高橋みゆき 「高橋家の人々」 | Q太郎のブログ

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第1章 バレーが大好き


「高橋家の人々」     高橋みゆき





 1978年12月25日。


 クリスマスの日に、私は生まれた。山形県はきっとホワイトクリスマスだったと


思う。でも、父は雪が降っても喜んだりはしない。だいたい母が千葉の実家に戻って


出産したから、私が生まれた瞬間のことを父はあんまり記憶がないと言っている。


「みゆき」という名前は、父が付けた。誰からも絶対に間違えられず、覚えられやすく、


呼ばれやすい名前がいい。難しい感じを当てて名前負けしちゃうのもよくないと、


ひらがなで「みゆき」。美しい雪と書いて「美雪」と読ませる案も母方の祖母から出た


らしいけど、、「雪」と言う字が冷たいイメージがあるから、却下されたようだ。でも、


家族全員がとても気に入って付けてくれた名前だと聞いている。


 高橋家は、自動車整備工場を営む父・正と、千葉からお嫁に来た母・美津子。


それに、2歳年上の兄・正人。私の下には、2歳年下の弟・直人、さらに4歳年下の


弟・和人の6人家族。


 父は、山形出身で中学、高校とずっとバレーボールの選手をしていた。でも、動機


が不純。父の中学時代には9人制のバレーボールしかなくて、そのコートが屋外の


テニスコートのすぐ隣にあったらしい。女子のテニス部のすぐ隣で練習できるから、


というのが、バレーを始めたきっかけなんだって!その頃の父は背も小さく、ポジションが


固定される9人制のルールに従って、ずっと後衛のセンターを務めていた。


だから、中学の3年間は、一度もスパイクを打ったことがない。山形県立工業高校に


入ってから、初めて6人制のバレーボールを始めた。地獄の特訓を随分受けて、


バレーはしんどいと思ったこともあったようだけど、高校生になって背も伸びて、結局


3年間続けてレギュラーだったと言う。



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 父が高校を卒業して実業団に入るころは、日本は空前のバレーボールブーム。ちょうど、


ミュンヘンオリンピックが開催される少し前で、日本中の人がテレビドラマの


「ミュンヘンへの道」(72年放送)に夢中になっていたころで、バレーボール選手は


アイドルのような存在だった。


 その後、父は千葉県にある「市川毛織」という実業団チームに所属した。当時人気


だった、大古誠司選手の所属していた日本鋼管と対戦したこともあったが、結果は


惨敗だったようだ。ただ、父は周囲ほどオリンピックなどに熱狂していたわけでは


なかった。当時、選手でありながら女子チームのコーチも兼任していたので、むしろ


全日本の女子のプレーはどんな感じなのか、そちらの方に興味があったのだ。


 その女子のチームに、私の母が所属していた。千葉県で国体があり、父は選手として


国体に出場してから、本格的に女子チームのコーチになったと言う。


 父と母が出会って、そして結婚。父が21歳、母が20歳の時だった。結婚すると、


父は山形に戻って今の自動車整備工場を始めた。そして、最初は卒業した工業高校の


OBらが作った「黒百合クラブ」というバレーボールクラブに所属して、選手として


クラブカップや全国大会に出場していた。やっぱりバレーボールが大好きだったんだと


思う。すごく楽しい思い出だって、今でも目を細めて話してくれる。楽しい思いを


させてもらったから、恩返しがしたい。そんな気持ちから、地元の小学校のスポーツ


少年団で、ベレーボールのコーチをするようになった。


 お兄ちゃんは、お父さんがコーチをする山形東小学校のスポーツ少年団でバレー


ボールを始めた。そして、現在は地元の9人制のクラブチームでプレーをしている。


すぐ下の直人は、東北福祉大学を卒業した後、秋田にある町役場に就職。という


のも、2007年に秋田国体が開催され、その国体選手としてプレーできるというのが、


そこに就職した一番の理由。現在は沖縄の「中部徳州会」という9人制の


チームでプレーしている。末っ子の和人は東海大学のバレー部でプレーした後、今は


Vプレミアリーグの「豊田合成トレフェルサ」に入団。私と同じ、Vリーグ所属選手だ。


高橋家は、なんと6人の家族全員がバレーボール選手なのだ。







備考:この内容は、実業之日本社 高橋みゆき著 シン!(\1200+税) より紹介しました。