皆さま

 

今回は、稲荷大神及び稲荷信仰と日本に伝来した仏教との関係について踏み込みます。かなりディープな話になりますが、人の信仰や祭祀にまつわる深層心理学的なテーマとも関係するのでよろしくお付き合いくださいませ。

 

 

縄文時代に端を発し、弥生時代になって、水神、地のカミとして蛇信仰が広く浸透していたことは過去記事で説明したとおりです。

 

 

 

 

蛇信仰は中国からの陰陽五行説の影響を受けて龍信仰と合体し、龍蛇神の信仰として原始神道につながっていきました。

 

やがて仏教が伝来し、インド、中国から神仏のイメージが伝わってきたのです。

 

日本の仏教は最澄、空海によって密教が中国から日本へ伝えられて一応の確立はされました。しかし、日本人は仏教を中国やインドのスタイルそのままを受け入れたのではなく、昔から連綿と受け継がれてきた土着のカミに対する信仰と融合させる形で、独自の仏教に練り上げられていったと考える方が妥当だと思います。

 

また、道教的な思想は神道と混ざることで日本独自の陰陽道に発展し、古来からの神祇信仰、特に山岳信仰は仏教思想と融合する形で修験道になっていったと言えるでしょう。

 

中世以降、神仏習合はすっかり定着し、神社の中にも神宮寺、別当寺としてお寺が建てられました。

 

弁財天や荼吉尼天はその習合のプロセスの中で形成された神仏のイメージです。

 

 

弁財天について


まずは弁財天について説明しておきます。

 

弁財天のイメージは時代が下るにつれて大きく4通りに変化していきます。

 

1.武神弁財天⇒弓、刀、斧、鉾などをもつ勇ましい姿の弁財天がもっとも早期に作られた。


2.宇賀弁財天⇒宇賀神王ともいう。これは水神、龍蛇信仰と結びついた弁財天であり、頭の宝冠の上に蛇がとぐろを巻いているイメージである。
 

3.白蛇弁財天⇒剣と宝珠をもち、頂上に白蛇をいただく弁財天。蛇と剣の関係は素戔鳴命のヤマタノオロチ退治神話との関係で、宝珠は千手観音菩薩との関係でイメージの関連づけが行われた。


4.妙音弁財天⇒もっとも新しい弁財天イメージ。琵琶を抱く女神のイメージである。

 

白蛇神社(山口県岩国市)の宇賀弁財天像

 

こうした弁財天のイメージは、おおむね鎌倉時代の中で確立されていったと言われています。


 

荼吉尼天について

 

荼吉尼天の原型はインドの夜叉神ダーキニーから来ています。

 

ダーキニーは愛染明王の前身であり、その起源はインドのパラマウ地方(ベンガル地方の南西部)に居住していたドラビタ族の一部族、カールバース人が地母神の配偶者として信仰していた女神であり、元は農業神でした。


その後、性や愛欲を司る女神とされ、紀元前3世紀頃のインドで流行し、3世紀ころにはさらに大憤怒の性格を持つ凶暴な神で、人肉を食らうとされるよう変化しました。
 

ダーキニーのイメージ

 

 

これが仏教に取り入れられていくと、鬼神夜叉の類とされ、人の肉を食らう恐ろしい神となったのです。


「大日経疏」では、大日如来が大黒天に変化して、ダーキニーを退治し、調伏させるという逸話がでてきます。この調伏以来、ダーキニーは人の生肉を食べるのを禁じられ、死肉なら食べてもよいと許可されたそうです。さらに、人の死をその6ヶ月前に予知する能力を大日如来から授けられ、この神通力を得るために人々はダーキニーを信仰するようになりました。


ダーキニーが荼吉尼天となって、日本に浸透していくプロセスには複雑なものがあります。

 

実は荼吉尼天は稲荷大神とも習合しています。

これは、1つには、紀元前後のインドの愛欲神としてのダーキニーのイメージ、すなわち食人(カンニバリズム)=性愛関係のイメージが、中国に伝わる男性の精液を吸い取る妖狐の伝説と結びついて、荼吉尼天とキツネの習合が生じたためではないかといわれています。

また、密教が日本に伝わったときに、ダーキニーは農耕神としての稲荷神のイメージとも重なり、さらに、キツネの妖艶さのイメージとも結びついて、稲荷は狐であるという信念が完成したのではないかと考えられます。

平安時代に中国では狐のことを野干(射干)と称したと伝わり、狐の別名を野干と呼ぶようになったそうですが、実際には中国語の野干とはジャッカルのことであり、ダーキニーはジャッカルを眷族に従える神と言うことになります。

 

 

複合イメージとしての稲荷大神

 


さらに、稲荷神は元来複数神であり、農耕民族の中でも稲作に頼る民族が古くから持っていた信仰が、日本において「稲魂」として崇められ、神道が成立していくプロセスで宇迦之御魂(うかのみたま)、猿田毘古(さるたひこ)、大宮売(おおみやのめ)の三神を祀るようになったという説もあります。


もともとお稲荷様は、生産や生活の安定を願い、それに感謝する神として定着したものでしたから、民間信仰とジャストマッチし庶民の願望はさらに増幅して富や出世を祈る対象にまでなっていったのかもしれません。


そこに、ジャッカルに乗ったダーキニー信仰が伝わり、これが人の願望を何でも叶えてくれる通力自在の神ということから、稲荷神と混同され、狐は稲荷神の使いと見られるようになり、やがて狐そのものが神獣とされるようになったのではないかというわけです。


こうして荼吉尼天は白狐にまたがった稲荷の女神としてイメージされるようになりました。

 

荼枳尼天のイメージ

 

仏教稲荷として有名な愛知県の豊川稲荷(妙厳寺;曹洞宗)の豊川荼吉尼眞天、岡山県の最上稲荷(妙教寺;日蓮宗)の最上位経王大菩薩はいずれも、この女神イメージをかたどっています。

 

 

岡山県の最上稲荷(妙教寺)


 

この荼吉尼天の女神イメージは弁財天のイメージを参考に室町時代になって確立されたものです。先にあげた弁財天イメージの中で宇賀弁財天がその原型になっています。宇賀弁財天の宇賀とは稲荷大神の主神「宇賀魂」の宇賀でもあります。

 

 

宇賀弁財天=蛇
荼吉尼天=狐

 


この両者は眷族が違いますが、伏見稲荷山はもともと蛇信仰(龍神信仰)が中心でした。古代から蛇信仰があったわけですが、伏見稲荷山地区(深草)に渡来系の秦氏が稲荷神を祀り始める前は、紀氏=三輪系、賀茂朝臣氏(かものあそんうじ)系の古代氏族の居住地だったという説もあります。


もともとが出雲と縁の深い賀茂氏は龍蛇神を祀っていたと言いますが、ということはそもそも稲荷山は蛇、龍神信仰の対象だったことを示しています。


今でも稲荷山を参拝しますと、至る所に滝があって、古代からの山林修行者の行場になって痕跡を伺うことも出来ますし、今もなお龍神様を祀っています。

 


伏見稲荷山の薬力滝(行場)

 

中世においては、伏見稲荷山には弁財天や丹生明神が関連づけられていました。これは神仏が分離されて久しい現代にあっては、ほとんど知られていないことです。

 

 

東の峰・・・大威徳明王,天照大神,荼吉尼天
南の峰・・・降三世明王,丹生明神,鬼子母神
西の峰・・・愛染明王,弁財天
北の峰・・・不動明王,三大神
中の峰・・・稲荷神,阿弥陀如来,辰狐王

 

 

丹生明神は紀氏の神で、弘法大師空海とも接点のある神です。高野山の地主神を祀る丹生都比売神社ともつながっています。

 

 

和歌山県 丹生都比売神社

 

 

これで、弁財天も稲荷一族だという意味がおわかりになりましたでしょうか。これも三輪系の先住氏族の蛇信仰がルーツになっているためです。

 

 

神話と神話、氏神と氏神が折り重なって信仰の内容はどんどん変化していくのです。

ゆえに、稲荷神は龍神と狐神を眷族とする「水のカミ」「地のカミ」「山のカミ」ということになります。


弁財天はインドでも河の神さまであり、それが仏典にも取り入れられています。それが日本に来ると水神信仰がすでにあり、弁財天は水神として「龍」、「蛇」ともミックスしていきました。


稲荷神は山の神であり、本来は龍・蛇を眷族に従えていました。その後、蛇信仰から平安時代には狐信仰に交代し、やがて荼吉尼天に結びついていったという流れです。

 


荼吉尼天のイメージは当初はインドの夜叉神そのものでしたが、そのままでは恐ろしすぎるので、ソフトなイメージに転換させる必要が出てきて、宇賀弁財天をモデルにしてより柔和な荼吉尼天のイメージが作り上げられていったのです。
 

 

宇賀弁財天と蛇、荼吉尼天と狐のイメージ連合体の共通点は、蛇も狐も食物神・農耕神として信仰されていたことです。

 

ダーキニーが荼吉尼天に昇格したしたときに、宇賀弁財天から蛇を取って、狐に乗り換えさせ、荼吉尼天イメージが確立されたと考えられます。

 

この時点で稲荷神=荼吉尼天=狐のイメージ・セットが完成しました。

 

まとめ


太古のカミの概念は、もともと「隠れ身」の存在で、感性でしか分からないものを、大勢の人に理解しやすいようにイメージ化していく作業が必要でした。

 

日本で仏教が受け入れられたのも、仏像という宣伝グッズがあったためです。

 

仏とはこのようなお姿で、これを拝めば御利益があるぞと言われたら、みな飛びつく。その方がイメージし易いためです。


これに対し、神道は山を拝んだり、海を拝んだり、自然を崇拝するものであり、本来は偶像崇拝ではないため、神さまのイメージが一般の人にはつかみにくいのです。

 

そこで、中世のころから庶民にわかりやすくという意図で、日本の神の偶像=神像を作らせていったわけなのです。
 

どんなイメージでもいいのですが、一度神のイメージをこしらえて、みなが拝むようになると、その信仰の内容のとおりの神仏意識場が形成されていきます。

 

みなが同じものに意識や注意を集中すると「念の集まる場」ができてくるのです。

 

長年にわたって意識場の堆積が起こっている神社や寺院では、その結果御利益という形で、奇妙な現象が起こるようになります。

 

つまるところ,御利益というのは人間たちの崇敬の念によって神社・仏閣に集中された神仏のエネルギーをいただくことに他ならないのです。

 

いわるゆご神蹟はもともと「聖地」として天然の神仏意識エネルギーの集中しやすい場所です。そういう場所に崇敬者が集まりはじめ崇拝するようになっていきます。

 

やがて、その場所にお社や、お塚が建ちます。

 

具体的に目で見える形で「俗物」(物質)の前で、みながいろんな思いをもって拝むようになります。

 

そのたびに、人々の感謝や畏敬の念が積もり積もって、エネルギー場を増幅していくのです。つまり、自然の意識場と人間の想念が溶け合い、相互作用を起こして、一層効果的な場所となっていくわけです。

 

何もない場所を見て、これが神さまだから拝もうという気には、人はなかなかならないものです。しかし、そこに目につく俗物が置いてあれば、それがイメージを喚起する物理的刺激となって、俗物を通して「聖なるもの」へと心が通い、ついには神仏意識と交感できるようになるというプロセスがそこにはあります。


もちろん、そこで形式にだけとらわれる、見かけだけにとらわれるような過ちも人間は犯してしまいがちです。それでは効果(御利益)はいただくことはできません。霊性感受性の鋭い人なら目の前に何もなくても拝めるわけですけど、なかなかそれができないのが人間です。

 

だから、取っつきやすさ、最初のきっかけとして、祈りの場所にいろいろな物を置いて拝むわけです。


神社というのは天然の気場がいい場所に加えて,人々の想念が蓄積した「銀行」のようなものだと思ってみれば良いと思います。そこに参拝して恐れ敬う気持ち、感謝の気持ちを預けていくわけです。大きな銀行には、人々の崇敬、感謝の念が一杯溜まっているから、それを引き出して持ち帰ると御利益が出てくるのです。


 

参考文献

 

中村禎里 2017 【改訂新版】狐の日本史─古代・中世びとの祈りと呪術 戎光祥出版

中村陽(監修) 2009 イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神 戎光祥出版


大和岩雄 2013 続 秦氏の研究 ~日本の産業と信仰に深く関与した渡来集団の研究~ 大和書房
 

 

 

 

 

 

 

 

 

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