皆さま

 

ネットで「聖地巡礼」で検索をかけるとウィキペディアの項目がヒットします。
 

純粋に宗教行動や霊性意識との関連で調べ物をしようとしていたわけですけど、

 

巡礼(じゅんれい)は、漫画・アニメなどの熱心なファン(信者)心理から、自身の好きな著作物などに縁のある土地を「聖地」と呼び実際に訪れること。フィルムツーリズムやコンテンツツーリズムの一種。その他の用法として呼称される「巡礼」と区別するため、特に「聖地巡礼」と称されることが多い。

 

と出てきて「え?」となりました。その他の用法としての「巡礼」の方が本来の意味だと思いますが???

 

 

通俗的な巡礼の意味で使われるようになっていて、かなり一般化して広まっているようです。

 

・漫画、アニメ、映画などのファンが作品の舞台となった場所を訪れることで、キャラクターやストーリーと同じ立場に立ち、その世界観を追体験する。作品の中のシーンを自分の現実で再現することで、作品への没入感や感動をより強化しようとする。

 

・作品のファンにとって、関連する場所が「聖地」となる。これはその場所が特別な意味を持つからであり、その場所での体験が特別な感情を喚起する。

 

・同じ作品を愛するファン同士が「聖地」で出会うことで、共通の話題や体験を共有し、コミュニティ感が生まれる。

 

そういう意味で「聖地巡礼」という言葉が使われているのだと理解しました。

 

アニメや映画、ドラマの聖地巡礼は、ファンの愛着や没入感を高めるためのエンターテインメント的な体験であり、宗教的巡礼は信仰の実践や霊的な目的に基づく体験です。

 

どちらも個々の体験や感情に大きな影響を与えますが、その動機や意義は大きく異なると言えます。

 

では、聖地という言葉に含まれる「聖なるもの」の本来の意味についてはどうなのでしょう。

 

聖なるものに関する概念

 

ルドルフ・オットーは、1917年に発表した著作『聖なるもの(Das Heilige)』の中で「ヌミノーゼ」(神聖さ)という概念を提唱しました。これは、従来の宗教的経験を分析するための新しい視点を提供するもので、神聖なものに対する人間の根源的な体験や感情を指します。

①畏怖……畏怖の感情は、神聖なものに対する恐れや戦慄、圧倒される感覚を意味する。


②恐怖と力……神聖なものの威厳や圧倒的な力に対する尊敬の念や恐怖感。人間の理解や支配を超えた力の前に感じる恐怖。
 

③神秘性……神聖なものの説明できない、言葉で表現できない不思議さや謎めいた性質。
 

④引きつける魅力……恐ろしいものに対して感じる魅力や引き寄せられる感覚。畏怖しつつも、それに近づきたいという感情が湧き上がる。
 

⑤魅惑と喜び……畏敬の念を抱きつつも、神聖なものの魅力に惹かれ、それに触れることで感じる喜びや満足感。
 

 

このように、ヌミノーゼ的体験は、神聖なものに出会ったときに生じる独特の感覚であり、日常の経験を超えた特別なものです。


たとえば、壮大な自然現象や圧倒的な景観を目の当たりにしたときの感動や畏怖がありますし、大聖堂や神社での厳かな儀式、聖地での体験など、宗教的な場所で感じる特別な感覚もヌミノーゼになります。

 

さらには、祈りや瞑想の中で感じる超越的な存在との出会いといったものが該当します。


ヌミノーゼは、神聖なものに対する人間の本質的な反応を捉えた概念であり、宗教的な経験のコアとなるものです。

 

人類にとって普遍的な霊性感覚だと言ってもいいものです。

 

神聖さは単なる論理的、合理的な理解を超えて、人間の心の深層に根ざした感情といえるのです。
 

 

 

 

 

次に、ミヒャエル・エリアーデの「聖と俗」の中では、神聖さの特徴について述べられています。

 

エリアーデは、著書『聖と俗(Das Heilige und das Profane)』で、世界を「聖なるもの」と「俗なるもの」に分けて考察しました。

 


1. 聖なるもの


①神聖なものは、日常の生活から切り離されている特別な意味や価値を持つ。
 

②聖なるものは、時間や空間の普通の流れを超えた超越的な次元に存在する。これは、人間の理解を超えた霊的な現実を象徴している。
 

③聖なるものは、儀式、祭典、聖地、宗教的な象徴を通じて経験される。これらの体験は、超自然的な力や神聖な存在との接触をもたらす。


 

2.俗なるもの
 

①俗なるものは、日常生活の一部であり、普通の時間と空間に存在する。特別な宗教的意味を持たず、通常の活動や生活に関連している。
 

②俗なる時間は、過去、現在、未来が連続して進む通常の時間の流れ。特別な霊的な次元や意味を持たない日常の時間。

 

聖地の例……神社、寺院、教会などの宗教施設や、自然の中の神聖視された場所(山、泉、樹木など)が該当します。これらの場所は、聖なるものが顕現する象徴的な空間とされます。

 

 

 

 

とはいっても、日常生活の中で、神聖さを感じることができる瞬間もあります。

①壮大な自然に触れる……例えば、山頂から見下ろす景色や、静かな森の中で感じる神秘的な感覚。


②芸術や音楽……特別なコンサートや、芸術作品に触れたときに感じる感動。
 

③人生の節目……結婚式、誕生、死別など、人生の重要な瞬間に感じる深い感情。
 

これらの体験は、日常生活から離れた特別な感覚をもたらし、それが神聖さに近いものです。

 

 

「通俗的聖地巡礼」に対する批判的見解

 

しかしながら、アニメ、映画、ドラマなどの「聖地巡礼」は、もともとの宗教的巡礼とは異なる目的と意味を持っているため、これを批判的に捉える見解にはいくつかの観点があります。

 

以下にその詳細を示します。

1. 「聖地」の概念の希薄化

宗教的聖地は、長い歴史と文化の中で神聖な意味を持ち、その場所を訪れることが信仰の一環として重視されています。そこには霊的な浄化、罪の償い、信仰の強化といった深遠な意義があります。

これに対し、アニメや映画の「聖地巡礼」において「聖地」という言葉が使われることで、宗教的な「聖地」が持つ神聖性や霊的な価値が軽視され、世俗的・商業的な意味合いに変質してしまう可能性があります。


「聖地」という言葉の使い方が広がることで、伝統的な巡礼地の価値が低下し、宗教的な敬意が薄れる恐れがあります。


2. 体験の軽薄化

宗教的な巡礼は、深い精神的な体験や霊的な関わりを必要とし、巡礼者の信仰や宗教的な探求の一環として重みがあります。

これに対し、アニメや映画の「聖地巡礼」は、主にエンターテインメントや趣味に基づくものであり、そこで得られる体験は瞬間的で浅い場合が多いです。


その結果、巡礼という行為自体が持つ深い意味が軽視され、消費的・表面的な体験に留まることで、巡礼の本質的な価値が薄まる可能性があります。
 

3. 商業化と消費行動の増長

宗教的な巡礼は基本的には信仰行為であり、商業的な要素は二次的なものです。巡礼地での消費活動も、信仰行為に付随するもので、主な動機とはなりません。

これに対し、アニメや映画の「聖地巡礼」は、観光地としての側面が強く、関連商品やサービスが積極的に販売されることが多いです。

 

これにより、「巡礼」という行為が消費行動に変質し、商業的利益を優先する動きが見られます。


これは「聖地巡礼」が商業主義に取り込まれ、本来の信仰的な価値や意味が消費社会に迎合するものとなり、巡礼そのものの価値が減じられる危険性があります。
 

4. 観光地としての負の側面

宗教的巡礼地では、多くの場合、宗教的儀式や規範に従うことで、地元の文化や環境に対する尊重が求められます。

これに対し、アニメや映画の「聖地巡礼」では、多くのファンが訪れることで観光地化し、地元の文化や自然環境が損なわれることがあります。


その結果、ファンの振る舞いや一時的な観光客の増加が地元住民に負担をかけ、地域社会の持続可能性や文化の保全に悪影響を及ぼす可能性があります。
 

5. 敬意の欠如

巡礼者は訪問する聖地や信仰対象に対して敬意を払うことが求められ、その行為自体が礼拝や祈りの一環として行われます。

これに対し、アニメや映画の「聖地巡礼」では、訪問する場所への敬意が必ずしも伴わず、時にはその地元の文化や住民への配慮が欠けることがあります。


これは、巡礼地が単なる「観光地」として消費されるだけでなく、地元の文化や生活に対する無関心を助長することになります。
 

6. 個人的な価値観の過度な投影

宗教的巡礼は共同体としての信仰や宗教的価値観に基づくものであり、個々の経験もその共同体の枠内で尊重されます。
 

これに対し、アニメや映画の「聖地巡礼」は、個人の趣味や感情に基づくものであり、個人的な思い入れが「聖地」に対して過度に投影されることがあります。
 

これにより、巡礼の地が「個人的な満足」のために訪れられ、共同体的な意義や社会的な価値が軽視される恐れがあります。


 

まとめ
 

アニメや映画、ドラマの「聖地巡礼」は、宗教的な巡礼の概念を借用することで新たなファン文化を生み出している一方で、本来の巡礼が持つ深い宗教的・霊的な意味を軽視し、商業化や消費行動の一環に変質させている点で批判の対象となりえます。

 

特に「聖地」という言葉の使用がもたらす神聖性の希薄化、体験の表面的な側面、商業主義の増長、観光地化による地域社会への負担などの点で、伝統的な巡礼とは大きく異なる側面を持っており、慎重に見直す必要があるでしょう。

 

私たちは、神社仏閣をめぐる旅をこれまでに何度もしてきましたが、それは自分たちの神仏に対する信念や信仰を確認、強化するためであり、神仏意識との交流を通じて、霊性を高めるための祈りの場として見なしています。

 

今のご時世、純粋に自己修養や精神的、霊的な目的で神社仏閣へ足を運ぶ人は少なくなり、宗教施設としての意味合いも薄れ、単なる観光資源としてしか見ない傾向がハッキリと現れています。

 

お祭りにしても、神と人とが交流する場としての意味も薄れてしまい、人が浮かれ騒ぐだけの「神なき祭」が行われているに過ぎません。

 

現世利益を求めること自体は否定しませんが、御利益に預かるには神仏に対する決してぶれない信念、感謝の気持ち、畏敬の念を実感として持てるかどうかが重要です。クレクレ参拝で終わってしまうと、何も得るものはありません。

 

神聖さの感覚は、とても原始的で、素朴な霊性意識に関わる感情ですが、これが人類の歴史の中で育まれてきた深層意識に受け継がれています。

 

たとえ、目の前の木や石ころであっても、そこに「聖なるもの」の気配を感じ取る霊的な感受性を現代人は忘れてしまっているように思えます。

 

巫師の視点から見ると、信仰目的の巡礼と観光目的のそれとは全くの別物であり、聖地巡礼と言われても、そこにはヌミノーゼや聖なるものに対する畏敬の念のかけらもない、非常に俗な行為にしか映りません。

 

メディアや自治体、政府の観光戦略に誘導され、ただ消費するだけの人集めの道具として、とても俗っぽい聖地巡礼は利用されているようにしか見えないのです。

 

そこには、聖なるものと向き合い、霊性感覚を強めていけるような体験要素を見いだすことはできません。

 

個人の趣味の問題と言えば、それまでで、別に目くじらを立てるほどのことではないと見る向きもあるでしょうが、人為的に作られ、煽られた「聖地巡礼」に対する問題提起として、あえて言挙げしました。

 

言葉は言霊だと私たちは考えていますので、その言葉の使い方を軽く扱いすぎだと感じた次第です。

 

びゃっこ 拝

 

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