イタリア遠征軍の司令官として【オーストリア軍】に圧勝し,【第1回対仏大同盟】を崩壊させたナポレオンは,【1798】年,イギリスとインドの連絡を断つため,【エジプト】に遠征して,一挙にその名声を高めた。翌年,イギリスがロシア・オーストリアと第2回対仏大同盟を結成して,フランス国境にせまると,帰国したナポレオンは,【総裁政府】を打倒し,自らを第一統領とする【統領政府】を樹立した。
独裁体制を確立したナポレオンは,1801年,革命以来フランスと対立関係にあったローマ教皇とも【宗教協約】を結んで和解した。さらに,【1802】年にはイギリスとアミアンの和約を結んで,第2回対仏大同盟を崩壊させて終身の統領となった。【1804】年には民法典(ナポレオン法典)を制定して,フランス革命の成果を定着させ,同年,【国民投票】により,帝位についた。これに対抗して,【第3回対仏大同盟】が結成され,【ネルソン】指揮下のイギリス海軍が【トラファルガーの海戦】でフランス軍を破った。しかし,ナポレオンは,大陸では【アウステルリッツの戦い】でオーストリア・ロシア連合軍を破り,第3回対仏大同盟を崩壊させた。【1806】年には,【ライン同盟】を組織してこれを保護下に置き,【神聖ローマ帝国】を消滅させた。さらに,プロイセンとロシアの連合軍を破って,プロイセンの領土の大半を奪い,ポーランドも実質的に支配下に置いた。オランダ・スペインなどには,それぞれ兄弟を元首として配置し,ロシア以外のほぼヨーロッパ大陸全域に及ぶナポレオン帝国を樹立した。
他方で,大陸諸国にイギリスとの通商を禁じたナポレオンによる【1806】年の【大陸封鎖令】は,イギリスよりむしろ大陸諸国に打撃となり,各国に反フランス感情が高まった。ロシアが大陸封鎖令を無視して,イギリスとの交易を再開したため,【1812】年,ナポレオンはモスクワ遠征を試みたが,冬季のきびしい気侯などのために敗走した。これをきっかけに,各国はいっせいに反ナポレオン闘争に立ちあがり,1813年に【ライプチヒ】でナポレオンを破って,翌年にはパリを占領した。ナポレオンは退位し,いったん【】エルバ島に流されたが脱出し,帝位に復帰した。しかし,【ワーテルローの戦い】で再び敗れ,【セントヘレナ島】に流されて,その帝国は完全に崩壊した。ナポレオンが没落した後のヨーロッパの国際秩序を決めるために【ウィーン】で国際会議が開かれ,保守反動的なウィーン体制が確立した。
これに対し,フランス革命とナポレオン支配のもとで目覚めた【自由主義】・【国民主義】の精神は,諸国民の間に抵抗運動を引き起こした。この後,【1848】年までのヨーロッパの歴史はウィーン体制を守ろうとする保守主義と自由主義・国民主義との戦いの歴史であった。