・・・さて、石巻を後にした我々一家ですが、


当初松島までの道中を海沿いの道路を利用する予定でした。




理由はテレビなどで


「復興が進んでいない石巻の現状を見た方がいい」


などと言っているのを聞いて、それを見せることが、子供たちにも


いい経験だと思っていたからです。




しかし、伯父が行かないでほしいと言ったので、伯父の気持ちを


汲んで、その一本北側の道路を利用することにしました。




(あとでよく見ると、海岸線沿いの道は復旧が進んでおらず、


走れないんですね・・・。)




というわけで、石巻街道を通り、一路、松島へ進路をとりました。






石巻を代表する大型ショッピングセンター、イオンの信号を


右に折れるとそれが石巻街道ですが、道なりに進んでいくと


やがて田園風景が広がってきます。





そこまでの風景は震災があったのか、名残すら感じさせない


復興振りでしたが、田んぼにはその爪跡が色濃く残って


おりました。




水路沿いのフェンスは軒並み傾いたままで、したが、


田園風景が広がるとさらに異変に気づきます。




「田んぼに稲が植わっていない・・・」




石巻は土地が低く平らで、稲作には向いている地形といえますが、


逆に津波の影響を受けやすかったという一面も持っています。




きっとここまで海水が届いたであろう田んぼには稲が植えられて


いないのです。






田んぼの中のところどころに残る住宅もあり、


外壁に水の跡がのこっていたので、一階の天井まで潮が


届いたのがわかります。




「この広い田園地帯の真中に建つ、


家の一階天井まで潮が届いた・・・。」




正直、想像を絶するものでした。


テレビや写真で見てはいましたが、信じられません。


でも現実なんですね。


その瞬間を経験した方々の思いを想像すると、胸が張り裂けそうです。





そのこともそうなのですが、やはり農家の親戚を持ち、


小さいながらも自分で畑を所有している私としては、




「この広い田園の地主さんは、どんな思いで


苗が植えられない去年・今年の春を迎えたのだろう。



自分が何十年も愛着を持って耕してきた土地を


放置しなければいけない空しさは、どんなだろう。



除塩技術が進んで稲作が可能になったとき、


また耕す気持ちが変わらず保てるだろうか。」




という石巻の農業を支えてきた方々の気持ちが


とても心配で、複雑な気持ちになりました。






そして、石巻街道の両脇の路肩は、特殊な形で


「堀」のようなものが掘られていて、路肩の構造を


安定させているのでしょうか、見たことのない


光景が続きました。





・・・やがて仙石線の線路に近づくと、道路の右側のエリア


稲が植わっていていました。



やっぱり、「緑」が見えた瞬間は、率直にうれしかったですね。


でも、幅約10mの道が分けた右と左の田んぼの運命


これもまた、複雑な気持ちになりました。




そして仙石線の線路を越えると、すべて稲は植えられ、


緑色の絨毯が風にそよぐ、よく見慣れた風景を私たちに


見せてくれました。




植えた苗が水を吸って大きく育ち、



やがて人々に恵みをもたらす。




いわば「当たり前」のことがとても有難く、尊いものだと


感じられたことは、今までありませんでた。




「尊い」




意味は誰もが知っていますが、それが自然に出る場面や、


頭でなく心で実感することは、自分の中では記憶にありません。





伯父の家から松島までせいぜい一時間ちょっとの道のりでしたが、


これほどいろいろと考えさせられた、濃い時間はなかったと思います。




みんながいう、衝撃的な震災の爪痕のシーンを目に焼き付けるのでなく、


田園風景を見て強く感じた思いというものを、きっと一生涯、


忘れることはないでしょう。






(続く)









宮城への旅。出発は8/7(火)の5:55。



メンバーはもちろん、

私・妻・長男・二男・母

の我が家フルメンバー5人



愛猫かりんこには、留守番役を任命した。(笑)

(もちろんペットフィーダーはセット済み)





予定では12:00石巻到着を考えていたところ、

なんと首都高で大事故(- -;



10分で通過できるところを1時間40分かけて通過。

これが響き、予定外の東北道・安達太良SAで昼食を取り、

石巻に着いたのが15:00になるという、最初からの大誤算。





我々一家を待ちわびていたのは、父の兄(二男)



婿に入り、この石巻に住みはじめて60年以上が

経過している伯父は、バブル景気の終焉とともに

ガソリンスタンドを店じまいし、高齢もあり

農業も廃業した、ひとり住まいの長い、高齢者です。



気分は大富豪なう
ガソリンスタンド時代の工場の名残



そんな環境で、かの震災に会い、10日間連絡が取れず、

親戚一同、非常に心配した。




幸い沿岸部からは4~5km離れており、直接津波の


被害を受けることはなかったが、石巻周辺の


状況は周知のとおり。まさに被災地の中心でした。




話によると、電気・水道・ガス・電話・携帯

すべて使用できなくなっており、連絡すら

取る手段がなかったとのこと。





避難勧告も出たような出なかったような状態で、


避難所には行かなかったのだそうで、


その間ずっと自宅で生活していたとのことです。





幸いしたのが、田舎だったので、まわりに井戸がある


お宅が数件あり、その水をもらい、生活していたそうです。


夜はろうそくを使い、ガスは使えず、近所のLPガスが


使えるお宅のお風呂を借りて生活していたそうで、



「戦時中みたいだった」



と、他の方と同様のことを口にしておりました。




やはり、戦争を経験していると、強いんですね・・・。






農業をやめたといっても、自分で食べる分の


野菜などは作っており、川沿いにもを持っていますが、


津波で川を遡上してきた海水が溢れ、畑には


自動車と、運悪く津波の犠牲になった方2名の


なきがらが発見されたそうです。




そこから伯父の口が重くなりました。





それからは、私のいとこ(伯父の息子)、大崎の実家、


植えている野菜、昔の商売や農業、


所有しているダンスホールなど、いろいろな


話しをしました。



気分は大富豪なう
ダンスホール。広さは100畳くらいか。





手作りの枝豆かぼちゃとうもろこしをいただきましたが、


どれもおいしく、スーパーの売り物よりも数段品質が


上でした。



そりゃそうですよね。 元々農家なんだから。


でも、それを差し引いても、美味しかった。



気分は大富豪なう
特にトウモロコシは甘すぎるくらい!





最後、別れ際に、



「港の方の道を通ってみたい」



と相談したところ、



「まだ早い。行ってくれるな。」



と、伯父の本音が出ました。




やはり、自分の地元があまり良くない状況を見られるのが


いやだったんだろうということは察することができましたし、


観光客が地元の悲惨な状況を見物しに来るのがいやだと


いうこともその前に言ってましたので、



「いい経験になるから見に行ってみろ」



ということを口にする方もいますが、それは被災地に


暮らす方々の心情を察するべきなんだなと思いました。





いいとも言いません。悪いとも言いません。


ただ今回私たちは、南方のルートを取るのはやめました。






そんなわけで、かぼちゃ・枝豆のお土産までもらって、


我々は石巻を後にし、宿泊先である松島のホテル


目指しました・・・。



(続く)



私の父は、宮城県大崎市の出身ですが、


その実家は5町ほどの水田を所有する、大きな農家で、


今もなお、私のいとこが後を継いで出荷を続けております。





また父は9人兄弟であり、地元には親戚がたくさんいるのです。





そして去年、かの震災があったわけですが、結構な被害が


あったにもかかわらず、神奈川に住む私は、その後一度も


宮城に足を運んでおりませんでした。





様々な事情が私の足を止めさせ、


 震災被災地への思い

 親戚への思い

 宮城への思い


は、このまま何事もなかったかのように消えて行ってしまう、


そんなことが現実を帯びつつありましたが、一念発起。





家族の反対にあいながらも、宮城をめぐる日程を組み、


強引に家族を説得して、計画を立てました。





そしてそれを、この


8/7(火)・8(水)・9(木)


の二泊三日で実行してきました。



ルートは


石巻 ⇒ 松島 ⇒ 古川 ⇒ 伊場野


という順で回りました。





そのレポートをこの数日間でここに書き込んで行きたいと思います。