皆さま

 

本日は初午大祭の日です。稲荷大神が稲荷山に降臨されたまことにおめでたい日ということで稲荷関係の記事を投稿いたします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

 

稲荷信仰と密教は連動して普及していったと考えるの適切です。

 

真言系の東密、天台系の台密が日本における2大メジャー密教として平安時代から確立されていますが、それぞれの宗祖空海、最澄以前にも密教的な断片的知識は輸入されていてこれを雑密と呼びます。


これら密教の流れと絡み合うように修験道も稲荷信仰と密接な関係を持っています。

 

修験道は日本古来の自然崇拝(特に山岳信仰)や原始神道に雑密が加わり、さらに天台修験(三井寺系)や真言修験(醍醐寺系)の系譜にも取り入れられていって、独自の発展を遂げた宗教ですが、これには飯綱信仰や荼吉尼天信仰との関連も認められます。

 

 

 


稲荷信仰の大きな特色は何と言っても稲荷大神の使いとして狐が出てくることにあります。稲荷神を狐だと思いこみ,狐を神だと誤解している人も意外に多いのですが、ここで登場する狐は稲荷大伸の「神使」、「眷属」のことで、神とシャーマンの間に介在して託宣をもたらす霊的存在、いわば霊的メッセンジャーであって神そのものではありません。

 


眷属にも実際さまざまな「狐」(シャーマンがビジョンやイメージとして感知する非人間的な意識場;これが実体を伴うと認識された場合「動物霊」と呼ばれることになる)が存在します。

 

これには天狐、地狐、空狐、玄狐、白狐、赤狐、野狐などの霊格があり、霊格の高い狐になると的確な託宣をもたらすのですが、野狐レベルの非人間的意識場とアクセスすると憑いた憑かれたの大騒ぎとなり、自滅に導かれるリスクも伴います。

 

 

 


霊狐が稲荷神の使いになった経緯は東寺(教王護国寺)に伝わる「稲荷大明神流記」に「命婦事」として次のようなエピソードが記されています。

 

 

東寺(教王護国寺)の五重塔

 


『昔、平安京の北、船岡山の辺りに年老いた夫婦の狐がいた。夫は、銀の針を並べたかのような白く美しい毛並みを持ち、尾は密教で用いる五鈷杵(ごこしょ)をはさんだような形をしていた。妻は鹿の首に、狐の体を持っていた。夫婦には五匹の子供があり、子供たちもまた各々が不思議な姿をしていた。さて、弘仁年中(810-824)の事。夫婦狐は子供たちを連れて稲荷山に行き、神前にひざまずいて、こう言った。『私たちは、このような獣の身ではありますが、生まれながらに霊智を備えています。世の中を守護し、人の役に立ちたいと願うのですが、この姿では思うようになりません。願わくばお社の眷属となり、御神威をお借りして、この誓願を果たしたいのです。』これを聞き、いたく感動した稲荷明神は喜んで願いを聞き届け、の狐は上の宮、妻の狐は下の宮に仕えることとなった。こうして各々十種の誓約を立て、あらゆる願を叶える力を得た夫婦狐は、稲荷社を信ずる人々の前に直接あるいは夢の中にその姿を現してこれを導くようになり、やがて「告狐」(つげぎつね)と呼ばれるようになった。』
 

参考文献:山折哲雄(編)1999「稲荷信仰事典」戎光祥出版

 

動物としての狐は春になると山から里へ降りてきて、秋になると山へ帰っていくという生態周期を持っているようで、これが農作業の周期と一致するため、田の神、稲の神のイメージと結びついたと考える説もあります。

稲を植える時期になるとしばしば狐の姿を目撃するという経験が稲の神の使いと見なされるようになった原因だ、というわけです。


一方、宗教戦略上の観点からは、伴信友(1773-1846)「験の杉」(1835)にあるように、空海をはじめとする密教僧が古来からの稲荷信仰に荼枳尼天信仰をこじつけた結果、稲荷と狐が関連づけられたという説もあります。

荼吉尼天の別号は白晨狐王菩薩(びゃくしんこおうぼさつ)といい、巨大な白狐にまたがった女神の姿として表現されることがあります。

 

伴信友によれば、空海がこの荼吉尼法を行って狐神を稲荷と称して勧請したのが「稲荷=狐」の始まりと言い切っています。

これについては、空海にすべての原因を押しつけようとする強引な論法があるものの、狐落としの祝詞・真言が神道ではなく東寺系の文書に見られることから、密教の影響を否定できません。

真言密教と稲荷神との密接な関係については、現代では伏見稲荷大社御旅所から神輿が出発して東寺東側の通用門である慶賀門の前で並んでお供えと読経を受けてから伏見稲荷大社へ還っていくという稲荷祭(還幸祭)が行われていることからも分かります。

 

なお、江戸時代までは東寺正面の南大門(仁王門)から山内に入り、すぐ左側にある鎮守八幡宮に到着し、神輿にお供えをしていました。

 

稲荷神は東寺の守護神でもあるのです。

 

伏見稲荷大社御旅所 稲荷祭 令和5年

 

東寺 八幡社殿

 


この点について、東寺に伝わる「稲荷大明神流記」に真言密教と稲荷神との関係を表す伝説が記述されているので要約を掲げておきます。

『弘仁7年(816年)空海は紀州,田辺で稲荷神の化身である異相の老翁に出会った。身長約2メートル40センチ(8尺),骨高く筋太くして,内に大權の気を含み,外に凡夫の相を現していた。翁は空海に会えたことを喜んで言うには「自分は神であり,汝には威徳がある。今まさに悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者になったからには、私の教えを受ける気はないか。」空海はこう述べた。「(中国の)霊山において、あなたを拝んでお会いしたときに交わした誓約を忘れることはできません。生の形は違っていても心は同じです。私には密教を日本に伝え隆盛させたいという願いがあります。神様には仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺があります。ここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください。」と仲むつまじく語らい会って、神の化身と空海は盟約を結んだ。
弘仁14年(823年)正月19日。空海は天皇より東寺を賜り、真言の道場とした。同年4月13日。紀州で出会った神の化身が稲を担ぎ、椙の葉を持って、2人の婦人と2人の子供を伴って東寺の南門に再びやって来た。空海は大喜びして一行をもてなした。心より敬いながら、神の化身に飯をお供えし、菓子を献じた。その後しばらくの間、一行は八条二階の柴守の家に寄宿したが、その間空海は京の南東に東寺の造営のための材木を切り出す山を定めた。また、この山に17日の間祈りを捧げて神に鎮座していただいた。これが今の稲荷社(伏見稲荷)である。また、八条の二階堂は今の御旅所である。空海は神輿を作って伏見稲荷、東寺、御旅所をかかせて回らせたのである。』



この伝説を空海らの密教勢力と秦氏らの神道勢力の利害の一致を象徴するエピソードと理解するのは歴史学的見解でしょうし、それはそれとして妥当な解釈です。

空海の時代、稲荷山は密教僧たちの山林修行の場として使用されていました。

 

「意識場」の概念を適用して考えてみると、空海は最初に中国に留学していたときに稲荷神の化身(アストラルボディ)と対面していて、次が紀州田辺、最後が東寺の南門で再会を果たしていることになります。

 

 

稲束を背負った老翁の稲荷イメージ(古図)

 

老翁の姿というくだりには固執する必要はありません。なぜなら、神仏意識はそれを感得する人の心理状態、意識レベルによって如何様にも変化するためです。

 

神仏意識の表現形は知覚者の状態によって同じ意識場に感応しても全く異なります。基本的に「神仏意識」は自らがそう信じるような形で姿を現すのです。

『龍頭太は和銅年中より以来、すでに100年に及ぶまで、稲荷山山麓に庵を結んで、昼は田を耕し、夜は薪をこることを生業としている。その顔は龍のようである。顔の上に光があって、夜を照らすと昼のように明るくなるので、人はこれを龍頭太と呼ぶようになった。その姓を荷田氏(になだし)という。稲を担っているためである。弘仁年間のころより、弘法大師が稲荷山で難行苦行をしていると、その翁がやって来てこう言った。自分はここにいる山の神である。仏法を護持する誓願がある。と』

 

この伝説も「稲荷大明神流記」に出てくる話ですが、ここでは稲荷神は龍の顔をした翁として空海の前に現れています。これを「意識場」として推理すると稲荷山で修行中の空海が「山の神」と感応したことを象徴しています。

 

実際、稲荷山はいくつもの滝がある行場で、水神=龍のイメージにもつながりやすい場所でもあります。

また、伝説から田の神、稲の神としての性質も龍頭太はもっており、少なくとも奈良時代には、すでに農耕神としての稲荷神のイメージは確立されていたものと考えられます。

 

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