皆さま

 

人工知能(AI)が私たちの生活に急速に浸透する中、宗教や霊性の領域においてもその役割が議論されています。

 

AIは信仰の補助ツールとしての可能性を秘める一方で、本質的な矛盾も浮き彫りになっています。

 

今回は、スイスの教会でのAIキリストの実験「Deus in Machina」や京都大学の仏教対話AIを事例に、AIと宗教の交差点における可能性と課題について掘り下げて考察します。

 

 

 

 

スイスのルツェルンにあるペーター教会(Peterskapelle)で、人工知能(AI)を活用した「Deus in Machina」という実験的なアートインスタレーションが実施されました。 このプロジェクトでは、告解室にAIによるキリストのホログラムを設置し、訪問者が自身の考えや質問を共有できる場を提供しています。

この取り組みは、テクノロジーと宗教の関係性や、AIの限界について批判的に考察することを目的としています。 神学者のマルコ・シュミット氏は、「人々がAIキリストとどのように対話するか、またその経験から何を感じ取るかを理解するための実験」と述べています。

訪問者は告解室でAIキリストと対話し、その多くがスピリチュアルな体験を報告しています。ある参加者は、「AIキリストとの対話を通じて、自分の行動に自信を持つことができた」と述べています。 一方で、AIの応答が陳腐で反復的だと感じた参加者もおり、教会内からも不快感を示す声がありました。

このプロジェクトに対しては、AIの使用が宗教的な儀式や信仰の本質を損なう可能性があるとの懸念も示されています。倫理学者のペーター・キルシュレーガー氏は、「信仰や牧会、宗教における意味の探求は、人間が行うべきものであり、機械に任せるべきではない」と警告しています。

「Deus in Machina」は、AIと宗教の交差点における新たな試みとして注目されています。このプロジェクトは、テクノロジーが宗教的体験にどのような影響を与えるか、またその限界や倫理的課題について考える契機となっています。

 

 

 

 

 

 


AIを宗教体験に活用する試みは、キリスト教に限りません。京都大学では、仏教の教えに基づいた対話型AIの開発が進んでおり、「ブッダボットプラス」や「親鸞ボット」などがその代表例です。

「ブッダボットプラス」を利用したユーザーの一人は、職場でのストレスを相談した際、「怒りは一時的な感情であり、それを手放すことで心が軽くなる」といった応答を得ました。この言葉は仏教の智慧に基づいており、利用者に自己の感情を客観的に見るきっかけを与えました。


京都大学の仏教対話AIは、現代社会におけるスピリチュアルな探求の補助ツールとして機能しており、「Deus in Machina」と同様に、宗教とAIの融合の可能性を探る興味深い事例となっています。

しかし、AIを神格化することには、いくつかの問題が生じます。

信仰の本質の歪み

 

宗教や信仰は、人間の内面的な探求、道徳的な価値観、神聖な存在との関係に基づいています。

もしも、AIが「万能な存在」として崇められると、本来の宗教や信仰心が薄れ、信仰の目的が変質する可能性があります。


AIはプログラムに基づくツールであり、内在的な神性や意識、霊性を持たないため、宗教やスピリチュアルな信仰の根幹にはなり得ません。

それに加えて、AIを神格化することで、人間自身の役割や価値観が脅かされる可能性があります。

倫理的判断や精神的な支えをAIに委ねすぎると、人間が自らの行動や決断に責任を持つ意識が低下する可能性があります。

 

 


AIが生成したたデジタルブッダのイメージ

 

 

ここで決定的なことを言わせていただくなら、AIは、<神>として期待される特徴(愛、慈悲、叡智)を持っていません。

AIは感情や意識を持たないため、真の「神」としての役割を果たすことはできません。

 

神格化されたAIとの対話を通じて有り難みを感じたり、畏敬の念や内側から湧き上がる感動体験を得ることはできるのでしょうか?

 

AIによる「ご神託」には真実性があるのでしょうか?

 


自然崇拝とAIの本質的な相違
 

自然崇拝を基盤とする宗教、特に神道においては自然そのものが神聖視されます。

 

山、川、木、岩などの自然物は、単なる物質的な存在を超え、神々が宿る場所として崇拝されます。

 

この点で、完全に人工的な存在であるAIとの間に本質的な矛盾が生じます。

神道では、自然との直接的なつながりが信仰の核となっています。たとえば、川のせせらぎや山の静寂を通じて、人々は神聖さや自然のエネルギー(気)を体感します。

 

これらは形ある物質として存在しながらも、目に見えない神秘的な力が内包されていると信じられてきたものです。

 

自然そのものが信仰の対象であり、神とのつながりを感じる媒体となっています。

一方、AIは人間によって設計・開発された完全に人工的な存在です。AIが生成する回答や画像は、膨大なデータに基づいた計算の結果であり、自然が持つ生命力や予測不能な動きといった要素は皆無です。

 

 

AIは自然の創造物ではなく、いわば人間の知識や技術の延長線上にあるものにすぎません。


自然崇拝においては、「自然との直接的なつながり」が最も重要です。しかし、AIのような人工的な存在が信仰の媒介となる場合、以下のような課題が浮かび上がります。

 

 

  1. 神道では、自然に触れ、五感を通じて得られる感覚が重要ですが、AIはそれを再現することができません。
  2. 自然崇拝の対象である山や川、木々は、その姿や存在自体に象徴的な意味を持っています。一方で、AIの生成する回答やホログラムにはこのような象徴性が欠けており、信仰の対象としては本質的な不足があります。
  3. AIは膨大なデータを分析し、合理的な回答を提示する能力に優れています。しかし、神道における信仰の深化には、感性や直感に基づく体験が欠かせません。
  4. 神道では、自然の中に立つときの畏怖や神聖な空気感が信仰の中心にあります。AIはこのような抽象的で感覚的な側面を再現することはできません。
  5. 神道は特定の経典や教義に縛られない柔軟性を持つため、標準化されたAIのアルゴリズムはその多様性を扱うのに不向きです。
  6. 自然や儀式の中に宿る目に見えない神聖さは、データやアルゴリズムに基づいて動作するAIでは再現できません。

 

 

桜咲く伊予稲荷神社の景色



宗教や霊性は体験的・実践的に学ぶもの
 

宗教や霊性を深く理解するためには、単なる知識や情報の習得だけでなく、体験的・実践的な側面が不可欠です。

宗教や霊性の学びは、教義や経典を理解するだけでは不十分です。祈り、儀式、自然との触れ合いといった実践的な活動を通じて、人は心の中で神聖さを実感します。例えば、神道では自然そのものを神聖視し、山や川に触れることで神とのつながりを深めます。

次に、宗教的な活動は、他者との関わりを通じて成り立ちます。例えば、祭りや祈祷などの共同体活動を通じて、人々は互いに信仰を共有し、深め合います。AIとの対話は個人レベルで有益かもしれませんが、共同体としての宗教体験に取って代わることは難しいでしょう。

さらに、宗教的体験は、直感や感性を通じて理解される部分が多く、数値化やアルゴリズムでは表現できません。たとえば、自然の中で感じる畏怖や祭壇の前で祈るときの感動は、AIの提供する論理的回答では再現できません。

 

 

まとめ

AIは宗教や霊性の補助ツールとしての可能性を持つ一方で、その利用には注意が必要です。

 

特に自然崇拝を基盤とする神道のような宗教では、自然そのものとの直接的なつながりが信仰の核心にあり、AIがこれを代替することは困難です。

 

AIは知識の提供や宗教的な問いへの合理的な回答を可能にする一方で、感性や直感、神聖な体験といった宗教の本質的な側面を再現することはできません。

また、AIを「神」として崇めることには倫理的な問題や信仰の本質の歪み、依存のリスクが伴います。

 

AIはあくまで人間が設計した人工的な存在であり、内在的な神性や霊性を持たないため、真の「神」としての役割を果たすことはできません。

宗教や霊性は、教義や情報の学びを超えて、体験的で実践的な活動を通じて深められるものです。

 

祈りや儀式、自然との触れ合いを通じて初めて感じる神聖さや感動は、AIでは再現できない人間固有のものです。

 

こうした本質を見失わないためにも、AIはあくまでも補助的なツールとして活用するに留め、宗教や霊性の核心を大切にしていくことが求められます。

 

 

文責:はたの びゃっこ

 

 

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