18世紀後半のフランスには,中世以来の少数の特権的な第一身分の【聖職者】,第二身分の【貴族】が,全人口の9割以上を占める第三身分の平民を支配する身分制が残っていた。のちに【アンシャンレジーム】(旧体制)と呼はれるようになったこの体制は,産業の発展にとって足枷(あしかせ)と意識されるようになった。また『第三身分とは何か』で高名な【シェエス】などの知識人による体制批判も活発となっていた。
 たびかさなる戦争と宮廷の浪費によって,国家財政が危機にひんしたので,国王【ルイ16世】は重農主義者の【テュルゴー】や銀行家【ネッケル】を登用して財政の改革をはかったが,特権身分の抵抗にあって挫折し,そこで,三部会を招集して危機の打開を目指した。
 三部会は1789年5月に開催されたが,投票方法をめぐって対立が激化し,第三身分の議員を中心にして国民議会が形成され,憲法の制定まで徹底抗戦することが誓われた。しかし,彼らが憲法制定を求めて貴族や国王と対立をつづけているなかで,1789年7月14日,パリの民衆が,ついに不満を爆発させ,専制政治の象徴とみられていた【バスチーユ牢獄】を襲撃し,さらに,全国各地で農民反乱が始まった。こうした民衆の圧力のもとで,国民議会は,封建制の廃止を宣言するにいたり,同年8月26日,「人間と市民の権利に関する宣言」という,いわゆる【人権宣言】を発表した。
 1789年の10月にはパンを求めて女性たちが【ヴェルサイユ】まで大行進をおこない,国王はパリに連れ戻され,国民議会もパリに移った。改革は進行し,1791年9月には一院制の立憲君主政が生まれたが,しかし国王は【ヴァレンヌ逃亡事件】などで国民の信頼を決定的に喪失していた。これは国王が王妃マリ=アントワネットの実家のあるオーストリアに逃亡を試み,失敗した事件である。
 1792年になると王政の廃止を主張する【ジロンド派】が立憲君主主義者をおさえて主導権を握り,オーストリアと開戦した。戦局が不利になり,オーストリア・プロイセン連合軍がパリに迫ると,全国各地からの義勇兵がパリに集結して革命を防衛した。現在のフランス国歌はこのとき【マルセイユ】からきた義勇軍に歌われていた軍歌に由来する。パリの民衆と義勇軍は同年8月に国王を逮捕し,王政の廃止,共和政の樹立が宣言された(第一共和政)。政治の舞台では,【ジロンド派】に代わって急進派のジャコバン派が台頭し,1793年1月に国王は処刑された,こうした革命の進行に衝撃をうけて,イギリスの首相【小ピット】は第1回対仏大同盟を結成して,革命フランスへの包囲網を強化した。こうしたなか,【ロベスピエール】をリーダーとするジャコバン急進派は独裁体制をひき,公安委員会と保安委員会を使って恐怖政治を展開した。しかしこの独裁も長くは続かず,1794年に【ロベスピエール】は処刑されることになる。これを「【テルミドール】の反動」という。