皆さま
陰陽道自体は明治時代に入って消滅し、表舞台から姿を消しました。
ですが、陰陽道は神道や仏教とも関連性があって、逆に陰陽道へ影響を与えた神道の流派もあります。
今回は、陰陽道以上に陰陽道的な吉田神社への巡礼記を公開いたします。
よろしくお付き合いくださいませ。
ご祭神:本宮
第一殿 建御賀豆知命(たけみかづちのみこと)
第二殿 伊波比主命(いはいぬしのみこと)
第三殿 天之子八根命(あめのこやねのみこと)
第四殿 比売神(ひめがみ)
太元宮…天神地祇八百萬神 (あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)
東神明社 祭神 天照皇大神
西神明社 祭神 豊宇氣比売神
東西諸神社 祭神 式内神三千百三十二座(全国の神)
私たちは吉田神社にタクシーで向かいました。
タクシーの運転手さんが言います。「お寺と神社を回るんでしたら、お寺を先に、神社は後回しにした方がよろしゅうおす。何でかというと、お寺は門限がある。閉められてしまったらどうしょうもない。でも、神社には門限がない。何時に行ってもええ。夜中でも釘もって行かはったらええ」
京都の神社もどうやら、派手に釘を打ち込みに行く人が多いようです。
私たちが吉田神社に行くことを運転手さんに告げたら、珍しそうな反応が返ってきました。ちょっと渋めの玄人好みの神社という位置づけでしょうか。
そうこうしていると,吉田神社に到着。標高105メートルの吉田山は古くから神楽岡と呼ばれて、神々の住まう山です。縄文土器もこの地の近くから出土しており、霊地として信仰の対象になっていたことは想像に難くありません。
吉田神社本宮
平安遷都から65年、貞観元年(859年)に藤原山陰が吉田山に藤原氏の氏神である大和の春日の神を勧請したのが吉田神社の始まりとされます。藤原氏は中臣(藤原)鎌足が大化改新や天智天皇の近江朝廷の時に功を立て、平安時代には摂関家として天皇の外戚として大いに栄えた一族です。その氏神を崇め、藤原氏が仕え住む都にその神を祀ったのです。
吉田神社は創立以来、中臣氏が神祇官としてすべての祭祀を司っていましたが、一条天皇の世に朝廷から派遣された卜部兼延が社務を取り仕切るようになり、室町時代以後は卜部姓を吉田姓に改姓し、やがて吉田神道(唯一神道)が確立されたのです。
中臣氏、卜部氏は共に人と神をつなぐ存在、神の声を聞くことのできる能力をもち、亀卜の本家であり、除災、祈祷、予知を自在に操るシャーマンの家系です。
特に、吉田・卜部家の祈祷の霊験はあらたかと評判は高く、人間に取り憑く悪霊・憑き物を駆除し、祓い落とす祈祷の威力は抜群でした。
現在、吉田神社の行事でもっともよく知られているのは節分祭です。悪神、厄払いの儀式に大勢の人が今も集まっています。
文明16年(1484年)、吉田神道の根本道場としての大元宮が創建されました。吉田神道は、吉田兼倶(1435-1511)が提唱した「神地垂迹説」に基づく神仏習合神道です。
太元宮
大元宮の内部:独特の八角形の社殿の周囲に八百萬神の社がズラリ並んでいる。陰陽道思想の影響を見ることができる。八方、八角、八星など陰陽道は「八」という数を重視する。
吉田神道の神仏習合思想は、日本古来の神々への復帰を説くもので、日本の神がすべての根源であり、仏教・儒教の教えはすべて神道の分化であり、神が本地で仏は神の化身であるとする考えに立っています。
それ以前の神仏習合は、空海に始まる本地垂迹の考え、すなわち仏が本体で、神は仏の化身であるとするものでした。
日本における仏教の布教においては日本古来の神祇信仰を無視しては成り立たないことを見通していた空海は、稲荷神などの神々との密接な関係を確立することによって密教の普及に努めたことは過去記事で述べたとおりです。
それに付け加えておくと、陰陽道宗家の1つ土御門家は中世には吉田神道の影響を受けて「神道化」しています。
陰陽道については「陰陽道の表と裏」シリーズで詳しく述べているのでそちらをご参照いただくとして、安倍~土御門家の系統は、室町時代の応仁の乱などの戦乱によって重要な文書、祭具なども失い、思想や知識の継承が難しくなった時期があります。本来の陰陽道の祭祀はもとより呪術的な要素も失っていたというのが私たちの見立てです。
逆に、吉田神道や密教の陰陽道的な要素を取り込まないといけないほどに、継承されるべきものが断片化していたわけです。
私たちは吉田山を順繰りに巡礼して回っていったのですが、実に社が多い山です。本宮に始まり、若宮社、神楽岡社、山陰社、三社社、太元宮と拝んでまわり、宗忠神社に立ち寄った後、見ると稲荷鳥居に突き当たりました。
そこを突き抜けると竹中稲荷社にたどり着きます。
竹中稲荷社
竹中稲荷社裏の稲荷の祠とお塚群
強烈な神霊エネルギーが出ている場所
竹中稲荷社のご祭神は、宇賀御魂神、猿田彦神、天鈿女神でした。ここも吉田神社の末社の一つとなっています。天長年間(824-834)すでに社殿のあったことが知られる古社であり、第二の稲荷山の様相を呈しています。
江戸時代、天保年間には京の子女が群れをなして昼夜の別なく参詣に訪れ、山が人でいっぱいになったくらいのにぎわいをみせていました。
当時、参道には数千の鳥居が林立し、雨や雪の日でも傘が不要だったとあるくらいです。
また、平清盛がここに隆盛を祈願しに参詣し、念を込めると金色の狐が現れるのを見て以来、開運したという伝説もあります。
竹中稲荷社の裏にはお塚や祠が林立しており、異様な雰囲気を醸し出していました。
同じ稲荷でも伏見稲荷大社とはまったく違います。よそ者を拒むというか、一見さんお断りの世界。
この山の稲荷を一心に信仰していた人々の想いと稲荷神の意識場が融合しており、部外者を寄せつけない雰囲気があって、身体に来てしまいました。
だが、ここでもきちんとご挨拶は欠かしません。山を下りながら、菓祖神社(お菓子の神さま)、神龍社を参拝して、最後に今宮社にお祀りしてある大己貴神にご挨拶して、私たちは吉田神社を後にしました。
今宮社には、対応する方角に沿って、本殿東南に青龍石、西南に白虎石、西北に玄武石が境内の隅に置かれており、陰陽思想の四神のうち朱雀をのぞく三神を象徴する石が置かれていたのが特徴的。
今宮社の青龍石
白虎石
玄武石
ただし、東北の護りである朱雀石は本堂内部にあると案内板には書かれていたので、四神による結界は完璧に機能していることになります。
吉田神社は、実に拝みごたえのある神社でした。
参考文献
鈴鹿隆男 2000 平安京を彩る神と仏の里ー吉田探訪誌 ナカニシヤ出版
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