大栄西瓜の季節が到来した。旬は6月下旬から7月初旬までである。竹内まりやの「人生の扉」(2007)に、「満開の桜や色づく山の紅葉を、この先いったい何度、見ることになるだろう」という歌詞があるが、食い意地の張っていた頃の筆者にすれば、「砂丘の西瓜や熟した岡山の白桃を、この先いったい何度、食すことになるだろう」である。今年は特大でも例年より小ぶりだが、利尿効果もあるため、夏のスイカは欠かせない。

 

ワンコが脚を挫いた。散歩から戻った折に、勢いよく、座面が高めのソファーに飛び乗ったが、そのままの勢いで、飛び降りたのがまずかった。普段、ソファーから降りる際は、床の状態を見ながら、静かに降りていた。仔犬のときに、庭にある鉄製のベンチ椅子の座面の格子穴に脚を引っかけて宙ぶらりんになった経験があり、それ以来、椅子の登り降りには慎重になっていたが、今回は一瞬の隙を突かれた格好である。

 

身の弱体化を案じてか、負傷時は防衛心がより強くなるようだ。室内の居場所が普段と異なる。部屋の奥に行きたがるのだ。しばらくは、洗面所の隅っこに寝そべって、じっとしていたし、筆者の寝室でも、出入り口から離れた、外敵を警戒したときしか横たわらない、筆者よりも奥のスペースに陣取って休む。まあ、今は、安静が第一だ。現在もわずかに脚をかばう様子があるが、食欲もあるし、時間が立てば治るだろう。

 

今週の室内ランについては、週末に60分(L4)を1回だけ試したが、残りは30分(L4)×2回となった。このところ、半時間(L4)の運動時間に慣れているせいか、1時間(L4)のランニングは、かなり、きつく感じた。まだまだ、30分がやっとの日もあり、なかなか、以前の状態には戻れない。ただ、投薬のおかげで、夜中にトイレに起きる回数は少なくなった。それとともに、睡眠の質も、少しずつ、向上してきている。

 

運動時には、本ブログで紹介したことのある『大統領の執事の涙』(2013)同様、以前から気になっていた『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015)を観た。期待にたがわない、なかなかの佳作であった。初観の映画は、細かいエピソードや気の利いたセリフを観(聞き)逃がしたりしがちで、たいていは、整理する前に、観直すようにしている。そこで、今回は、作品を1本に絞り、気合を入れて、じっくり鑑賞した。

 

トランボ役のブライアン・クランストン(1956-)は、馴染みのない役者だが、筆者は一遍に彼のファンになった。クランストンは、米国のテレビドラマや、ブロードウェイ演劇で活躍した俳優で、主演男優賞を何度も受賞している名優である。渋い演技は、ダニエル・デイ・ルイス(1957-)を髣髴とさせるし、実直な演技は、『ウォール街』(1987)で航空会社の労働組合幹部を演じたマーチン・シーン(1940-)を思わせる。

 

妻役のダイアン・レインは、コップ回しの曲芸シーンが見ものだが、今回は、抑えた演技で、言葉少なに夫に寄り添う控えめな妻を演じている。逆に、ご意見番のコラムニストであるヘッダ・ホッパー役のヘレン・ミレンは、MGMのオーナーを脅す役どころなど、存在感のある派手な演技が目立つ。長女役のエル・ファニングは、誰かに似ていると思ったら、『アイ・アム・サム』(2001)のダコタ・ファニングの妹であった。

 

ダルトン・トランボ(1905-76)は、『ローマの休日』(1953)、『スパルタカス』(1960)、『栄光への脱出』(1960)、『パピヨン』(1973)などの名作を手がけた脚本家で、共産党員でもあったために、当時の保守が主流のハリウッド映画界から睨まれ、「ハリウッド・テン」の脚本家の一人としてブラックリスト入りしてからは、長い間、匿名でB級映画の脚本づくりや、その手直しをして生計を立てることを強いられた異色の作家である。

 

本作にはこれらの作品の名場面も登場する。『ローマの休日』では、ローマの観光名所「真実の口」で、グレゴリー・ペック扮する新聞記者が、オードリー・ヘプバーン演じる世間知らずの王女におどける場面が有名である。『スパルタカス』では、黒人剣闘士のドラバが、剣を落としたスパルタカスにとどめを刺すようにクラッススから命じられるが、主人公は殺さず、この元老院の大物を目がけて槍を投げるシーンが印象的である。

 

この2作は何度も観ているが、トランボが作中で傑作だと語っていたMGMの『黒い牡牛』(1956)も観てみたい。『黒い牡牛』はメキシコで闘牛を観た体験に基づく作品である。観衆が熱狂するなかで、トランボは家族と涙を流したという。『ローマの休日』のような脚本は、リベラルな優しい感性の持ち主にしか書けないはずだ。トランボの作る「説得力のあるハッピー・エンドの脚本」はMGMからも高い評価を受けていた。

 

ストーリーをみてみよう。作品の冒頭で、ジャズが流れ、時代背景の解説が始まる。「1930年代、大恐慌とファシズム台頭を受け、数千人のアメリカ人が共産党に入党。第二次世界大戦で米ソが同盟を結ぶと、入党者は増加した。労働運動の旗手だった脚本家ダルトン・トランボは1943年に入党。だが冷戦が始まり、共産主義者は疑惑のまなざしを向けられる。」(日本語字幕)最初の舞台は、1947年のロサンゼルス北部である。

 

ある日、主人公らは、非米活動委員会から召喚状を受け取り、議会で証言を迫られる。「ハリウッド・テン」と称された10名の脚本家らは、証言をはぐらかし、侮辱罪に問われ、訴追され、有罪となる。上告はしたものの、有罪は確定し、1950年の6月から1年近い服役を強いられる。ゴッホの名画を売却して弁護費用を捻出したエドワード・G・ロビンソンは、業界から干されて仕事がなくなり、彼らを裏切る証言をする。

 

ジョン・ウェインや、やり手のコラムニストのヘッダ・ホッパーは、反ソ思想の強硬派として、トランボらを糾弾する。逆に、グレゴリー・ペックや、ルシル・ボールは彼らを擁護する。後に、カーク・ダグラスは、彼の才能に惹かれて、『スパルタカス』の脚本依頼をする。映画監督のオットー・プレミンジャーも、彼の噂を聞いて、『栄光への脱出』の脚本づくりを頼む。時代の変化を感じた二人は実名公開に踏み切るだろう。

 

話を服役後に戻すと、ブラックリストは有効で、トランボは、家族を養うために、やくざまがいのB級映画製作会社と契約を結ぶ。1952年には、家族とカリフォルニア州のハイランドパークに移り住み、隣人から嫌がらせを受けながらも、家族協議で団結を強める。彼には炭酸飲料を浴びせられた過去もある。そんななか、他人名義でパラマウントに売り込んだ『ローマの休日』は、1953年に初上映されて、大成功を収める。

 

トランボは、薄利多売のB級映画の脚本づくりに専念するために、服役仲間にも脚本書きを呼びかけ、家族全員にも協力を仰ぐ。長女は清書係、妻は配達係、長男は電話係、次女は応対係となる。自宅は家内工場の様相を見せる。彼が誕生日にも顔をみせずに仕事に励んでいたことで長女は反発するが、「家族への無関心は家庭崩壊に繋がる」との妻の説諭を受け入れた主人公は、長女と真摯に向き合い、家族の危機を乗り越える。

 

最後のクレジット前の本人発言の紹介シーンで、トランボは「娘が戦士として頑張ってくれた」点を強調する。長い間、原稿の清書を引き受けていた長女は「全作のタイトルを覚えて」おり、「アカデミーのオスカー像は娘に渡したい」と語っていた。『大統領の執事の涙』でも、キング牧師の「執事も戦士」の至言があったが、トランボが弾圧の日々を家族総出で乗り切ってきたことを考えると、たしかに、「家族も戦士」である。

 

この米国版「赤狩り」ドラマを観て、筆者は、斜に構えているが家族や仲間に忠実な主人公の生きかたに感銘を受けた。他の党員から「あんたはリッチに暮らしていて信用できない。すべてを手放してまで正義を貫けるか?」と問われて、トランボは「私は負け戦をしないから、すべては手放せない、特に家族はな。」と答える。金持ちで共産党員というアンビバランスや、『ローマの休日』と共産主義とのイメージ落差も目を引く。

 

音楽ネタに移ろう。音羽美子の「夢が私を呼んでいる」(1952)でも、石井千恵の「夜の雨なら」(1957)でも、斎藤京子の「旅は浮雲」(1957)でも、野村雪子の「潮来通いのポンポン蒸気」(1958)でも、君和田民枝の「遊覧船のマリンガール」(1958)でも、モデラートの指示があったが、最初の曲は108、最後の曲は96、それ以外は84を選択した。君和田の曲は、108だと速すぎ、84だと遅すぎて、中間テンポにした。

 

島久夫の「波風まかせ」(1957)でも、『歌謡曲全集』の原譜にモデラートの指示があったが、今度は84でも速く感じられたため、昭和歌謡の標準演奏時間の3分前後に合わせると、66に落ち着いた。モデラートの目安は、80~100だろうが、中ぐらいの尺度には大きな揺れがある。モデラートのテンポにこれだけ幅があると、目安の音楽記号が、目安にならず、意味をなさない気がする。テンポ数値を明記したスコアが恋しい。

 

曽根史郎の「八重ちゃんのいる港」(1957)でも、春日八郎の「松吉街道唄」(1958)でも、『歌謡曲全集』の原譜からの電子楽譜の作成において、歌詞は4番まであり、歌唱ファイルは1、2番分と3、4番分とに分けて作成し、手作業で合体させた。伴奏ファイルは半分の長さで作成し、後でコピー処理した。原譜にはモデラートの指示があったが、84ではやや遅く感じられたため、セカンド・スタンダードの108を選択した。

 

鶴田浩二の「東京詩集」(1958)では、『歌謡曲全集』の原譜にMedium Slowの指示があり、スコアメーカーのデフォルトではテンポは66で、モデラートは84であることから、着地点として75±1を考えてみた。原曲の演奏時間(3:30~3:40)ともほぼ一致したため、76を選択した。より速い値を選んだのは、やや遅く感じられる点を考慮してのことである。鶴田浩二の曲は基本的に好きなので、微調整の再アップは厭わない。

 

西田佐知子の「東京讃歌」(1964)と川辺妙子の「ミッドナイト東京」(1969)では、『歌謡曲全集』に収録の1番歌詞しか記載のない原譜の完成度が高く、2番以降の歌詞を入力するだけで、電子楽譜が仕上がった。テンポも、西田の曲は、デフォルトの120のままで、原曲の演奏時間(3分強)ともほぼ一致したし、川辺の曲の原譜にはモデラートがついていて、原曲のそれ(3分強)に合わせて108に設定した。不亦楽乎。

 

美空ひばりの「雨にぬれても」(1966)では、『歌謡曲全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、前奏のオブリガートの一部に、ゴースト3連符が隠れていた。原譜では16分音符の3連符が8分音符になっていたため、修正しようと問題の箇所をクリック選択すると、ゴーストが現れた。また、歌唱部の主旋律の一部に、誤植らしきものが見つかった。歌唱の冒頭部で、B3がA3になっていた。1番歌唱の冒頭部に合わせて修正した。

 

『歌謡曲全集』の原譜には、モデラート・スローの指示があった。「たそがれシャンソン」にならって84にしていたが、最終的には原曲の演奏時間(4:00前後)を念頭に置くことで、94までアップした。『歌謡曲全集』の原譜は未完成で、歌詞は3番まであるが、2番までの想定で作成されていた。残りの歌詞の音配当で曲の構成上の判断を迫る場面が幾つかあった。反復記号の配置を変えたり、記号を増やして対応した。

 

また、本曲では、原譜どおりの演奏だと、アコーディオン音源では、変ロ長調の譜面で、最低音部の2音(D2)が無音化した。美空ひばりは低音に特徴があるため、低音を活かす曲が多い。ボーカル音源は出ていて、太い低音で、当該箇所の伴奏不在は目立たないため、とりあえず、そのまま、アップした。移調によるキーのアップは曲調が損なわれることもあるので、慎重に行わねばならない。問題があれば、再アップしたい。

 

佐々木新一の「恋に生きたい」(1967)でも、『歌謡曲全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、歌唱部の主旋律の2か所にゴースト3連符が隠れていた。ザ・フォーク・クルセダーズの「青年は荒野をめざす」(1969)でも、電子楽譜の作成において、曲末のリフレインの一部にゴースト3連符が潜んでいた。夏川りみの「涙そうそう」(2001)でも、電子楽譜化の過程で、歌唱部の主旋律の一部にゴースト3連符がみられた。

 

ジェリー・ウォレスの「男の世界」(1970)では、原譜に、見慣れない2小節リピートの記号が付いていたが、電子楽譜上にうまく再現できなかった。そこで、該当箇所を通常の反復記号で囲むことにした。ところが、その箇所の冒頭にはセーニョが付いていて、再度の反復(通算4度)の際に、通常の記号処理だと4度目が反復しなくなったので、通常の反復記号を取り払って、2小節分の音構成を単純にコピー処理した。

 

「男の世界」は、『さらば友よ』(1968)や『狼の挽歌』(1970)で男臭さが絶頂に達したチャールズ・ブロンソンを当時のイメージ・キャラクターに起用した男性化粧品メーカー「マンダム」のCMソングである。本曲を聴くと、今でも、「ウーン、Mandom」というブロンソンの渋い声が聴こえてくる。ミーハーで申し訳ないが、筆者が少年時代を過ごした実家の部屋には、実際に、この2作の映画ポスターも貼られていた。

 

ブロンソンと人気を二分したアラン・ドロンのレナウンCMにおけるドスの利いた台詞も耳に残る。"C'est de l'élégance de l'homme moderne."「ダーバンは現代人のエレガンスだ。」大谷翔平とスポンサー契約を結んだ伊藤園のお茶の売上げ増を想像すればわかるように、Mandomの男性整髪料とD'Urbanの紳士服は売れに売れた。筆者も、若い頃は、マンダムの男性整髪料を使っていたし、ダーバンのジャケットも着ていた。

 

 

例によって、歌三昧のアップ曲で、視聴数の多いものを3曲ほど貼り付けた。