幼稚園バスのバス停まで勇人と詩織を迎えに行き、わたしを中心にして3人で手を
つないで帰る。その時間だけは心が温まって、幸せってこういうことなのかも、と
思ったりする。
「ママ、今日なんかかわいい」
詩織に言われて、ドキリとした。珍しく髪を下しているからだろう。まだ3歳の
くせに、詩織はすでに「女」なのだ。
「しーちゃんは、ママが可愛いと嬉しい?」
「うん!」
「じゃあママがおっしゃれして、かわいくしてお出かけするのも、うれしいよね?」
詩織は屈託なく笑うと、もう一度「うん!」と大きくうなずいた。
わたしは、ずるい。こうやって子供たちに同意を求めて、ゴローに会いに行く
自分を正当化しようとしている。
ゴローとは、2週間後の金曜日に飲みに行く約束をして別れた。
「ねぇ勇人。ママは、頑張ってるかな・・・」
「うん。がんばってる!」
「しーちゃんもそう思う!」
子供たちの無邪気な笑顔に罪悪感が募る。それを振り払うように、心の中で
繰り返した。
そうだよね、ママは頑張ってるよね。だから少しぐらい、ご褒美をもらった
ってバチはあたらないよね・・・。
体重が1.5キロ減った。ゴローと飲みに行くことが決まってから、ダイエットを
していたのだ。お風呂上りに化粧水と乳液を念入りに塗ることも欠かさなくなった
し、荒れたかかとには毎晩クリームを塗るようになった。4か月ぶりに美容院にも予約を
入れた。
自分が男の子にどう見られるのかだけを気にしていればよかった、独身時代を
思い出す。
カサカサだった心が、少しずつ潤っていく。
気持ちが浮きだつ一方で、子供たちを泊りがけで預かってもらうために実家に
電話をした。
なんだか妙に冷静に、ゴローと関係を持つ準備を進めているようだった。
そのくせわたしは、いざとなったらまるで予期していなかった衝突事故が起きた
様な顔をして、「酔った勢いだった」なんて便利な言い訳を口にするんだろう。
別にゴローに何か言われたわけでも、約束したわけでもない。けれどお酒を飲んで
酔っぱらってしまえば、ゴローになら素直に甘えられると思う。そしてそうなって
しまえば、ゴローは拒絶しないような気がするのだ。
日曜日の夜、子供たちを寝かしつけた後、お風呂上りに発泡酒を飲んでいる
克彦に声をかけた。
「今度の金曜の夜、出掛けることになったから」
克彦はテレビに目を向けたまま、気のない返事をする。
「そう」
「短大時代の友達の、奈々子っていたでしょ。あの子が結婚したから、お祝いに
みんなで集まることになったの」
実家の母にも言ったセリフをそのまま口にした。克彦は相変わらずテレビに集中
している。
「勇人と詩織のことは実家に頼んだから・・・」
わたしはそれだけ言って風呂場に向かった。
これじゃセッ〇〇レスどころか、会話レスだよ・・・。
克彦は安心しきっているんだろう。わたしが幼稚園のママ友と、たまに会う
学生時代の友人ぐらいしか外の世界を持っていないから。
それとももう、私が何をして、誰とどこに行こうと、克彦にとってはどうでも
いいことなのかな・・・。
わたしは着ていた服を洗濯機に投げ入れて、風呂場のドアを勢い良く開けた。
少し体重が減ろうが肌がきれいになろうが、全く気付いてくれない。
そんなにわたしに興味ないの?
だったらどうして結婚したの?子供ができたから仕方なく?
家庭に入って家事をやってくれて文句を言わない人なら、だれでもよかったわけ?
確かに結婚のきっかけは妊娠だった。わたしにとっても予想外だったし、まだ
ハタチなのに早いとは思った。あまりにも突然で、不安な気持ちもあった。
けれど、決して妥協して克彦との結婚を決めたわけではない。幸せに、なりたいと
思ったから。なれると思ったから。
「子供が生まれても、何でも話し合って、ずっとラブラブな夫婦でいような」
入籍して新居に引っ越した初めての夜、少し膨らんだわたしのおなかを撫でながら、
克彦はそう言ったのだ。あの言葉があったから、ほんの少しあった不安が消えたのに。
この人となら大丈夫、そう思えたのに・・・。
金曜日、幼稚園から帰った勇人と詩織を、電車で埼玉の実家の最寄り駅まで送り
届けた。二人はおばあちゃんに会えてご機嫌で、自宅に戻るわたしに笑顔で手を
振ってくれた。
わたしは何食わぬ顔で子供たちに手を振り返し、急いで家に戻って二日前に買った
新しい下着を身に着けた。淡いピンクにレースの付いた、上下おそろいの下着。
なるべく安っぽく見えないモノを選んだつもりだ。
ほんとに今夜、するのかな。克彦以外の人と。誰にも秘密で。
したら、何かが変わるのかな・・・。
ワンピースを着て、鏡の前でメイクを始めた。男の人のためにメイクをするの
なんて何年振りだろう。
わたしはメイクを終えると、少し迷ってから左手の薬指の結婚指輪を外した。
ゴローとは8時に待ち合わせをした。最初はチェーン店の居酒屋に入り、続いて
静かな路地裏にある雰囲気のいいバーに入った。
「そしたらおれの方が先に泣いちゃって」
「そうそう。あたし気まづくて、やべ、と思って泣いたフリしちゃったもん」
何となく、深刻にならないように、湿っぽくならないように、付き合っていた頃
のバカ話を続けた。それでもカウンターで苗案で飲んでいると自然に距離は近づき、
わたしは右手でときどきゴローの左腕をつかんだ。
ゴローは拒絶しなかった。
わたしが化粧室から戻ると、すでに会計は済ませられていて、ゴローは「行こう」と
言ってわたしの手を取った。あの頃のように、指を絡ませて。相変わらず、
温かい手だった。
店を出て少し歩くと、不意にゴローが立ち止った。
暗がりの中で見つめ合う。何も言わなくても、お互いの気持ちは分かった。
そして・・・吸い寄せられるように、キスをした。
「カオリと、したい・・・」
耳元でささやかれた時、わたしの理性は吹っ飛んだ。結婚以来、克彦にそんな風に
ストレートに求められたことなどなかったから。
ゴローの手を握り返して歩き出したとき、ハンドバッグの中でケータイが震えた。
「実家からだ・・・出ていい?」
ゴローはうなずき、少し離れた電柱のそばでタバコに火をつける。
私は一度だけ大きく深呼吸して電話に出た。
「ママ?」
「勇人?まだ起きてたの?」
「あのね、しーちゃんが泣いてるの」
「泣いてる? どして?」
「ママに会いたいって。お話ししたいって言うから、変わるね」
・・・突然、ものすごい勢いで現実に引き戻された。情けないような、ホッとした
ような気持ちになって思わず苦笑する。
「もしもし、ママ・・・?」
「しーちゃん?明日お迎えに行くから、それまでお兄ちゃんといい子にしてて?」
「うん・・・」
「明日の夕飯はしーちゃんの好きなハンバーグにしようね?」
「うん!ママと一緒に作る!」
電話を切ると、ゴローは煙草を携帯灰皿に押しつけながら、やっぱり苦笑していた。
情けないようなホッとしたような顔で。
帰りの電車は比較的空いていた。窓の外を流れる夜の景色を見ながら、ゴローに
耳元でささやかれた言葉を反芻する。
うっとりした。わたしにはまだ、女として価値がある。
・・・そう。克彦とセッ○○レスになってから、わたしを一番苦しめてきたのは
そのことだった。
「もう、女としての価値がない」
克彦に避けられるたび、そんなレッテルを張られたようで、それが何よりつらかった。
心も体も渇ききってカサカサになって、そのまま女として朽ちていくような気が
したのだ。
その上克彦は、会話すらしてくれず、笑顔を見せてくれることもない。最近は、
女としてではなく、一緒に暮らす家族としての価値もないように思えてしまって
いる。
帰宅すると、克彦はまだ帰っていなかった。
ゴローと付き合っていた頃の写真が見たくなって、わたしは寝室の押し入れの奥
から段ボール箱を引っ張り出した。昔の写真やアルバムや手紙がどっさり入っている。
・・・段ボール箱の中は克彦との写真であふれていた。独身時代の思い出は、実家に
置いてきてしまったらしい。
どうしてもウエディングドレスが着たくて、記念に撮った写真。安定期に入って
から新婚旅行として行った沖縄旅行。生まれたての勇人。少し大きくなって、赤ちゃん
の詩織を抱っこしている勇人。幼稚園の入園式・・・。
写真の中のわたしは、いつでも幸せそうに笑っている。
ふと、ハート形のクッキーの缶が目に入った。
結婚式を挙げなかったわたしたちは、入籍した日にお互いに宛てて手紙を書いた。
それをタイムカプセルのようにこの缶に入れて、10年後に開ける約束をしたのだ。
当時はこういうイベントが大好きで、よく克彦を付き合わせたっけ・・・。
わたしは軽い気持ちでクッキーの缶を開け、「カオリへ」と書かれた封筒を手に
取った。そして、息を飲んだ。
「10年後のカオリへ
まだハタチと22歳の俺たちは、夫婦としては少しぎこちないかもしれない。
でも、30歳と32歳の俺たちは、きっとお似合いの夫婦に見える。
40歳と42歳の俺たちは、ごく普通の夫婦だろう。
65歳と67歳の俺たちは、どこにでもいるおじいちゃんとおばあちゃんだ。
80歳のカオリの隣に、82歳の俺がいられたら、とても幸せです。
結婚してくれてありがとう」
涙が出た。 うれしくて。
わたしは、ゴローに恋をしたような気分になって、浮かれていた自分を恥ずかしいと
思った。
ほかのだれかではなく、もう一度克彦と恋に落ちればいいのだ。
この素敵な言葉を忘れずにいたら、きっと何度でも恋に落ちることができる。
玄関の鍵が開く音がして、少し酔っぱらった顔の克彦が入ってくる。克彦は泣いている
わたしを見て驚いた顔をした。
「どうかした?」
わたしは、振り絞るように言った。
「わたしね・・・ホントは嫌なの・・・今のままじゃ、嫌なの・・・」
・・・言えた。ずっと言えなかったこと。わたしの、正直な気持ち。
「ずっとつらかった・・・会話がなくなって、コミュニケーションを取らなくなって、
それがいやなのに、思ってることとか不満とか、全然言えなくて・・・(疲れてる)って
言われちゃうと、なんにも言えなくなっちゃって・・・」
涙が次から次へと溢れる。
「ごめん・・・俺・・・」
克彦は、苦しそうに手の平を自分の額に押し当てて言った。
「俺も・・・ホントはどっかで気づいてた。今のままじゃいけないって。だけど・・・
忙しくて疲れてたから、つい・・・言い訳だけど・・・」
「何でも話し合って、ずっとラブラブな夫婦でいようねって言ったのに・・・」
「・・・・・」
それ以上、言葉が続かなかった。
しばらく黙っていると、気持ちが少しだけ落ち着いてきた。
わたしは、勝彦の目を見て言った。
「もっと、私を見て・・・奥さんとか、お母さんとしてだけじゃなくて、わたしの
事を必要としてほしい・・・!」
克彦はわたしを抱きしめた。
「ごめん・・・ごめんな・・・」
懐かしい克彦の匂い。わたしは、気持ちがほぐれていくのを感じた。
それから明け方まで、二人でたくさんの話をした。
克彦は、忙しいことを言い訳にして、私に対する努力を怠っていたと謝って
くれた。わたしも、家事や子育てを言い訳にして、女としての努力を怠っていたと
素直に反省できた。克彦だけでなく、サボっていたのは自分も同じだった。
たまには休みの日にお皿を洗ったり、子供たちを連れて公園に行ったりしてほしい。
わたしも少しぐらい「自分の時間」を持ちたい。飲みにだって行きたいし、夫婦
二人だけで過ごす時間もほしい。それがわたしの希望。
克彦は、「なるべく文句や不満をためないでほしい」と言った。いやな事は、
その都度きちんと伝えること。あとになってから「実はあのときこう思っていた」と
言わないこと・・・。
話し疲れて布団に入り、二人で昼過ぎまでぐっすり眠った。
カーテンを開けると、空は青かった。
また同じ一日が始まる。
「勇人と詩織、迎えに行くか」
「今日の夕飯は詩織の好きなハンバーグだよ」
わたしたちは顔を見合わせて微笑んだ。
これからもケンカはするだろう。不満を持つことも、ぶつかり合うこともあるだろう。
けれど、それでいいんだ、と思った。
遠慮せずに、お互いの言いたいことを言って、正直な気持ちを伝え合う。たくさん
怒ってたくさん泣いた後、二人で笑え合えばいいのだ。
そして仲直りして、また一緒にご飯を食べて、一緒の布団で眠りにつく。
それがきっと、幸せ。
おわり
備考:この内容は、リンダブックス編集部 100の濃い 幸せになるための恋愛短編集
笹原ひとみ 子 よりお借りしました。