妻の優しさを期待する源氏に反して、
葵の上は何かにつけて合理的な受け答えの女性ですが、
紫式部が仕えた中宮彰子と、清少納言の仕えた中宮定子では、
彰子のほうが合理的な女性だったと言われています。
彰子が入内したばかりの頃、一条天皇が笛を吹いて聞かせると、
若い彰子はそっぽを向いていたので天皇が
「私の笛を吹くのを見てくれないの?」と言うと、
「笛は聴くもので、見るものじゃありませんわ」と
けろりとして答えたといいます。
この「合理的」な考えが後宮の重圧を
はねのけていく力だったのかもしれません![]()
琵琶を手に中宮定子の元を訪れた一条天皇。
清少納言の仕えた中宮定子は、
風流な才女で社交的な性格だったと言われ、
陽気な清少納言とも才気あるやりとりを交わし、
知的で活発な、典型的な宮廷サロンを築いた![]()
中宮彰子と彼女の子、敦成親王を抱く道長夫人倫子。
手前が彰子の父、藤原道長。
彰子は定子と比べると、文学的な素質に恵まれず、
定子のような華やかなサロンを築けないのが
コンプレックスでもあったようだ![]()
親王にして地方長官?常陸宮の秘密
故常陸宮は、親王として大国である常陸国の国司に任ぜられた人物。
当時、常陸国は北への備えにあたる重要な地として、
親王が太守に任ぜられる定めでしたが、
実際に彼らが都から遠く離れた東国に赴任することはなく、
その政治は次官にあたる常陸介にゆだねられます。
こうした、いわゆる遥任国司だった常陸宮は、
当然その在任中に豊かな収入があったと想像できますが、
その後は他の役職に就くことなく
前常陸太守として生涯を終えたのでしょう。
これにより残された姫君は、
親王の娘としての定めから臣下の妻になることもできず、
たちまち困窮していくことになるのです![]()
平安京と山里を隔てる霧のイメージ
水の粒子が空中に漂って視界を遮る同じ現象を、
春は霞、秋は霧、と平安時代から区別して呼び習わした日本人。
例えば春の霞と秋の霧を詠んだものに
「春霞かすみていにし雁がねは今ぞなくなる秋霧の上に」
という歌が「古今和歌集」にあります。
「源氏物語」では、「夕霧」「手習」などの帖で登場する小野や、
宇治十帖の舞台となった宇治など、
平安京から離れた山里の描写にしばしば霧が見られます。
「橋姫」の帖の、源氏の次男、薫と大君が出逢う場面では、
俗世である平安京と、聖地、宇治を隔てるものとして、
霧が重要なモチーフとなっています![]()
たまごかけごはんの好きな食べ方は?
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