「・・・お父ちゃん、会ってほしい人がいるんだ」
ぼんやりと居間でテレビを見ながら、俺は夕飯のやたら辛いカレーを食べていた。番組
はやたら大げさな話ばっかりのニュース番組だった。
そこへ大学2年生になる娘の佳美が俺に話しかけてきたんだ。
「・・・ん、だれよ?」
「カレ・・・かな? 」
「・・・あ?」
マジか・・・。
こういう時、とっさに言葉が出てこない自分の頭の悪さがいやになる。
少し頬を赤くして、視線を合わせようとしない佳美を、目をぱちくりさせながら見つめて
居たら、テレビでアナウンサーが「大変なことですねぇ・・・」とため息交じりに言った。なんか、
大変な事みたいな気がしてきた。
佳美はテレビを軽く睨みつけて立ち上がる。
「考えておいて」と言い残して、バタバタとスリッパの音を立てて行ってしまった。
・・・そんなこと、言ったってようお。
午後6時30分。
俺は玄関にかけてある紺色のブレザーを羽織った。白い帽子をかぶって、手袋をはめる。
鏡を見て帽子の角度と、「白石鷹志」と書かれた名札を慎重に直してから、笑顔を作って営業
スマイルのチェック。
・・・よし。
靴を履いて玄関を出ると深い紫色の空。オレンジの夕日がほんのり遠くに残っていた。
アパートの駐車場に停めてある、「個人タクシー」って書かれた車に乗り込むと、エンジン
をかけてアイドリングをしながら備品を確かめる。
免許証に車検証、乗車記録とお釣りの小銭、眠気覚ましのガム・・・。
それから、少し目を閉じて、今日のルートをもう一度チェックだ。普段は、目を閉じて集中
すると、走りなれた東京の道が目に浮かぶ。けど、今日は佳美の照れくさそうにうつむいた顔
が浮かんできやがる。 ・・・会ってほしい人って言うくらいなんだからなあ。そういうことだよな。いきなり「娘さん
をください」とかって言われちまうのか?・・・いやそりゃ早いだろ・・・。
と、佳美の歳を数えて気が付いた。いつの間にかあいつ、俺の結婚した時と同じ年だ。
ふうっ、って大きなため息が漏れる。
・・・とにかく、今日の仕事が終わったら、だ。とにかくな。
俺は頭を振った。ハンドルを握ってアクセルを軽く踏み込むと、車はゆっくり動き出した。
佳美は俺が22歳、母親の恵理佳が21歳の時に生まれた娘だ。
俺の家は、おやじが小学生のころに逃げて、おふくろは、働きっぱなしだった。おばさんと
か、遠い親戚の人とか、おふくろの友達とか、いろんな人のところにいったり、世話になった
りして育ってきた。
身体が小さくて、頭も悪いし、親もいないみたいなもんだったから、俺はよくバカにされ
た。負けん気だけは強くて、それが悔しくて悔しくて。でもどうしようもなかった。だから、
ケンカが強いっていう先輩や、ヤンキーみたいな人たちにくっつくようにした。そうすれば、
馬鹿にされることはなかったからさ。
そういう連中の集団も、入ってみれば居心地はよかった。「ハイ」「ハイ」って素直に言うこと
聞いとけば、案外先輩たちもやさしくって、いろいろ面倒を見てくれたし。それで、先輩
たちと同じ高校に行ったんだ。家に金がないってことは知っていたから、高校を卒業してすぐに
フリーターになった。でも、どのアパートも長続きしない。上の奴と喧嘩したり、飽きたり
でやめてばっかり。何となく、飯を食っていければいいや、なんて思っていたっけ。
ある日、コンビニの店長にねちねち嫌味を言われて、「やってられっか、くそやろー!」
なんてバイト先を飛び出してふらふら歩いていたんだ。そしたら、高校の時の先輩のモモセさん
が声かけてくれた。よく一緒に悪さして、しょっちゅう使いっ走りさせられた人だ。
「おう、タカシじゃねーか。あー?バイトやめた?じゃーさ、うちで働けよ」
場所は、池袋から電車で30分ほどの街にあるいかがわしい通り。
モモセさんは、キャバクラのボーイをやっていた。俺も「じゃ・・・」って即決。
最初は呼び込みとか、「タカシ、たばこ!」みたいな使いっ走りだったけど、給料がよかったから、
気にもしなかった。そこに入居してきた新人のホステスが、恵理佳だ。
恵理佳は背が小っちゃくて、黒目勝ちの大きな目、丸い顔で愛嬌のあるタイプ。肌を
日焼けサロンでよく焼いてて、遠目で見るとなんかミッキーマウスみたい。
恵理佳と俺は最初から気があった。
聞けば恵理佳も両親がいなくて、同じような育ち方をしていたんだ。
飯を食べに行ったり、遊びに行くようになって、俺たちはすぐに付き合いだした。もちろん、
キャバクラじゃ店員とホステスの恋愛は禁止だから、モモセさんにも黙ってたけど。
ちくちく肌に刺さるみたいな冷たい雨が降る、真冬の夜だった。
派手なネオンばっかり目立ってて、通る人もいないから、適当にサボって缶コーヒーを
すすってたら、派手な真っ白のコートを着込んだ恵理佳が、様子見だってやってきた。
俺を見つけてから、「さっむーい」って恵理佳は笑った。
それから、しつこい客や、小うるさいマネージャーの話をしてたら、いきなり恵理佳が俺
のジャンバーの袖をギュッと握りしめてきたんだ。
びっくりして顔を覗き込んだら、少し目を潤ませて恵理佳は言った。
「タカちゃん、」できちゃったみたい・・・」
は・・・?聞き返しそうになったけど、すぐに言葉を飲み込んだ。もう、ほとんど二人で
暮らしてるような状態だったし、いつそうなっても、おかしくはなかった。
でも、子供とか、親になるとか、結婚とかそういうことは、俺の頭の中には
全然なかった。だって、まだ高校を出てから3年くらいしかたってないんだぜ。金もないし、
どうにか暮らしていくのが精いっぱいだ。それに、家族とかそういうの、俺にはなかったから。
「・・・そっか。どうすんだ」
恵理佳の」顔をまともに見られなくって、はーって白い息を手に吹きかけながら誤魔化した。
「あたし、産みたいよ。タカちゃん、子供産みたいよ」
恵理佳は俺を見上げた。ぽろぽろ涙流して、鼻水が出てて、目が赤くなってて・・・。それ
で、小さな子が真っ赤になるほど、強く俺のジャンバーを握りしめていた。
子供なんて、面倒だし、金もかかるし、これからどうなっちまうかもわからないし・・・。
でも、恵理佳の思いは胸にぐっと来た。だから、俺はうなずいた。
ただ、恵理佳の願いをかなえてやりたい、って。そう思ったんだ。
俺たちは、逃げるみたいにしてキャバクラを辞めて、二人きりで結婚した。今でいう「デキ婚」
ってやつだ。それから、1年もしないうちに佳美が生まれた。
「ほら、パパよ」って、まだ真っ赤でもぞもぞ動いてるだけの赤ん坊を見せられたけど、正直
なところぴんと来ねえって思った。ドラマみたいに「ああ、俺の子なんだ」なんて感動した
りはしなかったな。それよりも、涙流して喜んでた恵理佳の姿が、俺にはうれしかった。
俺はアルバイトをめちゃくちゃやりまくった。恵理佳がもっともっと、お金が必要だから、
って言ったからな。体力と根性だけは自信があったから、働きまくった。朝は駅前のチラシ配り、
昼はファミリーレストラン、夜は工事現場って、そんな調子で。
恵理佳も慣れない子育てを一生懸命やっていた。俺よりもひどい夜型人間だったくせに、
朝、佳美が泣けば飛び起きてミルクをあげた。バイトで慣れて俺よりも料理ができなかった
くせに、何冊も本を買ってきて離乳食をちまちまと作っていた。
俺は俺で家に帰るとすぐ寝ちまって、朝からはまたバイトに行って、恵理佳はほとんど
一日中家で佳美の面倒を見て、家事をして、気が付くと、一日、二日、一週間・・・ろくに
口も利かない日が続いた。
それが、まずかったんだろうな。佳美が生まれてそろそろ一年になるころ、珍しく
難しい顔をした恵理佳が、朝飯のシシャモをつついてた俺の前に座って言ったんだ。
「・・・タカちゃん、ごめん。あたし、好きな人ができちゃった」
はあ?って。
ただ何にも考えられなくなった、俺の役立たずの頭は固まっちまった。だから、
逃げた。「今日は9時に帰ってくるから、あとで話ししようぜ」って、アパートを出たんだ。
それが、もっとまずかった。夜、いつもより疲れて帰ってきたら、布団で寝息を立ててる
佳美と、机の上に「ごめん」って書置きが残ってた。23歳になったばっかりの俺と、
もう少しで一歳になる佳美が二人っきりで置いてけぼりにされちまったんだ。
それから、恵理佳には会っていない。
今日は空模様が怪しい。夜は雨になるって、天気予報でも言っていた。こういう、夕方
からの雨って言うのは、売り上げが伸びる。タクシー・ドライバーにとってはラッキーだ。
本格的に都心に出る前に、俺はいつものガソリンスタンドに車を入れた。
ここでガスを入れて、週に2,3度は軽く洗車をするのが、いつもの習慣だ。
ガスを入れてもらってる間、トランクから雑巾とスプレーを取り出してまずはガラスを磨く。
ちょっとでも油が残ったいたり、水滴の汚れがついていたりすると、運転中、いらいらするんだ。
だから、フロントのガラスは念入りに磨くことにしている。
顔見知りの店員が「チワーす。今日も手際いいっすね」と声をかけてきた。
当たり前だ。長いこと、佳美の面倒を見ながら、家の掃除もやってきたんだからな。
これくらい、なんてことはねえんだ。佳美と二人っきりにされてから、長い間。
恵理佳がいなくなってから、俺はキャバクラ時代の知り合いとか、近所の付き合いのある
人とか、心当たりに片っ端から電話した。深夜だったけど、そんなのかまってらんねえ。
でも、恵理佳はどこへも行っていなかった。
椅子に座り込んだまま、長い間、俺は動けなくなっちまった。そしたら、佳美が目をさま
して、いきなり泣き始めた。
赤ん坊の泣き声って言うのは頭の中に響くんだ。声が大きいとか、甲高いとかそういう感じ
じゃないけど、家の中のどこにいても聞こえる。正確には心に響く声って感じ。「放って
おいたらやべえ」って気持ちにさせる声なんだ。
あわてて抱き上げて、揺らしたり、なだめたりしてみたんだけど、佳美は泣きやまない。
腹が減ったのかもしれない。台所に置いてあった哺乳瓶に、粉ミルクをぶち込んで、適当に
かき混ぜてやったら、すごい勢いで吸い付いた。
ミルクを飲ませて、少し抱っこしてやったら、また佳美は眠ってしまった。
その時、やべえことになった、って初めて気が付いたんだ。
大体、俺は子供なんか欲しくなかった。恵理佳がどうしても、って言うから、
恵理佳が喜んでくれるって思ったから。時間を見つけて、どこかそういう施設なり、孤児院みたい
なところに預けるしかない。俺にこんな赤ん坊を育てるなんて、無理だろ。
次の日、佳美をおんぶしたまま、高校時代に面倒を見てもらったおふくろの遠い親戚の、
関口さんっていう人に電話した。困ったことがあると、相談に乗ってもらってたから。
関口さんの奥さんが赤ん坊の世話に詳しくて、食事のこととか、寝かせ方とか、
おむつとか、あやし方とか、いろいろ教えてくれた。それに俺が働くのなら、
子供を預けられるベビーシッターだとか保育園だとかのことも。
すぐに施設に連れて行くって言うのも難しそうだったから、当面、恵理佳が残していった
道具をいろいろ引っ張り出して、説明書とか広げながら世話をすることになった。

おむつを裏表逆にくっつけておしっこが漏れまくったり、粉ミルクの分量を間違えたドロドロ
の濃いやつを飲ませて吐かれたり、風呂で滑って佳美をかばったら足を強打して青あざ
作ったり、疲れて寝ちまって気が付いたら佳美が隣で大泣きしてたり・・・。
赤ん坊って言うのは、5分も放っておけないんだぜ。淋しがってすぐに泣いちまうし、
手当たり次第にものを引っ張ったり、動いて椅子から転げ落ちそうになったり、何でもしゃぶろう
とするからアブねえし。
背中におんぶして、買い物に行ったり、ベビーカーに乗せて近所に用足しに行くくらいで、
外に出ることもできなくなっちまった。タバコも吸えねえし、いらいらはサイコーにたまる。
それでも、世話ってのはやっていれば、それなりに慣れてきたり、放っておけなくなるもんだ。
なんとなくその気になってきて、本とかも調べた。「赤ちゃんが喜ぶ保育」とか「乳児と
発育の食事」とかな。いろいろ、接客のバイトとか、飲食系の仕事をやってたのが役に立った。
いつの間にか、俺は佳美の世話をこなせるようになってた。特に、唇を震わせて「ぶぶぶぶ」
って音を立ててやるのが大好き。最初は俺が遊びでやってやったら、佳美も真似するように
なった。
二人で「ぶぶぶぶ」ってやって、笑いあう。だって、信じられねえよ。それまでいろんな
パートで「無愛想」だとか、「接客業の基本は笑顔だ。それができないんだったらクビだ」
なんて言われてた俺が、「ぶぶぶぶ」とかって。なんなんだって・・・。
でも、そんなに簡単なもんでもない。ゆっくり慣れて行こう、なんて言ってられる程、
俺には余裕がなかった。
夜、佳美をおんぶしてコンビニに行って、いろんな支払いをした。電気とガスと電話と水道、
それに家賃・・・。財布の中を見てみたら、残りは千円札が何枚か。あとは小銭。バイトも
休みっぱなしで、このままじゃ、全部クビだ。来月からどうやって暮せばいいんだ?
赤ん坊を背負ってバイトになんか行けねえよ。今すぐ、預かってくれる人なんかいないし、
第一そんな金もない。恵理佳も飛び出したままで連絡も取れない。
家に帰ってきて、玄関に座って靴を脱いだら、がっくり力が抜けちまった。」ぼんやりしてたら、
佳美が起きだして、いきなり泣き始めた。
くそっ、泣きてえのはこっちだっつーの。
「うるせえよ!」
俺は初めて、佳美を怒鳴りつけた。一瞬、佳美は身体を硬くしたけど、すぐにもっと
でっかい声で泣き始めた。
もう無理だ。佳美さえ、こんな赤ん坊さえいなかったら・・・。
その夜、俺は本気でそう思った。
つづく