バルコニーの手すりまで歩いて行き、恵美子は
この4Fの高さから、見渡すことのできる丘の下の光景を、
眺めた。青く晴れた空の下に横たわっている
その光景は、強い日差しによって、細かなところ
まで、くっきりと見えた。濃い影が、ディテールの
1つひとつを、鮮明に縁取りしている。
風に吹かれて、しばらく眺めていた恵美子は、
やがて、手すりの前を離れた。洗濯物を干したところ
まで引き返し、かごを片手に持ち、居間に入った。
ユーティリティ・ルームへ行ってかごを置き、
洗濯の後片付けをすると、彼女は廊下に出てきた。
居間に入り、アーチをくぐってキチンに入った。
ケトルに水を少しだけ注ぎ、クッキング・
レンジをの電熱コイルの上に、そのケトルを乗せた。
紅茶のカップと受け皿を出して、テーブルに
置き、カバットからハーブ・ティーの紙箱を
取り出した...。
「フランス産の紅茶」
淡い微妙な色調のグリーンの地に、黄色と濃い
アクアマリン・ブルーの洒落た色使いで、模様や
フランス語の商品名が、その横長の箱に印刷してある。
箱のフタを開き、恵美子は、中にまだ、いくつも
入っている小さな紙袋をひとつ、つまみ出した。
紙袋にも、箱と同じ色使いで、模様と文字が印刷
してある。気のきいた美しさを、彼女は気に入って
いる。このハーブ・ティーを飲む度に、紙袋を
指先で楽しみ、色使いをつくづくと観てしまう。
彼女の指先が、紙袋を開いた。多年草クマツヅラと
ミントの葉を、細かく砕いたものが入っている
ティー・バッグを、紙袋の中から引っ張り出した。
バッグについている白い糸の先端に、紙袋の一部分が、
つまみのように小さく四角に残るように
なっている...。
ティー・バッグを、彼女は、紅茶のカップに
入れた。湯は、すぐに沸いた。ケトルを伝熱コイルから
降ろし、カップの中に湯を注いだ。クマツヅラと
ミントによる一杯のハーブ・ティーが、やがて
出来た。
ティー・バッグを取って捨てた彼女は、カップを
乗せた受け皿を持ち、キチンを出た。居間として
使っているスペースの、張り出し窓のあるところまで
歩いた...。
「タッターソール・シャツ」
窓の前には、小さな丸いテーブルと、椅子が
あった。受け皿に乗せたカップをテーブルに置き、彼女は
椅子に座った。そして、バルコニーのほうに
目を向けた。強い日差しが、バルコニーいっぱいに
当たっていた。風に、洗濯物が、旗めいていた。
ハンガーに吊るした平野健二のタッターソール・チェック
のシャツも、袖が右に左にと、揺れ動いていた。
恵美子は、受け皿を持ち上げた。脚を組み合わせ、
スカートの裾から大きく出ている膝に受け皿を
乗せ、左手で支え、右手でカップを持ち上げた。
カップを唇へ運び、ミントの香りをかぎつけ、
熱いハーブ・ティーを飲んだ。
座り心地のよい、その椅子の背もたれた体を
預け、脚を組み、恵美子は、ハーブ・ティーに神経を
集中させた。1/3ほど飲んでから、受け皿を
テーブルに戻し、その上にカップを置いた。
「気仙沼の絵葉書」
丸いテーブルの上に重ねて置いてあった
七枝の絵葉書を、彼女は左手でとった。3月27日、
雨の木曜日の午後、あてのない旅に出る平野健二を
恵美子が見送って、ふた月近くになる。その2ヶ月の
間に、旅先の平野から、仙台の恵美子のところに
届いたのが、この7枚の絵葉書だ。最初の1枚、
気仙沼大島の絵葉書は、平野が出発した2日後に
届いた。平野らしい、軽快に洒落たやり方だと思い、
恵美子は嬉しかった...。
届いた順番に、重ねてある7枚の絵葉書を、
恵美子は最初の1枚から順番に見ていった。
2枚目の四国から届いた絵葉書の文面が、
恵美子は最も気に入っている。
ブルーのボールポイントで、書いた、
ていねいな字の、短い文面を、
恵美子は読んだ。
「三枝恵美子様
出発したあくる日に出した絵葉書は、届きましたか?
これが、2枚目です。四国の、国道33号線の
郵便ポストの上で書いています。正午です。
いい天気です。絵葉書の上に、僕の手の影と、
ボールポイントの短い影とが、出来ています。
平野健二」
7枚ある絵葉書の、どの文面も、短かった。
7枚とも、その絵葉書の文面を書いているときの
平野の様子が、鮮やかに目に浮かんでくるような文面だ。
どれにも、日付がそえてある。そして、三枝恵美子様と、
フル・ネームで、ていねいに、呼びかけの
言葉が書いてある。自分の名前も、省略せずに、
平野健二と、フル・ネームだ・・・。
備考:この内容は、
昭和59-5-31
発行者:角川春樹
著者:片岡義男
「メイン・テーマ PART 2」
より紹介しました。