1791年の6月事件(ヴァレンヌ逃亡事件)で国王ルイ16世一家がパリのチュイルリー宮殿に連れ戻され、国王に対する市民の信頼は急落したわけです。宮殿にはフランスの軍事機密をオーストリアに漏らした証拠が多数発見されたのも、ルイ16世一家を窮地に追い込んでいました。そこで、妹家族の危機を救うために同年8月、兄の墺皇帝レオポルド2世が普王とともに「ピルニッツ宣言」をだし、革命政府に対して圧力をかけました。
間もなく1791年憲法が制定され、立法議会が発足しました。立法議会を取り巻く政治課題は、「ピルニッツ宣言」にいかに対応するかです。つまり戦争をするのかしないのか?この時点では国王ルイ16世は組閣権を持っています。誰に政治を担当させるかは国王が決められるわけです。ルイ16世は国境に常備軍を配備してますが、自分を助けに来る軍隊、つまりオーストリア軍やプロイセン軍は自分の味方です。戦争になって早く国境を突破してパリに来てほしいわけです。一方、フィイヤン派のラファイエットは戦争になったら勝てっこないと思っています。だから戦争反対です。戦争になって負けてしまえば、革命の成果はなくなり、もしかしたら自分たちは処刑されるでしょう。彼らが考える革命の成果とは、立憲君主制を守ること、つまり91年憲法死守です。次にジロンド派は戦争賛成でした。彼らはもう少し混乱が続いて共和制まで行きたいと考えている人々です。戦争になったら何か起こるぞ!といった感じでしょう。科フィイヤン派と違ってジロンド派の支持者は政治経験もなく、軍事情報も持っていません。敵がどれだけすごいかも知らないのでそんなことを考えたのでしょう。
ルイ16世は最終的に回線を主張するジロンド派に政権を担当させました。墺普との戦争が始まると、インフラになり、さらにカリブ海のハイチでは独立運動が始まりました。戦争・インフレ・ハイチといった危機的状況を「92年の危機」と呼びます。戦争はまさに危機的で、墺普軍は国境を越えてパリに迫ります。あわてたラファイエットはルイ16世に妥協を申し出て、国王大権を認める代わりに命乞いをしました。
この状況でジロンド派議員は議会で「祖国は危機にあり」の宣言を出し、国民に革命を守るための義勇軍を呼びかけました。これを受けて、パリをめざし各地から続々と人々が集まってきました。とくに有名なのはマルセイユ義勇軍とブレスト義勇軍でしょう。
ジャコバン・クラブのメンバーはこの時を待っていたのかもしれません。パリのサンキュロットと田舎から出てきた義勇兵を率いて、ルイ16世が住むチュイルリー宮殿を攻撃し、ルイ16世一家を逮捕したのです。「8月10日の革命」はこうして起こりました。この時、フィイヤン派議員は早々にパリから逃げ出し、ジロンド派議員は立法議会の議場でただ見ていただけでした。
「8月10日の革命」でルイ16世が逮捕されたので、ジロンド派だけが残っていた立法議会は、ルイ16世の王権を停止し、普通選挙の実施に踏み借りました。その結果、1792年9月に国民公会がスタートしました。王権は停止していますから、国民公会は国王がいない政体である「共和制」といえます。