昨夜、寝る前に、何気なく、テレビで「情報7daysニュースキャスター」を観ていたら、衝撃が走った。ラインなどの文章で文末を示す句点を怖がる若者が増えているという。試しに、年配のキャスター(三谷幸喜)の文例を若い世代の放送関係者に添削してもらうと、やはり、句点は上から見下ろされているようで怖いらしい。しかも、文中の「伺いました」は「聞きました」に直されていて、謙譲語も怖く感じるようだ。

 

使う側は、文の作法として当たり前に使っているつもりだが、受け取る側は、必要以上に慇懃無礼に感じるのだろう。インターネットの文章で、段落の改行1字下げ代わりの1行空けにはようやく慣れてきたが、句点なしの文や敬語抜きの文や絵文字・顔文字文は、恥ずかしくて使えない。恐るべき時代が到来したものである。丁寧語「デス・マス」はともかく、謙譲語は、近い将来、確実になくなると思った。尊敬語も危ない。

 

次は犬ネタ。幼時は猫派だった筆者が犬派に転じた。若い頃は見ためのスマートさやソフトな触感を求めるからか。猫の毛は軟らかいが、犬は荒い毛で覆われていることが多く、毛触りはゴワゴワしている。猫の動作や性格は神秘的でクールにみえるが、犬は人なつっこく、人に寄り添って生きている感じが強い。犬好きにはそれがたまらない。その距離感を癒しと捉える人は犬好きで、窮屈と感じる人は猫好きになるのか。

 

今週の「ブギウギ」(第18週「あんたと一緒に生きるで」)では、ドラマ自体は、出産を間近に控えたスズ子と、悪くなる一方の愛助の病状にやきもきする(最後は夭折の)展開だったが、それはそれとして、「ジャズカルメン」の寸劇ミュージカルは、第16週のタナケンが登場した「コペカチータ」同様に楽しめた。NHKの制作者側もそれなりに手間はかかるだろうが、やはり、劇中劇が入るだけで、ドラマに厚みが出る。

 

今週の室内ランは、漸増式を実現するため、30分→60分→90分(L4)の小ぶりなメニューで実施した。これなら、無理せずに実行できる。運動に嫌気がさすとよくないので、しばらくは30分単位で進めてゆくことにした。今週の運動時は、「ジャズカルメン」の影響で、ミュージカル映画が観たくなり、『オペラ座の怪人』(2004)と『恋する輪廻 オーム・シャンティ・オーム』(2007以下『恋する輪廻』と略記)を観返した。

 

「ジャズカルメン」の寸劇から連想したのは、『オペラ座の怪人』のクライマックスの場面で、ファントムが悲痛に歌うThe Point Of No Return「もう後には戻れない」の曲とともに、劇中劇「ファウスト」のなかで、背後で踊るダンサーたちの、情念の高まりを炎で表現した、フラメンコ風の踊りであった。『オペラ座の怪人』では、本曲が一番のお気に入りで、ファントムとヒロインによる以下の合唱部が特に耳に残っている。

 

"Passed the point of no return, the final threshold ― the bridge is crossed, so stand and watch it burn... We've passed the point of no return..."「後の祭り」で、「後悔先に立たず」、「覆水盆に返らず」、「こぼれたミルクのことを嘆いても無駄」な状況に陥った時は、新たに「ポイント・オブ・ノーリターン」と唱えるようにしている。一線を超えたわけではなく、たとえば、お気に入りのポロシャツにコーヒーをこぼしただけの話だが。

 

ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』(1831)やガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(1909)などの原作のテーマがいかにも前時代的で、どれだけ脚色しても内容は古めかしい。そんなわけで、物語としては、『エレファント・マン』(1980)や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(2000)のように、好んで、何度も観たくなるような作品ではないが、ミュージカル作品としては、本作を、たまに、観返したくなる。

 

『オペラ座の怪人』は、「マスカレード」の曲が流れるベネチアマスクを被った踊り手たちの舞踏シーンが最も知られているが、本作と『恋する輪廻』とを結びつける共通点は、後者が一番のクライマックスに「マスカレード」を模した場面を散りばめた点にある。踊り場での仮面舞踏会のシーンは、前者では、ファントムが皆の前に初めて姿を見せる場面で使われるが、後者では、物語が幕を閉じる大団円での使い回しになる。

 

シャー・ルク・カーンの『恋する輪廻』は、ラジニカーントが『チャンドラムキ 踊る!アメリカ帰りのゴーストバスター』(2005)を大ヒットさせたことに対抗して制作されたように思われる。『恋する輪廻』は、インドを旅行した折に、DVD購入した作品で、思い入れがある。南のラジニと北のシャー・ルクは、インド映画を代表する二人で、ボリウッドの俳優のなかでも、特に顔の表情が豊かで、演技がずば抜けてうまい。

 

『ミモラ~心のままに』(1999)のNimboodaよりも豪華で、Dholi Taro Dhol Baaje よりも豪快なDhoom Taanaが一番のお気に入り曲で、仮面舞踏会の場面で使われるDastaan-E-Om Shanti Omの曲も耳に焼きついている。Omは主人公の名前で、Shantiはヒロインの愛称である。邦題に「輪廻」とあるように、殺された男が生まれ変わって復讐する話で、幕間を挟み、殺されるまでが前半、生まれ変わってからが後半である。

 

電子楽譜ネタに移ろう。東海林太郎の「旅は鼻唄」(1934)では、『歌謡曲大全集』の原譜で、1番歌唱と2番歌唱の間に、口笛演奏が入るが、実際に口笛を録音しようとすると、前半の音程が低めの箇所がまったく響かず、きちんと口笛になっているのは後半のみであったため、口笛を断念した。タイトルが「旅は鼻唄」ということで、口笛の代りに鼻唄を入れてみた。鼻唄部が目立つとよくないので、音量は抑え気味にした。

 

和歌を曲にした「平城山」(1935)では、主旋律と副旋律との微妙なずれが独特の和の旋律を奏でる箇所が多く、神経を使った。通常のオブリガート処理をしても、音長警告は出ないものの、実際に、電子楽譜に演奏させると、不自然なメロディーの流れになる。本曲には、前小節の末音符と後小節の頭音符がタイで結ばれる箇所も多いが、同じ音程なのにタイで繋げないときには、フレーズ内の音符の一部をずらすのも有効だ。

 

「もとほり来つつ」などの古語をどう発音させるかという問題もある。とりあえず、モ・ト・ヲ(ウォ)・リ・キ・ツ・ツのようにボーカル音源に演奏させた。「もとほる」については、現代日本語では、オとヲは同音のため、差別化のために、ヲは本来のウォに変えてみた。ホやフォの発音も含めて、問題があれば再アップだ。今回、アップした「浜辺の歌」にも、「もとおる」は登場するが、こちらは、現代語の発音で何の問題もない。

 

日本語では、「もとほる」→「もとふぉる」→「もとうぉる」→「もとおる」のように、語中・語末のハ行子音は、平安時代におけるハ行転呼や唇音退化といった歴史的な音韻変化を通して、ファ行子音(ファ・フィ・フ・フェ・フォ)からワ行子音(ウァ・ウィ・ウ・ウェ・ウォ)に移行し、最後には母音化する。和歌が昔の和歌集からとられたものであれば、その詠まれた時代によって、発音は変化するが、今回はそうではない。

 

新橋喜代三の「お伝地獄の唄」(1935)では、『歌謡曲大全集』に収録の原譜に、演奏時間と曲の構成にかかわる大きな誤植が見つかった。ダル・セーニョで2番歌唱から3番歌唱に移る際に、肝心のセーニョがなかったために、原曲との合わせに手間取った。原曲は3:16前後だが、テンポを昭和歌謡のこれまでの最低である56に落としても、2分半ほどにしかならなかったため、記号の抜けがないか確認してわかった。

 

美空ひばりの「私のシンデレラ」(1953)では、『歌謡曲全集』の不完全な原譜で、4小節の痩せた前奏と1番歌唱分の譜面しか記載がなく、原曲の演奏時間に合わせようとすると、遅すぎて、原曲中の歌唱部のみに合わせるようなかたちをとった。1分近く演奏時間は短くなったが、これでもややかったるく感じるほどなので、この処置はやむを得ない。もちろん、短い前奏は、2番と3番の歌唱前でもくり返す構成をとった。

 

美空ひばりの「素敵なランデブー」(1955)では、タイトルにもある「ランデブー」「アイ・ラブ・ユー」「ユー・ラブ・ミー」などの外来語句が何度もくり返されるが、本曲では、和製語としてとらえるのが自然であり、ラン/ren-、ブ/ヴ、ユー/youなど、いちいち、原語に改める対応はとらなかった。もし、欧米人が本曲を聴けば、l/r、b/vなど違和感があるかもしれないが、日本の昭和歌謡ということでご容赦願おう。

 

ジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」(1967)では、『歌謡曲大全集』の原譜からの電子楽譜化の過程で、間奏の一部にゴースト3連符が見つかった。また、「ブルー」の歌詞は全部で24回くり返されるが、和製英語のままだと、速い連続反復から、かなり不自然な発音になったため、ボーカル音源による歌唱部の作成では、シャトーはカナ歌詞のままにして、ブルーのみ全て原語のblueに換えた。

 

また、鶴岡雅義と東京ロマンチカの「旅路のひとよ」(1968)では、同じく『歌謡曲大全集』の原譜からの電子楽譜化の過程で、同一フレーズ内の主旋律に付く上下のオブリガートの誤認識を修正の際に、隠れていたゴースト連符がぴょこぴょこと顔を出して、筆者を悩ませた。一つ目は4連結された16分音符の3連符のかたちで見つかり、それを正すと、今度は、3連結された8分音符のゴースト連符が思いがけず現れた。

 

本曲は、「小樽のひとよ」(1967)に似せて作られているため、また、後者の曲が耳にこびりついているため、つい、後者のように歌ってしまう。そんなわけで、歌三昧の録音は、各番手の歌唱を分けて、慎重に行った。それでも、できあがった歌唱部を確認すると、一部に音程の外れた箇所があり、追加録音をして、当該箇所のみ手作業で編集した。幸い、音量が最弱になる箇所で、切り貼りの跡は思ったほど目立たなかった。

 

及川恒平の「面影橋から」(1972)でも、『歌謡曲全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、主旋律の一部である8分音符と2つの16分音符からなる連結符が、8分音符の3連符に化けていて、原譜に合わせて訂正しようとすると、ゴーストが顔を出した。ところで、本曲には、印象的な歌詞がある。それは、1番歌詞の「季節はずれの赤トンボ」に続く2節で、「流してあげよか大淀に」と「切って捨てよか大淀に」の箇所である。

 

2番歌詞の最後に「歌を忘れた影法師」とあることから、話者の内面の病んだ心を暗示しているようにもみえるが、穏やかな叙情曲の1節としては、いささか残酷な描写である。「季節はずれの赤トンボ」に自らの心情を重ねる自虐の詩ともとれる。昔、国語の教科書に出て来た、リルケの「豹」や高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」のように、詩人の感性がつかみ取った同化の詩とも解釈できる。いつまでも余韻の残る詞である。

 

 

例によって、歌三昧のアップ曲で、視聴数の多いものを3曲ほど貼り付けた。