「しっかし、ホントにもったいないよなぁ」
間の抜けた調子で言いながら、高校時代からの友達の太一がジョッキを飲み干した。
「すいませーん。生もう一つ。あ、お前は?」
「俺も」
地元にある小さな居酒屋の隅の座敷で、須藤拓海とその友人西村太一はつまみを食べ散ら
かしながら、生ビールのお代わりを注文した。
「お前、ちょいちょいテレビに出てたもんなぁ。ほら、連ドラのさ、主人公の幼馴染み役とか、
ヒロインに片思いしてるバイトの仲間役とか。あと、殺人事件の第一発見者役とかもあったよな。
今、26だろ。高校出てから、かれこれ8年も東京で頑張ってきてさ、それを残部捨てちまって
酒屋を継ぐなんて・・・ホントにそれでよかったのかよ」
拓海はジョッキに残ったビールを飲み干し、手持無沙汰にテーブルの上のピーナッツの殻
を割りながらつぶやいた。
「仕方ねぇよ。お袋にあんなふうに泣つかれたらさ。・・・俺だって続けたかったよ。この間も、
オーディションは落ちたけど、演出家の大門治の目に留まって、ワークショップに誘われ
てたんだ。お前、大門治って知ってるだろ?」
「シェークスピアの舞台とかよくやってる有名な演出家だろ?怒ると灰皿を投げつけるって
うわさの」
「それは大げさだけど、でも演技には妥協しない厳しい人だと。あの人のワークショップから、
無名でいきなり主役クラスに抜擢された新人が何人もいるんだ」
「もったいないよなぁ」
再び太一はため息交じりに言って、枝豆を口に放り込みながら拓海を見た。
「で、親父さんの具合はどうよ?」
「それがさ、思ったより動けてんだよ。お袋の話じゃ坐骨神経痛がひどくなって身動きが取れ
ないから店を続けられないって話だったのに。あの程度なら配達のバイトで十分、間に合った
んじゃないかって・・・何かだまされた気分だよ」
「お袋さんも心細くて不安だったんだろ?なあ、親父さんの調子が大丈夫そうなら、今から
また役者の道、戻れないの?」
「バーカ。そんな簡単な世界じゃねぇよ」
店員が運んできたビールのお代わりを受け取ると、拓海はそれを一気に飲み干した。
須藤拓海の家は祖父の代から地元で小さな酒屋を営んでいる。決して歴史のある家業では
無かったから、高校を卒業する時「絶対に継げ」とは言われなかった。
けれど「東京に出て、役者になりたい」と言った時には、父親の栄太は激しく反対した。
「そんな、モノになるかどうかもわからない夢物語なんか追っかけてないで、地に足の着いた
安定した仕事先を見つけろ」と。
まあ、要するに公務員かサラリーマンになることを望まれていたわけである。
拓海はその時、あるオーディションに賭けた。貯めたバイト代で冬休みに東京に出て受けた
オーディションだ。人気俳優が天才外科医役で出る映画で、その医師が向き合う重要な患者
の役だった。それに受かったら、父親に何を言われても、家出してでも、絶対に役者になろう、
そう決意していた。そして、卒業の1か月前に出た結果は落選だった。が、患者Aという端役
をもらい、中堅のプロダクションの社長の目に留まってスカウトされた。
拓海は「ものすごいチャンスなんだ」と両親を説得し、最後は母、雅子の助けもあって、
渋々、父、栄太からの許しをもらうことができた。
前途は洋々としているはずだった。映画で注目され、事務所はどんどん仕事を取ってきて、
すぐにでもメジャーになれるつもりでいた。ところが世の中はそんなに甘くなかった。映画は
前評判の割に興行成績は散々で、患者Aが世間から注目されることはなく、与えられる仕事は
エキストラに毛の生えたような仕事ばかりだった。オーディションとバイトを往復する生活
は約8年続いた。それでも、ただ無駄に8年間を過ごしてきたわけではない。演技の勉強も
怠らなかったし、人一倍の努力もした。どこでプロデューサーの目に留まるかわからないので、
来た仕事は基本的にすべて受けた。お昼の主婦向け番組の再現ドラマで痴漢役だってやって見せた。
その努力が認められたのかは定かではないが、ここ数年で、ようやくゴールデンタイムの
ドラマで数行のセリフのある役にありつけていたのだ。それなのに・・・。
両岸の桜がすっかり葉桜になったか川沿いの道を歩き、ほろ酔いで帰ってきた拓海は店の前に
立って、軒先に掲げられた「須藤酒店」の看板を見上げた。カーテンの閉められたガラスの扉
の向こうにはまだ電気がついている。拓海は鍵を開けて店の正面入り口から中へ入った。
「ただいま」
レジの横で電卓をたたいていた父、栄太がチラリと拓海を一瞥したが、そのまま無言で計算を
続けた。
「おめぇが帳簿付けを放り出して飲み歩いているから、代わりにやってるんじゃねぇか。明日の分
の配達の仕分けは済んでるんだろうな」
「できてるよ。帳簿だって、帰ってきてからやるつもりだったんだ」
「だったら、続きはお前がやれ」
栄太は銀縁の老眼鏡を外し、白髪交じりのこめかみを手で揉む仕草をすると「どっこいしょ」
と立ち上がり、拓海に「ここまではやったから、この続きからをやれ」と指示を出して、奥の
居間へと入っていった。
その一連の動作は、ゆっくりとしているが、とても重度の坐骨神経痛のようには見えない。
「まったく。どこが身動き取れないだよ。完全にお袋にハメられたな」
拓海はため息をつくと帳簿の一行に定規を当てて、電卓をたたき始めた。
翌朝、レジの横の机で配達先別に仕分けた伝票の束を確認して、拓海はチラリと母、雅子を
見た。雅子は鼻歌交じりにハタキで陳列棚に並べられた一升瓶の埃を払っていた。
「おれ、これから配達に行ってくるけど・・・親父は?」
「駅前の整形外科に行ってる。帰りは町内の囲碁クラブに顔を出すって言ってたから、夕方に
なるんじゃないかしら」
「お袋、ハメただろ?親父、ピンピンしてんじゃねぇか。別に俺が戻らなくても・・・配達の
バイトだけ雇えばよかったんじゃないの?」
「ハメただなんて人聞きの悪いこと言わないでよ。お父さん、一時は布団から起き上がれなくて
本当に大変だったんだから。バイトの人なんて、ずっといてくれるわけじゃないし、お母さん、
心細かったのよ」
眉尻を八の字に下げて哀願するような表情を浮かべる雅子を見て、拓海はため息をついた。
「とにかく配達に行ってくる。店番してて。新しく配達の注文入ったら携帯に電話してよ」
「うん。行ってらっしゃい」
笑顔で手を振る雅子を背に、拓海は店の前に止めてあった白い軽トラックの運転席に乗り込んだ。
配達と言っても小口のお客さんがメインで、地元の居酒屋やスナック、カラオケボックス、
それは採算は度外視で、昔から付き合いのあるご高齢のお客さんの自宅に瓶ビールを数本とか、
日本酒の一升瓶を1本、2本という具合に配って回る。
どこに行っても「テレビ、見てたわよ」と声をかけられ、拓海は気恥ずかしく、」挨拶も早早
に次の配達先へと移動して回ったが、最後に回ったスナックでとどめを刺された。
実家に帰ってからは初めて配達で訪れる昔なじみの近所のスナックだった。店先に初老なが
らも化粧の濃い節子ママが現れて大仰な声を上げた。
「あらあらあら、拓海ちゃん、こっちに帰ってるって聞いてはいたけど・・・まぁ、立派になって。
そうそう、テレビ、いつも見てたわよ。ほら、殺人事件の第一発見者とか、お昼の番組の
再現ドラマとか」
おかしい。なんでみんなそろいもそろって、自分の出演番組を網羅してるんだ。拓海はためらわずに
尋ねた。
「あの・・・っ、それは偶然に、ですか?」
「やだ!あんたのお母さんよ。拓海ちゃんがテレビに出るときは近所に宣伝しに来るの。
だから、こっちも見逃しちゃいけないと思ってビデオまで撮ってたんだからっ」
節子ママは甲高い声でケタケタと笑った。
顔から火が出そうだった。まともな役ならまだしも、息子の痴漢役の再現ドラマまでは、
雅子がこの小さな町で意気揚々と宣伝している姿を想像して死にたくなった。
拓海は背後に通行人の視線を感じて、逃げるように勘定を済ませるとその場を離れた。
軽トラックのハンドルを握りながら、拓海の胸にふつふつと母への怒りの感情が湧きあがって
きた。が、拓海だってバカではない。滑稽に見えてもそれはすべて自分のことを思っての親心
なのだろう。悪気があったわけではない。そんなのはわかっている。だからこそ、やり場のない
店に帰ると、レジの横で店番をしていた雅子が「おかえり」と笑顔を向けた。
拓海はわざと無視して乱暴に伝票の束を机に放り投げた。
「?」という表情で拓海を見上げる母とは目を合わせなかった。
耐えろ。怒るな。悪気はないんだ。大人になれ。そう呪文のように自分に言い聞かせた。
居間へと続くガラス戸越しに、栄太が横になってテレビを見ている姿が見える。
息子に配達を任せきりで、自分は病院の後に趣味の囲碁サークルに出て、ごろ寝でテレビ
かよ、いい身分だな。そんな醜い感情が抑えても抑えても湧き上がってくる。
その時、背後に客が入ってくる気配を感じて、拓海は気を取り直し、笑顔で「いらっしゃい
ませ」と振り返った。そして客の顔を見た瞬間、すうっと拓海の顔から笑みが消えた。
「よう。久しぶり」
そういって笑顔で手を挙げたのは、高校の同級生の山本浩介だった。友達と言えるほど親し
く付き合っていたわけではないが、拓海が東京のプロダクションにスカウトされたと聞いた
とたん、急に親しげに話しかけてきて、根掘り葉掘り経緯を聞き出し、羨望のまなざしを向けて
きたクラスメイトの一人だ。
「まあ、もしかして山本君?高校の時のクラスにいた・・・」
雅子がパァッと明るい表情で親しげに話しかけた。
「こんにちは。お久しぶりです。いや、須藤がこの町に帰ってきてるって聞いて、顔を出さな
きゃって思ってたんですよ。須藤、元気にしてたか」
「おお・・・ぼちぼちな」
「日本酒で何かおすすめってある?」
「じゃあ、それ一升瓶で」
拓海は素早く空の一升瓶を棚から出すと樽についた蛇口をひねって日本酒を注ぎ込んだ。
一刻も早く商品を渡して金を受け取って帰ってもらいたかった。
「ああ、見てたぞテレビ。すげーな、セリフのある役もやってたじゃん」
「まあ、見ててくれたの?そうなの、最近の役はみんなセリフのある役なのよ」
やめてくれ。頼むから。
「再現ドラマなんて、迫真の演技だったよな」
「おかげさまで、お昼の番組はほぼ毎日レギュラー状態だったのよね」
つづく