男は敷居をまたげば7人の敵がいるそうだ。今の時代、女だって敷居くらいまたぐ。ゆえに女にも7人の敵が
いる。そして、女の敵はたいてい女だ。
私は負けない。もう負けない。ぜったい負けない。ぜったい。
「あれぇ?焼けてませんね?」
大場和葉が夏季休暇を終えて出社すると、まずかけられた言葉がこれだった。ふりむくと、和葉が課長を
務める海外事業部グローバルマーケティング課で事務を担当してくれている赤坂優香が小首をかしげて
いた。
「長いお休みだったから、てっきり海外リゾートにでも行かれたのかと」
完璧なアイメイクをさらに引き立たせるようにまばたきをして、優香は薄く笑う。和葉が9日間の夏季休暇
の前後に2日ずつ有休をくっつけて、ほぼ半月休んだことを暗に皮肉っているのだと分かった。濃い
アイラインと長いまつげに縁どられた眼の中の冷めた色は、和葉に遠い昔の傷を思い出させる。理性を
超えて感情が動き、心臓が早鐘を打った。だいじょうぶ、と和葉は自分に言い聞かせる。優香は12も年下の
部下だ。私も彼女ももう十分大人だし、優香は働く母の顔も持つ。暇を持て余し、イジメしか娯楽のなかった
中学生とは違うのだ。怖がることなんてない。負けてたまるか。
和葉は微笑んで「なかなか行けませんよ」と答え、自分の席に着くとPCの電源を入れた。
「髪型変えました?」
追いかけるように優香から質問が投げられ、和葉は思わず頭を押さえてしまう。
バレたんだろうか?この髪がカツラだって・・・・・・。
おそるおそる見上げた優香の顔に何の含みのないのを見て取り、和葉はホッと息をついた。 平静を
よそおって
「ええ」とうなずき、PC画面をにらむ。意識したせいか、頭の中がかゆくなってきた。ウィッグが蒸れている
のだ。安物を買ったわけではないのに……。和葉は午後に控えている会議の資料ファイルを開きながら、
いらいらとキーボードを爪ではじいた。
海外にいる営業部員とのWeb会議が始まってすぐ、和葉は強い不快感に襲われた。めまい、耳鳴り、
手足の震え・・・・・・それらを何食わぬ顔でやり過ごすことに全精力を傾けているうちに、調査報告として
挙がった数字や意見は耳を素通りしてしまった。
たっぷり2時間かかった会議が終わると、和葉は一番に席を立ち、トイレへと駆け込む。そのまま
1時間ほど便器を抱えて激しい嘔吐を繰り返した。
はけるものが何もなくなってようやく脂汗をぬぐいながら席に戻ってきたが、目の前が揺れてPC画面は
おろか紙の資料すら見られない。和葉は机に突っ伏したい気持ちを懸命に抑えて、ひたすら時間が
過ぎるのを待った。
終業のベルと同時にPCの電源を落として立ち上がると、優香が険しい顔で近づいてきた。
「10月の海外出張なんですけど」
声はとがり、繭は吊り上っている。
「大場課長だけ予定表がまだ出ていません。ほかの人たちとのスケジュール調整ができないんですよ
ね・・・・・・」
「あ、そうだったわね。すみません。すぐやりますから」
和葉が吐き気をこらえて頭を下げると、優香はわざとらしいため息をついてみせた。
「今から?明日でいいです。わたし、もう帰るんで。保育園のお迎えに行かなきゃ・・・・・・」
気楽な独身者のあなたとは違うんです、という優香の本音が聞こえてくるようだ。
和葉を席に残して去りかけた優香だが、「そうだ」とつぶやき、振り向く。
「大場課長。忙しいときは、仕事を誰かに割り振ってくださいね」
今度は和葉がため息をつく番だった。
会社に認められる人になる。入社以来20年、その気構えでやってきたのだ。私には夫も子供もそして
気のおけない友達だっていない。だから、せめて会社に必要とされたいと思ってやってきた。誰かが簡単に
変われるような仕事をしているとは……実際そうだったとしても……思いたくないのに。
小走りに帰っていく優香の背中を眺めながら、和葉は苦い唾を飲み込んだ。
和葉が自宅に帰り着くと、快適な涼しさで満ちていた。出勤前にタイマーをセットしていったクーラーの
おかげだ。和葉は玄関でパンプスを脱ぎ、廊下を歩きながらウィッグを投げ捨て、メイクとスーツは
そのままでリビングに置かれたソファにへたり込む。あらゆる痛みと気持ち悪さが押し寄せ、ソファに
めりめりと沈んでいく気がした。
高い天井から下がった北欧のモダンな照明器具を見上げ、和葉は呻く。
「ローン・・・・・・あと12年」
窓から六本木やお台場の夜景が望める都心のタワーマンション32階、70平米の2LDKが和葉の城だった。
3年前の課長昇進をきっかけに一大決心して購入したのだ。独り暮らしには広すぎ、気負いすぎた
マイホームだが、定年まできっちり勤め上げる覚悟を形にしたかったのだ。覚悟さえあれば働き続けられる
と信じていた自分の無邪気さに舌打ちしたくなる。
6月に行われた会社の健康診断で引っかかった。脇の下に小さなしこりが二つできていた。
大学病院でマンモグラフィ、MRI、さらにCTとエコーで入念に再検査し、たった一人で「乳がん」の告知を
受けた。医師と一緒に様々な治療方法を検討し、化学療法を行った後に手術という選択をしたのも
和葉自身だ。
誰にも相談しなかった。いや、「できなかった」と言った方が正しい。和葉には交友関係と呼べるものが
ほとんどなかったから。
治療方針が決まると早速半年間の抗がん剤治療が始まった。和葉の場合、この治療で腫瘍をどこまで
小さくできるかによって乳房温存か切除か、手術のやり方が決まるらしい。
薬の副作用には個人差があるという話だったので、第一クールは会社の夏季休暇にぶつけ、なるべく
仕事を休めるよう調整した。それでもこのざまだ。今日一日まるで使い物にならなかった。
「闘病と仕事の両立なんて、本当に可能なのかな?」
答えの出ない問いが、和葉の心に黒々とした影を落とす。会社にいられなくなったら、私はどうやって
生きていけばいいんだろう?貯金が底をつけば病院だって通えなくなる。
宙を仰いだ視線は窓の外のまばゆい夜景ではなく、暗い部屋の隅に置かれた電話に注がれる。
条件反射のように実家の電話番号が浮かんだ。去年の正月に会ったきりの両親の顔が頭から
離れなくなった。和葉は電話に走り寄る。しかし、受話器を取り上げることはできなかった。
いつまでたっても孫を抱かせてあげられない親不孝に加え、これ以上心配事を増やしてどうする?
両親には、一人娘として何不自由なく育ててもらった。地味な外見でとりえも特になかった和葉だが、
親から見れば大事な可愛い娘だったのだろう。父母の4つの瞳はたえず和葉に注がれていたような
気がする。
だから中学時代、和葉がいじめに逢った時も、何も言わないうちから両親は気づいていた。そして本人より
深く重く傷付いたらしい。和葉にかける言葉を考えあぐね、腫物扱いするあまり、母親が和葉より
はやく体調を崩した。
ストレスで痩せてしまった母親を見たとき、和葉は悟ったのだ。
両親、特に母親には心配をかけてはいけない。私は負けてはいけないのだ。ぜったいに。
けっきょく和葉はイジメられながらも一日も休まず学校に通い続け、クラス中に無視されるのを逆手に
取って勉強に集中したおかげか、県内でも有数の進学校に合格することができた。その「勝利」は両親に
喜びの涙を流させ、和葉の「私は負けない」という決意をさらに固くすることとなった。
以来、和葉はピンチであればあるほど口をつぐみ、我慢し、努力することで自分の人生を切り開いて
きた。「せったい負けない」と常に自分に言い聞かせて一人で乗り切ってきた。
だから、と和葉は髪の毛を掻きむしる。今回だって私は負けない。私を気にかけてくれる人は
両親ぐらいだからこそ、彼らには心配はかけたくない。ガンとも一人で戦うんだ。
指先に奇妙な感触があった。恐る恐る両手を顔の前に持ってくると、髪の毛がごっそり抜けて5本の指に
絡みついている。副作用の一つ、脱毛が本格的に始まったのだ。覚悟していたことだが、黒い血のような
髪の塊を見た途端、和葉の心臓は縮み上がった。足が震え、その動きによってまた髪が床に散らばる。
小学生のころから貫いてきたストレートロングの髪が抜けてゆく。和葉が外見で唯一褒められる自慢の
髪が抜けてゆく。
和葉はその場にへたり込んだ。一人が骨身にしみる。結婚もせず、出産もせず、大きな病にかかって
しまった。女の命である髪は抜け、シンボルとも言うべき胸のふくらみも失うかもしれない。身も心も
ボロボロになって命だけは助かったとしても、相変わらず一人であることに変わりはない。一人ぼっちで
今度は10年20年と病気再発の恐怖と戦っていく。そこまでして自分が生きる理由はどこにあるのか?
和葉には正直判らなかった。
私は負けない。イジメられていたころのような思いはもうしたくない。老いた両親に心配をかけたくない。
だから、負けない。負けたくない。負けたくないのに……。
和葉の両目から涙があふれ、頬を伝っていった。
私、負けちゃうかもしれない。いや、気づかないふりをしていただけで、本当はもうとっくにボロ負けだった
のかも知れない。だって私には何もないもの。この世で私の死を悲しんでくれる他人が一人もいないもの。
勝ちにこだわっていろんな人を蹴落としてきた。切り捨ててきた。馴れ合いのつながりなんて邪魔だと
思っていた。でも、そうやってひとりで生きてきたのが一人で死ぬためだったとしたら、私はなんて虚しい
人生を歩いてきたのか……。
夜明け近くまで眠れず、新しい一日を迎えた。寝不足のせいで頭が重く、幸い吐き気はなかったので
二度寝してしまう。次に目覚めると、時計の針は正午を指していた。勤続20年目にして初めての寝坊だ。
和葉は乾いた心で「ま、いっか」とのんびり布団から出た。電話で欠勤の旨を連絡する。海外出張
のための予定表を優香に出していないことで少し気が咎めたが、今の自分には秋の海外出張など
そもそも不可能だ、と気づいて自棄になった。
また布団にくるまり悶々と一日過ごすのも体に悪い気がしたので、最低限の化粧を済まして外に出る。
平日の町は、穏やかな時間が流れていた。今日は和葉の体調も悪くない。しかしウィッグの中は
相変わらず蒸れてかゆかった。残暑厳しいこの季節に、今までに自分の髪型に一番近いロングヘアの
ウィッグを選んだのが失敗だったか、と暗い気持ちになる。
その時、和葉の目に美容院の看板が飛び込んできた。和葉は慌ててスマートフォンを取り出す。
プロの美容師にウィッグをカットしてもらおうと思いついたのだ。会社をサボってしまった日の過ごし方
としては悪くないイベントに思えた。少しは気が休まるかもしれない。
店の立地や従業員の数などの条件を絞って最終的に選んだのは、最寄駅から1時間半ほど
下った街にある一軒だった。
店のホームページに飛んでみると、トップページに大きく「様々な事情でウィッグをかぶらねばならない
貴女のために」という文字があった。なんだか「わかっている」気がする。(ヒロミ美容室)という今時
あまりないストレートな美容院の名前も安心できた。和葉はその場で店に電話を入れた2時間後に
予約を取ると、駅へ走った。
つづく