今年は、年明け早々、地震や航空機事故で多数の犠牲者が出たこともあり、新年の祝詞は遠慮する。亡くなった方々のご冥福をお祈りするとともに、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げる。あとは、被災地域の復興と世界平和を願うばかりだ。本年もよろしくお願い申し上げる。さて、正月には、娘夫婦が拙宅を訪問した。息子夫婦は年末年始には仕事で来られないことが多く、二組の夫婦がこの時期にわが家で一緒になることはない。

 

ここで、いきなり、ワンコネタである。娘夫婦は、超小型犬を飼っていて、帰郷の際にはキャリーケースに入れて連れてくる。かれらの愛犬はうちのワンコと対照的である。2匹ともメスで、仲の好さは普通だが、うちのは飼主に似て食い意地が張っていて、コロコロしている。それに対して、かれらのは飼主に似てスマートでお行儀がよく、与えられた少量の餌しか食べない。「犬は飼主に似る」は、やはり、至言である。

 

室内ランは、今のところ、週2時間ペースが続いている。元日の午前中はゆっくりしたかったが、この走り初めに相応しい時間中に運動を行うと、その年の運動習慣が続く感じがするので、ゲン担ぎから30分(L4)だけ走った。また、週の締め括りに1度だけ90分(L4)を試した。今のところ、60分でもきつく感じる。きついときには、運動中に血管の収縮による閃輝暗点が生じることもあり、無理をしないようにしている。

 

先週の運動時には、ロナルド・コールマンとグリア・ガースンの『心の旅路』(1942)、アジャイ・デーヴガンとアイシュワリヤー・ラーイの『ミモラ~心のままに』(1999)を観返した。夫婦が試練ののち、絆を取り戻すドラマは、お気に入りのジャンルである。今週は、昭和への郷愁から、過去にNHKBSで放映された黒澤明の『生きる』(1952)と小津安二郎の『東京物語』(1953)を観直したが、これらは次週に回そう。

 

『心の旅路』の舞台は1918年のイギリス中部メルブリッジ。大戦で負傷し、記憶を喪失したスミスは、病院を出て徘徊中に迷子になり、旅回りの踊り子のポーラに救われる。それが縁で、二人は結婚して子も授かる。幸せな家庭生活のなか、彼は、青いビーズのネックレスを彼女に贈る。そんなある日、彼は、リバプールの新聞社に向かう途中で、車の事故で転倒して頭を打ち、以前の記憶と引き換えに、妻子の記憶を失う。

 

スミスの本名はチャールズ・レイナーと言って大富豪の息子であった。実家に戻ると、父親が亡くなったばかりで、彼は、遺言により莫大な遺産と屋敷を相続する。一方で、夫が急に行方不明となり、その後、子どもにも先立たれたポーラは悲嘆に暮れるが、ある時、彼がチャールズであることを知り、マーガレットの偽名で彼の秘書になり、スミスの入院時の主治医のアドバイスも受けながら、彼の記憶が戻るのを待つ。

 

チャールズはチャールズで自分がなぜ事故当時リバプールにいたのか不思議に思っていた。また、そのとき、ポケットにあった家の鍵はどこの家のものなのかも気になっていた。その後、チャールズは、国会議員に当選し、有能な秘書として自分を支えたマーガレットに結婚を申し込むが、かつての妻とは気づかないままである。ただ、彼女が大事にしている夫からもらったというネックレスのことは、彼も気になっていた。

 

記憶が戻らないことに絶望したポーラは彼の元を去るが、チャールズは、所用でリバプールに寄り、偶然、想い出の場所に来ることで、記憶が戻り出す。断片的な記憶を頼りに、彼は、デヴォンの家に辿り着く。この家を探す者がいると人伝に聞き、ポーラも駆けつける。想い出の家で彼女をみたチャールズはすっかり記憶を取り戻す。めでたし、めでたし。『情婦』(1957)と本作とはハリウッド映画の双璧をなす大傑作だ。

 

『ミモラ~心のままに』では、インドの声楽家の娘ナンディニは、イタリアから来て、父に弟子入りを希望するサミラの明るさに惹かれるが、彼が娘と裏庭で抱き合うのを見て激怒した父親は彼をイタリアへ追い返す。ナンディニは、心が晴れないまま、父の勧めで青年弁護士のヴァンラジと結婚する。ヴァンラジは、陽気なサミラとは対照的に、物静かで地味な存在だが、サミラのように軽薄ではなく、思慮深いタイプである。

 

ヴァンラジは、新妻が自分に心を閉じている理由を知って動揺するが、意外にも、妻を連れて、サミラを捜しにイタリアに行く決心をする。しかし、夫の神対応はかえって彼女を苛立たせ、彼の優しさの意味を理解できないナンディニは、初めのうち、イタリアの宿泊先でも、夫婦喧嘩が絶えず、何かとヴァンラジにあたる。それでも彼は動じず、彼女のために懸命にサミラ捜しに尽力する。夫の辛抱強い熱意が本作の鍵となる。

 

旅の時間の経過とともに、少しずつ、夫の優しさに触れて、彼女の心は揺れ動いて行く。初めは暗かった彼女の顔にも笑みが浮かぶようになる。いつしか、夫の言葉にも素直に耳を傾ける自分がいる。さらに、サミラ捜索の時が過ぎると、二人は、言葉を交わさずに、身振り手振りで心を通わせるまでになっていた。本作では、旅先での夫の懐の深い優しさを前にしての、彼女の心の微妙な変化が、一番の観どころである。

 

そんな矢先、ナンディニはサミラと再会する。サミラ宅に近い橋の上で、ヴァンラジは、妻を見送り、別れを覚悟する。ところが、サミラとの愛のお膳立てが整った頃には、この音楽家に対する彼女の恋の情熱はすっかり冷めていた。夫の愛を確信したナンディニは、急いで橋に戻り、心の旅は終わる。テーマ曲が流れ、花火が上る。めでたし、めでたし。インドの俳優はみんな演技が得意で、ミュージカルも豪華で楽しめる。

 

音楽ネタに入ろう。林伊佐緒と新橋みどりの「若しも月給が上ったら」(1937)は、夫婦の対話による混声歌唱の形式である。ボーカル音源による演奏については、一度、歌唱部の全体をカバーするMP3ファイルを作成してから、男声パートを削除する手順をとった。ただ、不要なパートを取り出すのに、当該領域のズーミングを行っても句の境界部が不明瞭な箇所があり、最適な切り取りポイントを見つけるのに手間取った。

 

灰田勝彦の「紫のタンゴ」(1947)では、『歌謡曲大全集』の原譜の電子楽譜化の過程で、主旋律の一部にゴースト3連符が隠れていた。無警告のフレーズで、不要な休符を削除すると、青警告が出て、ゴーストが顔を見せた。とにかく、スコアメーカー側でかってに辻褄を合わそうとするので、気が抜けない。灰田勝彦(1911-82)は意外にも岡本敦郎(1924-2012)や白根一男(1937-)よりも前の世代の歌手である。

 

青木はるみの「野球けん」(1954)では、×符頭の音符群で示されるかけ声の再現に悩まされた。ソラ、ソレ、ハイはともかく、ヨヨイノヨイの調整に最後まで苦しめられた。「アウト、セーフ、ヨヨイノヨイ」の箇所は、邦画の芸者遊びのシーンなどで耳に残っているのだが、うまく再現できない。この前半の台詞も、タイム/プレイ、ファール/フェア、ノー/イエス、来ない/来るなどのように語を変えて6番まで歌われる。

 

林伊佐緒の「高原の宿」(1955)では、『歌謡曲大全集』の原譜の1番歌唱に入る直前の1音符の音程でD3がE3になっていた。後に似たようなリフレインがあり、誤植だと断定した。宮城まり子の「ガード下の靴磨き」(1955)でも、原譜の前奏部の1音符に音程の誤植が見つかり、A2をB2に修正した。後者の曲では、前奏部のオブリガートの一部で、原譜の誤認部を訂正しても、まだ姿を隠したゴースト連符が見つかった。

 

三船浩の「男のブルース」(1956)では、『歌謡曲大全集』の原譜の歌唱末近くで、2音符の音長の誤植が見つかった。当該音符を含むフレーズ内に音長不足の青警告が出ていて、休符で調整したりもしたが、ボーカル音源に歌わせてみると、問題の箇所に詰まりが感じられたため、休符を元に戻して、2連結の16分音符を8分音符にすると、違和感が解消した。実際、他の似たようなリフレインの箇所もあり、誤植を確定させた。

 

ザ・ピーナッツの「可愛い花」(1959)は、シャンソン曲で、フランス語の原タイトル由来のカナ歌詞が混じっており、スコアメーカーは原語歌詞には対応しておらず、少しでもそれらしく聴こえるように調整した。具体的には、petite fleurで、カナ読みではプティット・フルールとなり、カナ歌詞もそうなっている。しかし、この歌詞をそのままボーカル音源に演奏させると、不自然になるため、プティッ・フルーにした。

 

植木等の「無責任一代男」(1962)では、『歌謡曲全集』の原譜の譜頭にモデラートがついていたが、出来上がった電子楽譜を演奏すると、スコアメーカーのデフォルト値であるテンポ84ではあきらかに遅すぎるため、昭和歌謡のセカンド・スタンダードであるテンポ108に合わせた。また、「ご苦労さん」の歌詞に×符頭の音符があてられていて、それらの歌詞を原曲の植木の口調に合わせるのに四苦八苦した。不亦楽乎。

 

フランク永井の「霧子のタンゴ」(1962)では、『歌謡曲全集』の不完全な原譜の電子楽譜化の過程で、オリジナルの位置でセカンドDCがうまく機能しなかったため、2番歌唱末の反復終了記号の位置までずらしてから、手作業で不要部を削除した。歌詞も1番歌唱分のみが記載されたもので、原曲を確認しながら、2番手と3番手の歌詞の音配当を決めてから、全体の構成を原曲に近づける必要があった。

 

三沢あけみの「私も流れの渡り鳥」(1963)では、『歌謡曲全集』の原譜に、スタッカートやアクセントなどの強調記号が異常に多く、デフォルトのアコーディオン演奏では不自然さが目につくので、すべて取り去った。スラーも後の時期の昭和歌謡の原譜に比べると相当多いが、スラーは曲のなめらかさに貢献するため、すべて残した。本曲もセカンドDCが機能しなかったので、記号の位置をずらして不要部をカットした。

 

加山雄三の「幻のアマリリア」(1967)では、『歌謡曲全集』の不完全な原譜に、一か所、反復の始まりを示す記号が抜け落ちていて、歌唱頭近くに行かずに曲頭に戻ってしまい、本来は不要な前奏部の一部が2番歌唱の前で演奏される設定になっていた。不要部を除くと、テンポがそのままだと遅くなるため、再アップ版では110になっていたテンポを120に速めた。すると、ぴったり原曲と同じ演奏時間(2:37)に収まった。

 

由紀さおりの「天使のスキャット」(1969)では、ボーカル音源による歌唱部の作成過程で、一部の4分音符に暴走がみられた。2番歌唱の「いつでもわかるの」のカと、1番から3番までのリフレインである「ラララ」の続く箇所で生じた。なぜ、「ラララ」のラには起こって、1番歌唱の「あのときからなの」のラには起こらなかったのかわからない。さっそく、当該フレーズのみでMP3ファイルを作成し、後で、暴走箇所と交換した。

 

暴走は収まったが、問題の音はフレーズ末であったため、すでにビブラートの深度の関係で、次フレーズの冒頭音に悪影響(相互干渉)を与えており、後続音とうまく接続できなかった。2フレーズのみでMP3ファイルを作成したが、暴走が防げず、改めて、2つのフレーズを分けてファイルを作成し、編集ソフトで繋ぐ作戦をとった。微細なズーミングで拡大しつつ、4か所をきれいに仕上げるのは骨であった。不亦楽乎。

 

最後に、Cole Porterの"So In Love"(1948)の特別な再アップについて。前回のアップに用いた原譜は初期の単純な譜面で、前半と後半でテンポは変化するものの、ピアノ演奏の単調さが気になっていた。ボーカル音源による歌唱部も作成しなかったため、後半にスローテンポで前半と同じ歌詞をくり返すときに、一部、歌三昧の歌唱が伴奏と合わない箇所もあった。そんなわけで、以前から再アップの機会を窺っていた。

 

今回は、お気に入りの『五線譜のラブレター』De-Lovely(2004)の譜面集から新たに電子楽譜化を行い、Lara FabianとMario Frangoulis風の混声2部合唱形式で、原曲を聴きながら、ボカル嬢と歌三昧の歌唱を加えた。原曲はギター伴奏だが、ギター音源は勉強不足で相当の手間がかかるため、ピアノ音源を活用した。それでも6ページに亘る本格的な大譜表のピアノ譜で、昭和歌謡の電子楽譜化のようなわけには行かない。

 

曲中と曲末の2か所でプッというかすかなノイズが入るが、これは、よくある擦れるような金属音と同じく、除去できなかった。該当箇所を電子楽譜から取り出し別個にファイル化して交換したが、無駄であった。また、ボカル嬢も歌三昧も英語歌唱には限界があり、それらしく歌うようには心掛けているが、不自然な箇所もあろう。制作の時間と手間に免じて容赦願おう。不亦楽乎。以下に英語歌詞を示す。

 

Strange dear,but true dear/When I’m close to you, dear/The stars fill the sky/So in love with you am I/Even without you/My arms fold about you/You know darling why/So in love with you am I/*In love with the night mysterious/The night when you first were there/In love with my joy delirious/When I knew that you could care/So taunt me, and hurt me, Deceive me, desert me/I’m yours, till I die... /So in love.... So in love.... So in love with you, my love... am I.... *以下くり返し

 

 

例によって、歌三昧のアップ曲で、視聴数の多いものを3曲ほど貼り付けた。