東京都写真美術館で行われている「センチメンタルな旅 1971-2017-」を見てきました。

アラーキーは昔から好きな写真家でなんども写真展に足を運んでいます。過激な芸風?で知られていますが、私が彼のファンになったのは亡き妻陽子さんとの関係からでした。むしろ陽子さんのファンになったので、夫であるアラーキーの写真も好きになった、が正確かもしれない。陽子さんの書く文章が大好きなのです。ただ、陽子さんを知ることになったのはアラーキーの写真に添えられた彼女の文章からだったので、アラーキーなくして陽子さんを知ることはできなかったのですが。

 

展示は全部で12のパートの中で、私が一番興味を惹かれたのは「食事」の展示でした。

センチメンタルな旅 1971-2017-」にも一枚だけ掲載されていますが、アラーキーの撮る食べものはとても生々しい。毒々しいと言いたくなるほどのどぎつさがあります。私たちは生きるためのエネルギーを食べものから得ているわけですが、まさに生命力に直結した食べもの、と強く感じます。接写で色鮮やかに取られたその写真たちは美味しそうという言葉よりグロテスクという言葉のほうが似合うくらいに思えるほどです。

その「食事」の写真は2つの展示に別れていて、一部は上記。もう一部は一転、すべてがモノクロ写真です。それはがんに犯された陽子さんが最後に退院してきてこしらえた食事たち。対象物への寄り方は同じレベルなのですが、なんだかとても味気ない食べものに見えました。多分陽子さんは以前と同じ気持ちで同じような料理を作っていたのだと思います。でも2つの写真群の印象は正反対。食べても砂の味しかしない食べもののようなのです。

 

それはきっと、ふたりの気持ちが写真に写り込んでいたのでしょう。特に撮影者アラーキーの気持ちがそんなふうに写させたのでしょう。

 

妻の余命を知っていたアラーキーは、どんな気持ちでこの写真を撮っていたのだろう。

二人はどんな気持ちで食卓を囲んでいたのだろうか。

それを思うと胸が詰まりました。

 

確かそのコーナーに「食事は死への情事だった」というようなアラーキーの言葉がありました。情事、という言葉を使っているのがアラーキーらしいと思うのですが、要するに食事はふたりにとってとても重要なコミュニケーション手段だったということだと思うのです。

 

別のコーナーに食べものを撮った写真もありました。中にはちょっとエロティックな雰囲気のものもありましたが、多くは普通に「静物」として映っていました。

アラーキーにとって陽子さんの作る食事、二人で囲む食事はとても特別なものだったのだということが伺えました。

 

その人と二度と会えないということ。その人と何かを共有することは絶対できなくなるということ。当たり前だった風景が突然消え去ること。

死ぬってそういうこと。

その事実はあまりにも当然な分、直面した時想像以上にうちのめされる気がする。

 

死者が戻ってくるというお盆、そんなことをふと思いながら美術館を後にしました。