皆さま

 

私たちは陰陽師がマスメディアによって取り上げられて、ブームになる以前から、それに関係する神社には参拝しています。

 

今回は、陰陽師として名をはせた安倍晴明を祀る神社へ向かったときの記録を紹介します。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

晴明神社

所在地:京都市上京区堀川通一条上ル806
祭神:安倍晴明御霊神

 

 

由緒

 

晴明神社は、平安時代中期の天文学者で陰陽師でもある安倍晴明公を祀る神社です。創建は寛弘4(1007)年で、一条天皇の命により晴明公の功績を称え、その霊を鎮めるため、彼の屋敷跡に建てられました。

創建当時、晴明神社の敷地は広大で、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、南は中立売通にまで及んでいました。しかし、応仁の乱(1467-1477)の影響や豊臣秀吉による都市改造などで神社は損傷し、規模が縮小しました。古い文献や宝物も散逸し、長い間、荒廃した状態が続きました。

その後、地元の信者が中心となって、式年祭(特定の年に行う記念祭)などを通じて神社の整備や改修が進められました。特に昭和25(1950)年には、長年の願いであった堀川通に面する境内の拡張が実現し、晴明公の神徳を仰ぐ人々の力で神社は復興しました。

近年、安倍晴明公の存在は文芸や漫画、映画などを通じて広く知られるようになり、全国から多くの崇敬者を集めるようになりました。平成15(2003)年には御鎮座千年祭が行われ、その歴史と伝統が一層顕彰されました。

晴明神社は、安倍晴明公の霊力と知識を今に伝え、古くから続く信仰の場として大切にされています。

 

 

この神社は安倍晴明の御霊を神として崇める神社です。参拝当日は雨でしたが、それにもかかわらず若い女性の集団が次々にタクシーで乗り付けて、境内は芋の子を洗うような状態になっていました。

 

大勢の参拝客で賑わう晴明神社

 

 

どうもスピリチュアル系ご一行様もいるようです。

 

そこで彼女たちの行動をしばらくの間、観察することにしました。

 

みんな本社でお参りして、社務所でおみくじを引いたり、お守りを買って、最後は記念撮影をしてさっさと帰っていきます。

 

しかも参拝の作法も知らない人も多く、本社拝殿前で合掌していく人も多数見られました。

 

たとえば、僧侶が神社で合掌し、読経するのは神仏習合時代からの習わしなので、それは正統な作法になりますけど、一般の参拝者なら神社では二礼二拍手一礼が基本です。

晴明神社の本社。セーマンと呼ばれる五芒星がご神紋。

 

神社参拝における礼儀作法の基本くらいは予備知識として身につけてから、臨んでほしいものですね。また、そういう礼儀作法を学習する機会も必要です。


さらに観察を続けていると、みな本社だけに参拝して帰って行くという行動が目につきました。

 

晴明神社の「心臓部」ともいえる社は、本社の右手にある末社「齋稲荷社」なのです。
 

晴明神社の隠れ本体。斎稲荷社。地主社や天満社に紛れて、強い神霊エネルギーを発している。

 

 

天満社や地主社などもお祀りして、完全にカモフラージュされていますが、晴明神社の稲荷社はこの神社が創建されたとき(1007年)から祀られているれっきとした稲荷大神を祀るお社です。


なぜ陰陽師の神社に稲荷神が関係あるのでしょうか?

 

それは、安倍晴明の母はお狐さん(霊狐)だという伝説に由来します。そして、陰陽師安倍晴明は稲荷使いでもありました。彼の霊力の源泉は稲荷系のパワーであると私たちは考えています。

 

晴明の母は葛の葉とも呼ばれていますが、実際は中国からの渡来人で、妖狐使いの家系の人でした。いつも言うように、男系だけを辿るのではなく、女系がどうなっているのか、母方の先祖を押さえておく必要があります。


もう1つの注目すべき場所は、境内にあるご神木です。三つ叉に幹が分かれた古木でです。この木も強い神霊エネルギーがでていました。

 

境内のご神木


スピリチュアル系ご一行様が帰って、人数もまばらになった時を待って、私たちはゆっくりと参拝しました。


清明神社は、霊的にはとても心地よい、癒し系の波動に満ちあふれています。この神社の境内の空間だけが外とは空気が違っているのです。

 

温かみがあり、静穏な気が充満している。およそ「魔」の入り込む隙がない霊的な調節が施されている神社でした。

巫女さんの立ち居振る舞いも雅やかであり、しつけもさすがに完璧でした。


さて、ここで陰陽道について少し補足しておきます。

 

陰陽道とは陰陽五行説に基づいて、この世界のあらゆる事物の背後に潜んでいる自然(宇宙)の摂理と働きを解読し、吉凶を判断して未来を占い、人の生き方、進むべき方向についての指針を得るための思想とテクノロジーの体系です。


中国では、宇宙を陰陽の二大要素に分けてとらえる思想が何千年も前からあります。

 

二元という概念です。道教の太極図のシンボルはよく知られています。陰陽の気はさらに四元、四元からさらに8つの気の状態を意味する八卦の概念に進化していき、易の理論になっていったのです。

 

「占いは、当たるも八卦、当たらぬも八卦」の八卦の概念です。
 

もう1つの概念は、宇宙の万物を木、火、土、金、水の5種類の気に分類、還元していく考え方で、これが五行と呼ばれる概念です。


日本では、この陰陽、八卦、五行の概念が中国から入ってきて、日本独自の陰陽道が確立されました。

 

安倍晴明の生きていた時代には陰陽道は確固たる理論体系が構築されていた時代です。しかし、陰陽道の原型はそれよりもはるか昔まで遡ることができるのです。
 

中国でこの思想が完成した頃の日本はまだ弥生時代が始まった頃であり、中国や朝鮮半島からの渡来人を中心とする移民たちが日本列島にクニを作り始めた頃です。

 

渡来人にも陰陽五行説は浸透しており、これが日本列島の先住者がもっていたシャーマニズムと習合して、日本独自の陰陽道になっていったものと考えられます。


天と地、水、木、火など自然物すべてにカミが宿っていると私たちの祖先は考えていたわけですが、それをもっと高度に理論化し、未来を予測できるように精緻化していったものが陰陽道です。


公式には6世紀(513年)、継体天皇の時代に百済から五行理論の専門家が日本に派遣されています。その40年後、553年欽明天皇の時代に百済から易、暦、医の専門家を当番制でよこすように、占いや暦の書を送れという要求が出ています。

 

ちなみに、仏教の公式伝来は552年ですから、この時期、仏教と陰陽道が日本に導入され始めたことになります。


7世紀、推古天皇と聖徳太子の時代(602年)には、百済から暦、天文書、方術書などがもたらされており、朝廷は陰陽道に強い関心を抱き、積極的に陰陽思想を取り込んでいたことが明らかになっています。


さらに、壬申の乱を経て天皇中心の国家の基盤を作った天武天皇の時代に日本の陰陽道は確立されたのです。天武天皇は本人自身が陰陽師だといってもいいくらい陰陽思想に精通していた天皇です。
 

つまり、当時の朝廷、天皇家にとって陰陽道は非常に大きな重みをもっていたわけであり、それは自然万物を司る「大いなるもの」とアクセスして地上の王として君臨するために必須の知識体系だと考えられたのでしょう。当時の陰陽道はすべての学問の大系であり、宗教でもありました。


そして、原始からの素朴な神祇信仰(原始神道)に、この陰陽思想が合体することで、現在につながる神道の系統化が行われていったのです。
 

だから,いまでも神道の儀礼をみると陰陽師と同じような方法を使っているところがたくさん見つかります。


これをまとめると…

神道=神祇信仰(原始神道)+陰陽思想伝来以前の民俗信仰+公式伝来の陰陽思想

となります。

天武天皇は陰陽寮を設置し、国家、天皇家による陰陽道の独占を図りました。しかし、陰陽道が国家によって管理統制される試みはやがて失敗に終わり、仏教と陰陽道の習合が起こり、地域の民間陰陽道がどんどん派生していったのです。


平安時代になって、貴族政治になると、貴族のお抱えの私的な陰陽師の需要が高まりました。貴族の私的な願望を満たすために陰陽師が雇われるようになっていったのですが、その中で勢力を誇ったのが、賀茂氏と安倍氏です。
 

陰陽師の賀茂氏は役小角(修験道の元祖)の流れをくむ一族です。その賀茂保憲の弟子だったのが、安倍晴明と伝わっています。


以後、賀茂氏と安倍氏が公式の陰陽家として中世、近世と陰陽道を継承していったのです。

室町時代以降、安倍家は土御門家へ改姓していますが、この土御門家は現代でも福井県を本拠とする天社土御門神道という宗教法人として存続しています。晴明神社の暦を作っているのがこの土御門家です。


陰陽師は基本的には天文学と暦学の専門家でしたが、呪術に長けたものは祭祀にも関わりました。呪詛、調伏など貴族社会の闇の部分で仕事をした霊的世界のエキスパートだった人物もいたことをお忘れなく。


さて、正統派陰陽師が宮廷陰陽師として萎縮してしまったのに対し、陰陽道の傍流、亜流は民衆を巻き込んで大きなブームを作っていきました。

 

室町時代の七福神信仰や江戸時代の庚申信仰金神信仰は、大衆レベルで流行したかつての陰陽道ブームだったのです。

 

特に江戸時代は陰陽道の最盛期だったといっても過言ではないでしょう。民間陰陽師が全国を回りながら、方角や暦の吉凶、占い、加持祈祷をして人々の心を魅入らせたのです。

 

こっくりさん、方位・家相判断、九星占い、字画姓名判断などもみな陰陽道の世俗化によってもたらされた文化です。


また、新宗教との関連では、大本教や金光教が金神信仰をベースに確立された陰陽道系宗教です。金神さんが艮(うしとら)の神さまだと言うことはよく知られています。

 

艮は北東の方角、鬼門を指します。つまり、金神様は鬼門の神さまなのです。

 


稲荷神も鬼門封じによく使われていますが、これも稲荷信仰と陰陽道の接点を考える上で重要なポイントです。

 

そして稲荷眷属である霊狐と北斗七星もリンクしています。霊狐は人間のドクロを頭の上に載せて北斗七星を拝むと信じられていたのです。


というのも、古代中国では天上の神を「太一」(たいいつ)と呼んで、太一のまします座を天空の不動の星である北極星にあると考えました。

 

そして太一は天の車(帝車)に乗って宇宙を1年かけて巡り、陰陽五行の気をコントロールしていると信じられていました。

 

その神の乗り物が「北斗七星」だったわけです。北斗七星と南斗六星の2星座は天空の神聖な軸として陰陽五行思想ではとらえられていたのです。

 


それでは、安倍晴明と稲荷信仰との関連性について踏み込んで説明します。

 

もともと、日本の動物信仰は蛇信仰が根強く、狐を神使(ミサキ)として信仰するようになったのは平安時代になってからの話です。

 

 

狐信仰の歴史

7世紀……最初に日本で狐信仰をはじめたのは当時の支配階級(皇族,豪族)だった。中国の俗信の影響を受け,白狐が出没するとよい兆しであると考えられた。(日本書紀に記述あり)
 

8世紀……中国から妖狐の観念(九尾狐など)が流入して,狐の行動を一種の怪異とみるとらえ方が日本でも成立した。
 

9世紀……狐が化ける、人に取り憑くという信念は、9世紀初めの近畿地方で形成された。人に変身する、人間と結婚して人の姿をした子どもを産む、人に憑く、様々な怪異をなす、といったネガティブなイメージが形成されていた。
 

10世紀……狐憑き,狐落としの説話が盛んに作られるようになる。善悪両面をもった狐のイメージができる。
 

11世紀……狐と人間が交流するパターンの説話ができる。人をだます。人をからかう。人を試す。京都では庶民の間で,異性に対する恋愛成就,縁結び,火災予防など現世利益信仰の対象として,狐が拝まれるようになった。
 

12世紀以降……稲荷神、宇賀弁財天、荼吉尼天、霊狐のイメージの習合完成。密教と陰陽道が妖狐、霊狐信仰に強い影響を及ぼす。

 


このような流れで、時代によって狐信仰の内容や意味もずいぶん変化していくことが分かります。

 

安倍清明(921?~1005)が活躍した時代は、妖狐、霊狐の観念がすでに成立していた時代です。とすれば、宮廷や庶民の間で狐に対する信仰があることを知っていたはずであり、狐を「式神」の1つとして使役していたものと思われます。


いろいろ話を広げましたが、実際晴明神社に行ったときに本社よりは末社に意味があると述べたのは、陰陽師安倍晴明が霊狐を召喚して霊力を使っていた可能性を感じたからです。


晴明神社は晴明没後の1007年に創建されていますが、創建時から稲荷神が祀られたということは、晴明が稲荷にまつわる呪法を使っていたことの間接的証拠ではないかと思います。例外はあるものの、まったく縁のない神さまを祀るはずがないからです。

このように、日本の信仰史を語る上で、陰陽道と稲荷信仰は密接な関係にあるというのが晴明神社参拝で到達し得た結論です。



参考文献

1.中村禎里 「狐の日本史-古代・中世編」 日本エディタースクール出版部,2001

 

2.学研編集部 「陰陽道の本-日本史の闇を貫く秘儀・占術の系譜」学習研究社,1993


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