以前に、大谷翔平の結婚が話題になった折に、配偶者のアイデンティティに触れたことがある。おそらく、言及の意図がわからなかった方も多かったのではなかろうかと思う。そこで、筆者の考えるアイデンティティについて補足しよう。それは自己同一性と訳されたりするが、筆者は一種の持続的な自己肯定感、社会的な自信に近い概念と捉えている。喪失すれば不幸に繋がるだけに、それは幸福のバロメーターとなり得る。

 

筆者の場合、これまでの学者としての数十年間で、狭い分野の研究業績だけは誰にも負けない妙な自信がある。実際、それで何とか家族ともども暮らして行けたこともあり、アイデンティティの獲得と保持に繋がっている。家内は家内で人間関係に絶対的な自信があり、周囲も認めている。どんな仕事でも、一つのことで、社会で揺るぎのない自信をつけることが大切で、強く生きるにはそれなりの人生哲学が必要かと思われる。

 

親子、兄弟、夫婦、友人間でも、双方が得意分野でアイデンティティを保つことが肝要で、一方が獲得に失敗すると、大きな能力差や収入差が生じた際に、破綻を招く恐れがある。兄弟の成功例は芥川賞作家の石原慎太郎と銀幕スターの石原裕次郎で、性格は正反対だが、互いを敬愛できたはずだ。親が有名人で子が親を越えられない場合は悲惨だ。今回の通訳をめぐる騒動も、スーパー・スターの大谷と深く関わった通訳のアイデンティティ不足が根本にある気がする。

 

ちなみに、自身のアイデンティティは容姿や性格に基づかないため、その面の短所を口にしても平気である。筆者は禿頭で短足でベタ足でガニ股で能天気だが、そう公言できるのは、自分にはどうでもよい領域だからだ。ハゲが気になれば、アートネイチャーやアデランスに電話する。番号の下4桁は前者が2323(フサフサ)後者は9696(クログロ)である。「髪は長~い友達」(「カロヤン」テレビCMより)の宣伝文句も懐かしい。

 

ワンコネタを挟もう。相変わらず、愛犬の食欲は止まる所を知らない。筆者が食事をとる際は、ワンコにも餌を与えるが、餌を食べるのに夢中の隙に、飼主も急いで食事をとる。しかし、ワンコは瞬時に食べ終え、筆者が食べている間、手で猛烈なアタックをしかける。固焼きビスケットを置いて時間稼ぎをしようとするが、敵もさるもの引っ掻くもので、筆者が食べ終わるまで、ビスケットにはそっぽを向いたままである。

 

以前は、飼主もワンコに劣らず食い意地が張っていたが、コロナの味覚障害もあって、薄味を好むようになったら、それなりに食欲が減退してきた。以前は、食べた分を取り戻すダイエットのために、自転車運動のように負荷が軽めで長時間の有酸素運動を強いられていたが、近頃は体重も落ち着き、そこまで運動に時間を割かなくてもよくなった。そんなわけで、今週の室内ランは、60分(通し)×3回(L4)になった。

 

毎日は無理だが、隔日であれば、なんとか1時間の通しを完遂できるため、時間対効果の高いメニューにした。120分の場合、30分×4回で、疲労感に応じて休憩を挟むため、実質、1日に3時間近くかかる。もっとも、優に半日かかっていた3本ローラーに比べれば、これでも効率がよい。外のツーリングだと丸一日かかる。今は、中程度の負荷(L4)で60分(通し)を週2、3回やっておけば、運動は足りる気がしている。

 

今週も一部の運動時にはNHKBS放送の録画再生で、キャスリン・ターナーとニコラス・ケイジの『ペギー・スーの結婚』(1986)を観返した。本作については後で語るとして、同放送の作品には、観返すに足る映画が少なくない。有料の配信サービスを利用しなくても、けっこう楽しめる。大人の鑑賞(感傷)に耐える作品を選んでくれて、NHK担当者には、音楽ドラマの「ブギウギ」や「エール」の制作も含めて感謝したい。

 

今はNHKBS放送で名画を観返す機会が増えたが、昔は映画館で観逃した作品は淀川長治の「日曜洋画劇場」(1966-98)で観たものだ。ウィキペディアによれば、同氏の解説数は32年で1629本にも及ぶ。昭和の分だけでもみたいと思っていたら、Hatena Blogのサイトに、「『日曜洋画劇場』放送作品全リスト①(1966-69)②(1970-79)③(1980-89)」(「テレビの洋画劇場で放送された作品リスト」2018.12.31)があった。

 

今は、レンタルビデオに加えて、ネットフリックスやプライム・ビデオのように、有料配信の作品を鑑賞できるサービスも広がりをみせている。以前は、ギャオのような、無料でも、そこそこの映画を観せてくれるサイトもあったが、経営が行き詰まったのか、サイトを閉じた。ユーネクストには、古い昭和の名画も多く含まれていて、利用したい気もするが、気になるのは、いつでも、退会がしやすいかどうかである。

 

以前に、有料で入会した音楽サービスが、なかなか退会できずに、支払いが後々まで続いたことがあって、サービスの入会時には、何よりも退会のしやすさを考えて入るようにしている。サービスを利用している間は、登録時の情報を覚えているが、サービスを利用しなくなると、すぐに忘れてしまう。古くなると、登録の携帯電話番号やメール・アドレスも変わっていて、IDやパスワードの照会も簡単には行かなくなる。

 

話を『ペギー・スーの結婚』に戻そう。監督は『ゴッド・ファーザー』(1972)のフランシス・フォード・コッポラ(1939-)で、ヒロインの相手役のニコラス・ケイジは甥でもある。コッポラは、こんな青春映画も手掛けていたのかと、意外で新鮮な感じがした。離婚の危機が迫った夫婦間で、初老の妻が過去にタイム・スリップして、夫の音楽へのひたむきさを再認識し、寄りを戻す物語はお気に入りのテーマのひとつである。

 

本作におけるキャスリン・ターナー(1954-)の実年齢は32歳で、ニコラス・ケイジ(1964-)は22歳である。ニコラスは、そのまま、高校生の役ができるほど若く、むしろ、物語の現在(1985年)の中年夫役のほうが、老け顔メイクをしていることになる。キャスリンは、微妙な年齢で、高校生を演じるには少し無理がある。ただ、高校時代に戻るといっても、心は中年のままなので、少し老けていても、辻褄は合っている。

 

ヒロインのペギー(キャスリン)は高校の同級生のチャーリー(ニコラス)と結婚したが、現在は離婚を前提に別居している。彼女は、夫も来るかもしれない、気の進まない母校の同窓会で、クィーンに選ばれて壇上に上がった途端に気を失い、その間に、1960年の高校生当時にタイム・スリップする。他の男性と人生をやり直せるかもしれないとの思いで、ペギーは、当時から気になっていた男の子にもモーションをかける。

 

面白いのは、愛の一夜を過ごした小説家を志す青年マイケルに、ペギーの心が傾きかけていた矢先の二人の会話である。「一緒にユタに行こう。」「なんでパリやニューヨークでなしにユタなの。」「もう一人好きな娘がいる。その娘と君に養鶏の仕事をしてもらって、僕は小説に専念するよ。ユタ州は重婚が合法だからね。」「無理よ。」「どうして無理なの。」「鶏のアレルギーだから。」 「百年の恋も一遍に醒める」とはこのことである。

 

さらに面白いのは、プレスリーに憧れて歌手を目指すチャーリーがエージェントと契約できずに失意のどん底で、愛犬のエルヴィスと散歩に出る場面の対話である。「あらエルヴィス、元気?」「エルヴィスは死んだ。」ペギーは、ふさぎ込むチャーリーに、「これを歌って」と自分が作った曲の楽譜を渡す。彼女の心は長旅の果てにチャーリーの元に戻る。その後、目を覚ますと、心配そうな夫の顔が覗く。めでたし、めでたし。

 

「ブギウギ」は第26週「世紀のうた 心のうた」で幕を閉じた。笠置シヅ子が42歳で歌手を引退することになった理由は、ドラマをとおして何となく理解できた。スポーツ選手が40歳前後でリタイアする理由と同じではないか。笠置は、淡谷のり子のように歌声だけで勝負するタイプの歌手ではなく、ブギの女王として、長いあいだ、派手な動きの踊りを売りものにしてきただけに、肉体的な限界を感じたのではないか。

 

電子楽譜ネタに移ろう。藤島桓夫の「気ばらなあかんで」(1960)では、『歌謡曲全集』の不完全な原譜からの電子楽譜の作成において、原曲確認ができなかったため、曲の構成やテンポを類推せざるを得なかった。曲の構成については、前奏部が長く凝っていて、存在感が感じられたため、DCを用いて、2番歌唱と3番歌唱の間で前奏部を反復することにした。前奏部が短い場合は、各番手の歌唱の直前でくり返すことが多い。

 

テンポについては、当初、昭和歌謡のスタンダードである84を選択したが、演奏時間が短く感じたため、スローのデフォルトである66に遅めると、なんとか3分弱(2:50)となった。また、飯田景応の曲で、譜面の前半はスタッカートだらけであったが、伴奏用のソフト音源では、効果が発揮できないばかりか、スタッカートをつけると違和感さえ感じられるため、すべて取り除いた。強調記号の多用は古い楽譜に多い。

 

三鷹淳の「霧よ雲よ峰よ」(1961)では、『歌謡曲全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、歌い出しで、譜面どおりだと直前のフレーズ内に音長超過の赤警告がでたため、オブリガートを取り去ると、自然なリズムが戻った。助奏の一部である4分休符を8分休符に換えるだけでも、小節内の辻褄は合うが、15回くり返される他の同様のリフレインと比べて、歌い出しが狂うため、オブリガートの全てを取り払う対応を迫られた。

 

松尾和子の「ミサよタンゴを踊ろうよ」(1963)では、1番歌唱末の主旋律に付くオブリガートの一部にゴースト3連符が現れた。一部の音符の音程を修正した途端に、ゴーストの登場となった。そのうえ、本曲の原譜に従って、6連符になりきれなかった音符群を6連符にしようとすると、前半の3音符がゴースト3連符になっていたことがわかった。なお、松尾の本曲は、四谷文子の同名曲(1932)のカバーによる。

 

三橋美智也の「恋慕舟唄」(1960)では、『歌謡曲全集』からの原譜の電子楽譜化の過程で、主旋律に付くオブリガートの一部にゴースト4連符が見つかった。無点の8分音符と2連の16分音符が繋がった音符群で、見かけの違和感はなかったが、青警告が出ていたので、当該箇所を選択すると、ゴーストが姿を現した。もう一か所、ゴースト連符ではないが、オブリガートの影に隠れた主旋律の音長が狂っていたため、訂正した。

 

坂本九の「レットキス」(1966)では、『歌謡曲大全集』の原譜の自動読み取りの際に、譜面化に記載されている歌詞と台詞が入り組んでいて、正しく読み取れないと考え、全ての歌詞は後で手作業で入力することにした。歌詞は1番から3番まで同一なので、1番のみの入力で済んだ。長台詞は、主に本曲でジェンカを踊る手順を示すもので、原曲に沿って、台詞を入れられないこともなかったが、今回は、割愛した。

 

天地真理の「木枯しの舗道」(1974)では、ボーカル音源による歌唱部の作成過程で、無点2分音符の相次ぐ大暴走に悩まされた。8か所が暴走する可能性があったが、実際は3か所に止まった。ビブラートの深さは、ボカル嬢の歌唱力に大きく関係するため、暴走覚悟で、最大に設定してある。同じ無点2分音符でも、どの五十音がそれ自体や前後に配置されるかによって、暴走の有無や大小が決まるものと考えられる。

 

当初、2個の4分音符に分割して、タイで繋がずに暴走を防いでいたが、かなり不自然で、MP4ファイルの完成後、アップを保留していた曲である。今回は、編集ソフトで、暴走箇所のみ音量を抑える手法をとった。また、テンポも、当初、100にしていて、演奏時間が4:34あったが、原曲に合わせるために、スコアメーカーの初期値である120にまでアップすると、3:51に収まった。わざわざ、100にする必要はなかったのだ。

 

 

例によって、歌三昧のアップ曲で、視聴数の多いものを3曲ほど貼り付けた。