【世界の中心でアイを叫んだ獣】
「眼に見えるものは隠されえるけれども眼に見えないものは、何1つ隠していない。それは
識られるか識られぬままにとどまるかで、それ以上のことはない、ということです。
眼に見えないものに、眼に見える以上の重要さを賦与するにはあたらないし、
その逆もそうです」。
(R・マグリット)
「隠された事実はサスペンスを引き起こさず、観客がすべてを知ったうえで、はじめて
サスペンスが生まれる。謎解きにはサスペンスなどまったくない」(A・ヒッチコック)
解決されることのない謎の多さという類似性において、例えば「ツイン・ピークス」と
並べて考えるのは、至極容易なことだろう。どちらの物語も、謎を知りたい、暴きたいと
いう欲望を喚起させ、ディテールに目を凝らさせ、キャラクターの台詞を深読みさせる。
しかし、実際の所、謎は何も隠してはいない。謎は謎であることを示すのみである。
謎や秘密の暴露または解決として提示されるものとの間に、絶対的なつながりを確認する
ことはできない。過去の預言者(あるいは、ただの酔っ払いかもしれない)の謎めいた
メッセージと何百年を経た後に起きた事件の間に 絶対的なつながりが 決して見つから
ないように・・・。
物語内で、その謎が提示された時点での謎・・・帰結に引きずられることなく純粋に
そこで示されたもの・・・は、「思わせぶりな」だけである。
これだけが、謎の持つ機能である。
ただし、「思わせぶりな」は、物語の強力な推進剤として働く。要するに、物語を展開
する上で、謎は必ずしも内容を必要とするわけではなく、解決されなければならない
わけでもないということである。謎は解決される必要はない。牽引機能だけ持っていれば、
物語は進む。
「人類補完計画」も、綾波レイも、使徒の正体も、加持を撃ったのは誰なのか?
という謎も、解決される必要はない。
中でも ”人類補完計画” というのは、一番の謎であろう。この謎は、第25話、最終話に
よってまがりなりにも語られて、一応の解決をみているのだが、計画そのものは、まったく
説明されない(ある種のリドルストーリー・・・事件は一応解決されるが、
真犯人は曖昧なままに残されるというミステリーの手法・・・的な結末と
言えないこともない)。
要するに、第25話のBパートの冒頭の文字
「それは人々の補完の始まりだった/
人々が失っているもの/
喪失した心/
その空白を埋める/
心と、魂の、補完が始まる/
全てを虚無へと返す/
人々の補完が始まった」
で、理解できるもの以上の意味は、
”人類補完計画” にはない。
第2話で、人類補完委員会の老人の言ったセリフ「絶望的状況下における唯一の希望」の
「希望」という抽象的な概念以上でも以下でもないのである。
しかし、これでいいはずである。第24話までの、シンジたちの物語を十分に楽しんだ
はずなのだから。だいたい物語の謎の多さと展開のスピードから、ほとんどの謎が謎のまま
残されるだろうということは容易に予想がついたはずである。
ところで、物語を展開させる機能としての謎である人類補完計画、これは「鳥」や
「めまい」の映画監督アルフレッド・ヒッチコックの用語でいう「マクガフィン」という
ことになろうか?
例えば、莫大な埋蔵金の埋められた場所を示す 地図の隠された「壺」があるとする。これを
めぐり、お家再興を目指す武士や幕府のninja、噂を聞きつけた盗賊が奪い合いの大騒動を
起こす。しかし、最終的に「壺」を手に入れた者が蓋を開けてみると中には何も入っていない。
埋蔵金のありかという謎は存在しなかったのである。つまり、騒動を起こすのに、
実際ん地図が入っている必要な無いのである。地図が存在しようがしまいが関係なく、地図が
入っていると考えられた「思わせぶりな壺」そのものが、騒動を起こしていたということになる。
もちろんこの、「思わせぶりな壺」こそが、「人類補完計画」である。
「エヴァ」には、先にあげたようにいくつも解明されない謎があるが、マクガフィンとは
言えないにしても、それに準ずるものと考えることが出来るだろう。いくつも提示され
つつ解明されなかった謎は、魅力的な作品を引っ張っていくだけのマクガフィン・・・財宝の
地図など決して入っていない壺・・・にすぎない。これを勘違いして、エヴァンゲリオンの魅力が、
その数多の「謎」にあると考えてしまうと、作品の持つ様々な魅力を見逃して
しまう恐れがある・・・。
「エヴァ」は物語の内容ではなく、その形式や表現の仕方を評価すべきアニメである。
父親を○す物語だとか、存在理由や自己同一性を求める物語だとか、そんなことは
実はそれほど重要ではなく、第7話で輸送機から飛び降りた初号機が、着地したときに足元にあった
電柱がなんだかたまらなく良いだとか、沈みゆく太陽をバックにJAを追いかけ追いつい
ていく初号機が描かれているシーンが、涙が出るほど感動的だとか、気だるげな蝉の声が
夏休みを思い出させるとか、病院の廊下のシーンで第2話と第23話では、シンジとレイが
入れ替わってることを発見したりといった、そういった細かな演出とか カット割り、構図
の取り方、ディテールの凝り方なんかを評価すべきなのではないだろうか?
「エヴァ」はアニメーションの基本に至極忠実に、アニメーションという媒体を
知り尽くした上で作られているのではないかと思えるのだが、そう考えると、最終回において
原画や台本が現れるのは、必然的なのかもしれないとさえ思えてくる。(第16話あたりで
細切れフィルムが多様され始め、しかも第22話、第23話あたりになったときに
残された布石が多すぎることに気がついた時、結構、あの結末を予測した人は多かった
のでは無いだろうか?)
しかし、そう言っても、バラバラなフィルムを細かく細かくつないだだけで、秀逸な
構図もショットの連続も、目を見張るエヴァの動きもない最終回は、やっぱり見ていて
少々残念だった気もするが、「新世紀エヴァンゲリオン」に実にふさわしい
終わり方だったということができよう・・・。
備考:この内容は、
1997-7-10
発行:(株)史輝出版
著者:ヤナミレイア
「エヴァンゲリオン
解体新書」
より紹介しました。