対馬と挑戦はかねて貿易を行い、よしみを通じる間柄にあった。
しかし、豊臣秀吉が文禄元年に始めた挑戦出兵で親交は断絶。
江戸時代になると、徳川家康は朝鮮と国交の回復を図る。
交渉にあたったのは初代対馬藩主、宗義智(よしとし)。
粘り強い外交を続け、朝鮮の重い扉をこじ開けることに成功した。
以後200年にわたり朝鮮通信使が12回来日。
争いのない平和な時代の象徴となった。
韓国では、秀吉による朝鮮出兵を「壬辰倭乱(じんしんわらん)」と呼び、日本国が朝鮮半島の南海岸各地に築いた日本式の城を「倭城」と呼ぶそうだ。
加藤清正の西生浦倭城は、海抜133メートルの山の頂に築かれ、石積みの城壁が保存されているようた。
今では、桜の季節になると地元の人らが花見をしに来るスポットなのだそうだ。
釜山タワーの建つ龍頭山公園を中心に広がる約10万坪の土地には、かって草梁倭館があった。
倭館は、日本と朝鮮が貿易や外交を行う日本人居住地だった。
朝鮮外交の方針は「互いに欺かず、争わず、真実をもって交わる」だったそうだ。