今週の室内ランは、そろそろ、持久力の維持が気になってきたので、60分(通し)と120分という今の筆者にはきつめのメニュー(L4)をこなした。実は、先週のミニ漸増式メニューのなかでも、60分については、通しを実施していた。60分でも通しで行うと、1時間に500kcal以上のカロリー消費にはなる。どちらも運動後の達成感が格別だ。その代わり、今週は週2回にして、疲労をなるべく蓄積させないようにした。

 

今週の運動時には、NHKBS放送の録画再生により、マーティン・スコセッシの『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』(1993)を観た。原作はイーディス・ウォートンの同名の長編小説『無垢の時代』"The Age of Innocence"で、河島弘美訳で岩波文庫にも入っている。主演は、ロバート・デ・ニーロのような本格的な演技派俳優で、アカデミー主演男優賞を3度も受賞しているダニエル・デイ=ルイス(1957-)である。

 

デイ=ルイスには、一方で、『眺めのいい部屋』(1986)や『存在の耐えられない軽さ』(1988)や『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)など、癖のある芸術志向の作品が多く、敷居が高い。他方で、『マイ・レフトフット』(1989)や『ラスト・オブ・モヒカン』(1992)や、スコセッシの『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002)は、娯楽作品としても楽しめる映画で、最後の2作品は封切時に映画館で観た記憶がある。

 

本作も文芸大作で、保守的な弁護士のニューランド(デイ=ルイス)と自由に生きたいと願う伯爵夫人のエレン(ミシェル・ファイファー)との恋の行方のほうに目が行くが、キー・パーソンは、エレンの従妹で共に名門ミンゴット家の血を引く新妻のメイ(ウィノナ・ライダー)で、表立って人を非難しないという上流社会のルールに沿って、清楚を保ちながら、ニューランドと結婚後も、巧妙にエレンを夫から遠ざける。

 

舞台は1870年代のニューヨークで、前半は、ただの上流社会の不倫映画のようで少し退屈だったが、さすが、スコセッシ作品で、初めは『地中海殺人事件』(1982)のキー・パーソンの若妻(ジェーン・バーキン)のように内気で控えめにみえた主人公の妻が、最後のほうでは、急に存在感を増し、弁護士の夫が一本も二本も取られる展開になる。しかも、彼女の影の精力的な動きは、大人しい外見からは、思いもよらない。

 

メイは、ニューランドとの婚約時にも、「好きな人がいるのなら、私は身を引くからその人を大事にしてあげて」と、婚約者の気持ちが自分から離れていることを見透かしているかのように、意味深長な発言をしていた。その時点で、メイは、ニューランドが、自分ではなく、エレンを愛していることに気づいていたように思われる。しかし、はっきりとは言わない。結局、ニューランドは、吹っ切れないまま、メイと結婚する。

 

結婚後もエレンと密会していた夫は、罪の意識から、メイにエレンとのことを告白しようとする。ところが、メイは、そのことばを制止するかのように、「エレンは、ヨーロッパに帰り、二度と戻って来ないそうよ」と、エレンからもらった手紙を夫に見せる。ニューランドには、すべてが寝耳に水である。実際は、仲の良い従姉妹関係をとおして、メイは、ニューランドとのことをエレンから逐一聞いていたのではないかと推察する。

 

メイは、夫の知らないところで、エレンと話をして、彼の元を去るように仕向けていたのでは。ここでも、メイは本音を語ることなく、全ては暗示のかたちで終わる。メイの目に見えない努力と周囲の協力(知ってて知らない顔)のおかげで、若夫婦の危機は乗り越えられる。若妻、恐るべし。知らぬは亭主ばかりなり。子どもも生まれ、ニューランドにとって、エレンは、肖像画の中の女性のように過去の幻想となる。

 

結局、ニューランドは、婚約時から、無垢にみえるメイの手の中で泳がされていたのか。上流社会に育った者は、夫婦間でも、本音を口にせずに暮らせるのか。「夫婦喧嘩は犬も食わない」と言うが、このような「金持ち喧嘩せず」の大人の対応には憧れもある。本作を一度観ただけで、裏のメッセージに気づくのだから、われながら年をとったものだと感心する。深読みのできない人には、本作は、退屈な作品に終始するだろう。

 

ただ、よく考えると、上流社会に限らず、二人の仲の良い女友達がいるとして、男性がそのうちの一人を好きになって、もう一人の女友達には隠れてこっそり付き合いだしたとする。ところが、案外、二人の関係はその女友達には筒抜けであることが考えられる。愚かな男性には女性同士の親密さには思いを巡らす余裕もないが、当の女性は、大事な女友達のほうに気を遣って、彼とのことを逐一話していたりするのではないか。

 

一方で、生活適応能力の高い女性は、結婚しても、周辺にママ友などの一大情報網をはりめぐらしていて、常に身の上相談をする用意が整っているようにみえる。筆者自身も、家内の生活安全ネットワークには、舌を巻く。他方で、西田佐知子は「東京ブルース」(1964)で「どうせ私を騙すなら、死ぬまで騙して欲しかった」と歌う。夫婦間でも、「沈黙は金」、「云わぬが花」、「それを言っちゃお終いよ」ということがある。

 

そう考えると、メイの裏行動は、上流社会だけの特権ではなく、どんな社会でも広く行われている女性の処世術のように思われる。それとともに、画一的な言いかたをすれば、脳裏で想像を膨らませる男性は頭でっかちのロマンチストで、土地に根を張り家に巣くう女性はリアリストであることを思い知る。コール・ポーターのYou 're The Top(Anything Goes,1934)の常套句を使えば、「僕は最低だが、君は最高」だ。

 

ワンコネタを挟もう。真夏以外は、体毛を伸ばしても虐待にとられることは皆無なので、ビション=フリーゼのイメージにとらわれずに、思い切り、もふもふ、ふさふさにしている。全体が毛むくじゃらの白い球体のようになっている。とてもビションにはみえない。散歩をしても、はじめて出会う人からは、これは何の犬種ですかと、聞かれることが多くなった。尻尾も毛が長くなりすぎて、芯のみがピンと立った形状だ。

 

今週の「ブギウギ」(第25週「ズキズキするわ」)の放送直後に、早くも次回の朝の連続テレビ小説「虎に翼」の予告映像が入り、寂しい限りだ。今週末は、スズ子の「男女歌合戦」での大トリの晴れ舞台で盛り上がった。白組のトリが伊藤豊(捩り)であるのは面白い。笠置が実際に「ヘイヘイ・ブギー」で第7回「紅白歌合戦」の紅組のトリを務めるのは、1956(昭和31)年で、直前の紅組歌手は、美空ひばりではない。

 

電子楽譜ネタに移ろう。奥田良三や藤山一郎の「夜明けの唄」(1936)は、戦前のラジオ番組『国民歌謡』(1936-41)で流された1曲である。本曲は「月月火水木金金」(1940)のような軍歌に近いが、戦争を直示する表現は皆無のため、アップした。電子楽譜化の過程で、初めてみる巨大な入力障害物が現れた。半透明の薄紫の膜の姿をしていて、入力しようとすると、画面一杯に拡がって入力できないように譜面を覆い隠す。

 

スコアメーカーでは、歌詞の流し込みの帯は番手毎に色分けされており、4番歌詞までを言えば、1. 薄紫、2. 薄緑、3. 若葉、4. 薄茶の順になっている。この薄紫の帯が1番歌詞の入力先で、今回はスコアメーカーのバグが歌詞入力帯を使って悪さをしているように思われる。イメージとしては、1番歌詞の流し込みに欠かせない薄紫の帯が電子楽譜の譜面全体に立ちふさがって、入力の邪魔をしている感じだ。不亦楽乎。

 

最終的には、狐につままれた雰囲気のなかで、入力を強行しているうちに、症状は治まった。治る直前の様子を説明すると、スコアメーカーによる原譜の自動読み取りで、確かに、読み取れたはずの譜末のコーダを冠したフレーズがコーダと音符群もろとも魔法のように消えていたため、そのフレーズ内のすべてを再入力しようとして、コーダを定位置に入力したとたん、消えていた音符群が姿を現した。やれやれだ。

 

そう言えば、これまで何度か、入れたはずの音楽記号が消えていて、再び入力し、保存しようとすると、保存できずに、スコアメーカーが強制終了するケースに遭遇している。これまで作成した分がすべてパーになるわけではないが、ソフトを再起動して、また、保存前の時点から入力しなおす必要があり、面倒だし、ストレスがたまる。今回の現象はそれと関係のあるソフトの不具合か。まあ、ブログネタの提供にはなる。

 

守屋浩の「夜空の笛」(1959)では、『歌謡曲全集』の原譜の譜頭にモデラートの指示があったが、デフォルト値の84では、話にならないほどテンポが超スローであったため、昭和歌謡のセカンド・スタンダードである108に変えた。ところが、それでも遅すぎるので、スコアメーカーの初期値の120から始めて、20刻みでテンポをアップしていった。結局、200に落ち着いた。果たして、これでモデラートと言えようか。

 

小林旭の「ギターを持った渡り鳥」(1959)では、『歌謡曲大全集』の原譜に、誤植が見つかった。「何処へ行く」/「故郷さ」/「渡り鳥」の歌詞におけるド・コ・オ・エ/フ・ウ・ウ・ル/ワ・タ・ア・リの3番目の五十音にあてられた音が1音高く(E3→F3)なっていた。原曲を確認するまでもなく、原譜のとおりだと、何度聴いても、そこだけ、聴き覚えのあるメロディーにはならなかったため、誤植と断定した。

 

島倉千代子の「哀愁のからまつ林」(1959)では、『歌謡曲大全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、前奏部のオブリガートの一部にゴースト3連符が見つかった。また、オックスの「ガール・フレンド」(1968)でも、同じ『大全集』の原譜からの電子楽譜化の過程で、主旋律のオブリガートの一部にゴースト3連符が潜んでいた。原譜では4連結符のはずが、3連結符になっていたため、1音符を加えると、ゴーストが姿を見せた。

 

野村雪子の「ポッポーとあの汽車で」(1960)では、『歌謡曲全集』からの1番歌唱分の原譜の電子楽譜化のため、曲の構成に工夫を要した。4番歌唱まであったので、2番と3番歌唱の間で前奏部をくり返した。たまたま入手していた45曲入りの『ゴールデン☆ベスト野村雪子』(ビクターエンタテインメント、2011、2CD)のなかに、本曲は収録されていて、原曲確認ができたため、曲の構成やテンポ(演奏時間)を似せた。

 

大下八郎の「なみだの宿」(1964)では、『歌謡曲大全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、また、新たな連符もどきのケースが見つかった。見かけ上は、8分音符の3連符で、原譜もそうなのだが、なぜか、4連符になっていて、フレーズ内の音長超過を意味する赤警告が出ている。調べてみると、3音符のうちの真ん中の1音符が4分音符になっていて、それがうまく他の音符と連符をなしているように見えていた。

 

加山雄三の「恋は紅いバラ」(1965)は、『海の若大将』(1965)の主題歌で、その数か月後に公開される『エレキの若大将』(1965)で加山の代表作となる「君といつまでも」(1965)を準備する岩谷時子&弾厚作コンビの曲である。女声のコーラスを含め、原譜の主旋律のメロディーには歌詞が付く。元々、オブリガートは少ないが、オブリガートと英語歌唱部との相性が悪く、数か所において、オブリガートを取り去った。

 

奥村チヨの「ごめんねジロー」(1965)では、『歌謡曲大全集』の原譜に問題はなかったが、1番歌唱末の間奏部の冒頭に「ここからKeyを半音上げて、2コーラス目及びコーダをF# Major Scaleで演奏すると効果的」との指示があり、それに従った。ただし、電子楽譜上では、ひとつの譜面で一気に処理できなかったため、伴奏部と歌唱部のMP3ファイルをそれぞれ2つずつ作成し、手作業で、不要部を取り除いた。不亦楽乎。

 

 

例によって、歌三昧のアップ曲で、視聴数の多いものを3曲ほど貼り付けた。