喜びながら別の部屋に行くんですけど・・・

 

 

 

 呼ばれなかった子はs.heart*

 

顔を押さえて動かなくなるんです。それを横目で見ながら(怖い!)って。だから私、

 

自分に番号が呼ばれた時はバッて立ったんですけど固まっちゃって。別室ではハート

 

(やった!)って喜んでる子やボーッとしてる子とかいろいろいて・・・すごい状態でした」

 

 

 

 

 

  かくして、24人の少女たちが”AKB48”として選ばれた。

 

 

 

 少女たちに「僕を信じてください。信じて、付いてきてほしい)と語りかける秋元。d.heart*

 

 

これから始まる、長く険しい”アイドルと言う物語”を前に、24人の少女たちは不安と

 

希望を抱え、奥歯をかみしめた。

 

 

 

 



 

涙の公演。そして続く、つらい日々

 


 

 合格発表の翌日から、早くもレッスンが始まる。

 

AKB48は「秋葉原にある専用の劇場で毎日公演を行う」とコンセプトを定め、そのハート

 

劇場のグランドオープンも12月と決まっていた。

 

 

 

 オープンまで、わずか1か月。

 

 

 

高橋「本当にものすごく厳しかったです。初日に遅刻した子がいたんですけど、夏先生がスマイル

 

みんなの前で言うんです。

 

 

(今日、●●が遅刻した。そのためクビにした」って。本当に

 

怖かった。でもそれと同時に(ここは本気の場所なんだ。本気でやらなきゃ)って思いました。虹

 

 

 

私、運動神経ゼロでスキップもできないんですよ。だからいつも居残り。居残り組

 

は、私と浦野さんが多かったですね。

 

で、時々、あっちゃん(前田敦子)や佐藤由加理ちゃん虹

 

が残されて、何時間も何時間も踊るんです

 

。あれは人生最大の努力の日々でしたね」

 

 



 

 当時のAKB48がイメージしていた仕組みは「最後には48人のメンバーが24人ずつ雲 虹

 

一軍、二軍となって、ファンの人気投票で入れ替え制となる」というものだった。スタッフは

 

みな「お前たちは仲間じゃない、ライバルだ!」と、ゲキを飛ばしたという。

 

 

 

 そのため、体調不良でレッスンに出られないメンバーたちは

 

「次にレッスンに出たときに虹

 

は、自分の場所がないのでは?」と不安で泣いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

板野「ずっとヒップホップ系のダンスを踊ってたから自信もあったんです。でも、夏先生太陽

 

に(それはアイドルのダンスじゃないから)って言われて、いつも仲良くしていた子と

 

立ち位置を変えられたんですよ。・・・

 

 

 

 ダンスは得意だったのに、どうしようって。やめたいフリーズ

 

って何度も思いました。あの頃のことはあんまり思い出したくないかも(笑)」

 

 

 

 厳しいレッスン、疲れ、寝不足、プレッシャー・・・。

 

加えて、唯一自分を支えたいたサタデーナイトフィーバー

 

”自信”までも打ち砕かれながら時間は刻まれていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

AKB48前田敦子:デビュー当時14歳の自分と共演 6年ぶりドコモCM ...

 


 

 そして、12月8日。

 

 

 当初の予定より1週間遅れで、東京・秋葉原のドン・キホーテ8階、AKB48劇場の前田敦子

コアリズム

記念すべき幕が上がった。

 

 

 

 オーディション最終日から4人の少女たちが脱落し、メンバーは20人。

 

 

 

 その後、多くのチームが初日を踏む(PARTYが始まるよ)公演。

 

約2時間。全13曲。篠田麻里子

 

 

 

 劇場の設計の都合上、どうしても取り除くことができなかった2本の大きな柱が客席の

 

左右からメンバーを見つめている。その柱の間に、芸能関係者や物珍しさで訪れた秋葉原AKB48 小嶋陽菜

 

をホームとするアイドルファンたちが座っていた。

 



 

 この日のことをメンバーたちに聞くと、誰もが口をそろえてこう言うのだ。ポニーテールとシュシュ AKB48

 

 

 

「覚えていない」と。

 

 

 

 1か月間ずっと抱え続けてきた重圧。極度の緊張。それらが彼女たちから記憶を奪って前田敦子

 

しまったのだろうか。

 

ただただ「終わった瞬間、楽屋でメンバーのだれもが号泣していた」

 

事しか覚えていないという。

 

 

 

 それは、もしかしたら少女たちが一生の中で初めて”自分の夢のために”必死で駆け抜けた野中美郷

 

1か月だったのかもしれない。

 

 

 

 しかし少女たちは、本当のつらい涙をこれから先に流すことになる。横山由依

 

 とにかく、客が入らない。

 

 

 

 毎日続くステージ。初日は関係者を含めそれなりに観客はいたものの、日が経つほどに

 

人が減っていく。250人が定員の劇場に10数人。

 

一番ひどいときはひとケタ(!)ということ

佐藤すみれ

もあったという。





 

高橋「ひとケタって言っても、劇場の奥に立ってる人もいましたからね。だから後ろの人小林香菜

 

はステージ上の私たちからは見えていないんです。その時は席に二人だけ座っていて、

 

幕が開いた時に(ふたり?)って。そこまでいくと、”見られている)ことが恥ずかしくて」石田晴香

 

 

 

 舞台の端に立っているメンバーからすると、目の前には誰もいない。客席にある大きな

 

柱でその二人すらも見えない。ステージ中央に来たときだって、恥ずかしくて情けなくて、nanohana☆☆

 

お客さんを見られない。涙で客席が歪む。

 

 

 

 全体曲が終わり舞台から楽屋に戻ると、落ち込む、メンバーたち。「私、もう出たくない!」nanohana2☆☆

 

と泣きじゃくる者もいる。

 

 

 

それでも毎日、幕が上がれば、歌い、踊り続けた。

 

 

 

 

 

 

 

元AKB48大島麻衣の小学校時代の画像とは | 芸能人 流出画像 ...

 

 

 

 オープンから2週間が経とうとしたある日、

 

楽屋にある物が届いた。

 

大島麻衣と高橋みなみnanohana3☆☆

 

に宛てて一通ずつ。

 

 

 

 それは、AKB48がはじめてもらったファンレターだった。I love you 手紙

 

 

 

高橋「うわー!!手紙来たー!!」って大騒ぎになったのを覚えています。

 

楽屋にみんな集まって「誰だれ??」

 

 

 

「うわー、うれしいね!!」って。その時は、まるでお祭りですよね。ラブラブ

 

 

 

なんなんだろう、あの時の気持ちは。

 

 

手紙をもらうなんて、普通でもめったにないこと

 

じゃないですか。

 

 

それなのに見ず知らずの人が書いてくれたんですよ。

 

(正直、最初は、手紙

 

なめてました)

 

(ここで、こんなにすごいことをやっているのを、いろんな人に知って

 

もらいたい)

 

(元気を、もらいました)って。泣きました。

 

 

 

毎日毎日、先が見えない道を汗

 

進んでいて、死にそうになっている私たちに手を差し伸べてくれて、

 

 

”命が助かった!”っていうくらいの気持ちですよ。

 

 

 

本当に”希望”が見えたって言うか。メンバーみんなであせる

 

泣きましたね」

 

 

 

 

 

 

 

 

このAKBの篠田麻里子の左側の写メはいつの頃ですか?デビュー ...

 


 

”カフェっ娘”から大抜擢の篠田麻里子

 



 

 年が明け、2006年。

 

 

 

 怒涛の日々は続く。そんな時、ある出来事が起こった。劇場に併設されていたカフェマグカップp+

 

で働いていた”カフェっ娘”から、ファンの応援の声により篠田麻里子が推薦され、1月

 

22日にAKB48のメンバーに加わったのである。

 

 

 

 実は篠田は、第一期オーディションのsei

 

最終審査にまで進んだものの、合格者として番号を呼ばれなかった一人だった。

 

 

 

篠田「当時は19歳で今よりも自信があったから、正直(絶対受かる)って思ってました。flower*

 

 

 

 

 

 

 

元AKB48/SDN48の佐藤由加理が デビュー10周年を記念して ...

 

 

 

隣がゆかりん(佐藤由加理)で、素朴なタイプじゃないですか。

 

だから本人にも言った事あるんですけど、

 

 

 

(こんな田舎っぽい子は受からないだろうな)って思ってたし(笑)、pri

 

 

 

その隣には(高橋)みなみがいて、当時は今よりも大人っぽいっていうか、老けてて、

 

(この人いくつなんだろう?)って思ってました。・・・

 

 

 

だから、私は絶対受かると思ってsuzuran☆☆

 

たんですけど名前が呼ばれなくて、

 

(えっ?なんで?意味わかんない!)」って...。

 



 

 ショックすぎてボーッとしながら帰ろうと思ったら、劇場支配人の戸賀崎(智信)さんさくら。

 

が帰りかけている何人かの子に「AKB48のグッズを売る場所があるんだけど、そこで

 

バイトしてみないか?」って話をしていて、そう言われた私も、落ちて悔しい気持ちが四つ葉

 

大きかったから(やります!)って。・・・

 

 

 

でも、本当に悔しかったです」

 

 

 

 大きなショックを隠しながら、カフェで働く日々。篠田「当時AKB48は、*ぉ花

 

(一軍、二軍に分かれる)っていうコンセプトがあったから、

 

ファンのの皆さんの声を運営側が知るために、自分の好きな子の名前を書くアンケート用紙花

 

みたいなものが劇場にあったんですよ。

 

 

 

そうしたら、その用紙にメンバーじゃなくて、私の

 

名前を書いてくれたファンの方がいっぱいいたらしくて。

 

 

 

 ある日、秋元さんがカフェにsssやってきて、

 

「4日間で11曲、覚えられる? 覚えられるならステージに上げるから練習

 

して」って私に言われたんですよ。

 

 

 

すごく驚いたけど(チャンスだ)って思いました。カフェsss

 

のほかの子たちには内緒で、夜寝ないで覚えました」

 

 



 

 このころから、少しずつ口コミで「AKB48ってすごいらしい」と

 

評判が広がっていった。おはな

 

 

 

そして、オープンから約2か月後の2006年2月4日。

 

初めての満員。21人のメンバー

 

は皆、それまでで一番うれしい涙を流した。おはな

 

 

 

 しかし、それとほぼ同じ頃。

 

 彼女たちのもとに、

 

嵐が吹き込んで来ることになる。おはな








 

備考:この内容は、

発行:集英社 

「AKB48ヒストリー 

研究生公式教本」

より紹介しました。