NHKテレビの夏の高校野球中継に、対戦する両高校野球部の部員が1人づつ、ゲスト出演して
いる。チャンスでは言葉に力が入り、チームが負けると涙を浮かべる。さわやかな印象だ。
しかし、見ていて1つ気になる点がある。「自分もそう思います」というふうに、
彼らの多くが、1人称として「自分」を使うことだ。「ぼくもそう思います」とか「私も」のたぐ
いは、余り聞けない。もっとも、野球部員たちに限らず、いまの若い世代では、「自分」と
いう呼び方はかなり一般的らしいが。
私の場合は「自分」と聞くと反射的に、「旧軍」で兵隊が使った「自分」を連想してしまう。
それで気になる。たとえば角川必携国語辞典の「自分」の項の説明には、〈一人称、単数。わたくし。
本、軍隊で使われた〉とある。日本国語大辞典の例文の1つは、旧軍を部隊にした野間宏の
作品『真空地帯』の兵士のことば。〈自分はいま(略)これをかかしてもらって」います〉。
「私などといったら、たるんでいる、とビンタを食らったものだ」。軍隊を経験した人の話で
ある。「いろいろな地方から軍隊に若者が集められた。わし、おら、わて・・・自分を指す呼び方も
さまざまだ。おかしい、とからかわれる者もいた。それで『自分』を軍隊の統一用語にしたのだ
そうだ」。そんな解釈も聞いた。
もちろん軍隊だけの用語ではない。江戸期の作品にも出てくるし、武者小路実篤は頻繁に
用いた。けれども、昭和20年代から30年代にかけて学校教育を受けた私の世代では、「自分」
は、例外的だったと思う。これも今の若者がよく使う「●●先輩」との言い方も聞かなかった。
戦争の記憶がまだ色濃かったからだろうか。
わし、おら、わてなどには、土地土地のにおいが感じられる。「自分」はどこかのっぺらぼうだ・・・。
備考:この内容は、1997-4-15 朝日新聞論説
委員室著「天声人語」より紹介しました・・・。