皆さま

 

私たちはこれまでに様々な神社仏閣をめぐりました。

 

時には、古代遺跡もふくめて。

 

日本の祭祀の歴史や、時代による信仰形態の移り変わりなど、その地に行ってみなければ分からないこともあります。

 

自分たちに縁のある場が中心ですから、網羅的に巡礼の旅をしたわけではありません。

 

私たちの出自、アイデンティティを探るための旅を綴ってまいります。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

楯築遺跡(たてつきいせき)

所在地:岡山県倉敷市矢部



 

現在の岡山県から広島県東部を含む山陽側の地域を吉備と呼び、ヤマト王権と肩を並べるくらいの勢力を誇る王国があったといわれています。

 

特に岡山市、倉敷市、総社市の一帯は、吉備王国の中心地であり、弥生時代から古墳時代にかけての首長級の墳墓が集中している場所です。

 

このうち、私たちが特に興味を惹かれたのは、倉敷市にある弥生墳丘墓、楯築遺跡でした。


写真:墳丘墓頂上部にある環状に並んだ立石


墳丘の頂上部に環状に並んだ立石があります。立石の中央に石で作った祠がありました。

 

大正時代までは、ここに楯築神社(楯築さん)があって、この地域の氏神として地元の人々から崇敬されていたといいます。

写真:楯築神社の跡を残す小祠


楯築遺跡は弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)の首長墓です。

 

この遺跡の特徴は、後の前方後円墳の規格に受け継がれる方形の突出部が中央の円墳部の北東側と南西側にあることから双方中円墳丘墓と呼ばれます。

写真:楯築墳丘墓の形を示した案内板

 

古墳時代によく造営された前方後円墳を北東-南西の「鬼門筋」にそってくっつけたような形をしています。

 

出雲地方にも四隅突出型墳丘墓と呼ばれる独特の形状をした弥生時代の墳丘墓がありますが、それとは明らかに別の規格で築造されています。


そしてもう1点は、ここから特殊器台形土器、特殊壺形土器が出土していることがあげられます。

 

特殊器台形土器は後の埴輪の原型と考えられています。

 

五色塚古墳(神戸市)の埴輪列

 

以上のことから、考古学的に見た場合、その後九州から関東に至るまで広がりを見せた前方後円墳の規格策定に吉備の勢力が強い影響を与えていたことは確かであると考えられているのです。


墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていましたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られています。

下の写真は「伝世弧帯文石」と呼ばれるものです。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板にも通じるといわれています。
 

 


写真:ご神体石の亀石(龍神石)

 

写真:ご神体石には人面のようなものも彫られているが、これは彼らが祀ったカミの象徴である。

 

 

この地に住んでいた人々はどのような祭祀をここで行っていたのか、サイコメトリーを行いました。

――――

この遺跡は一族の結束とアイデンティティを確かめるための記念碑的な場所。

 

この地に住み着いた人々は海神を崇拝する、海人だった。昔は、この地のすぐそばまで海が来ており、彼らは戦乱を避けて船に乗って、ここを定住地とした。

 

彼らは基本的に争い事を好まず、温厚な民だった。 
 

また、神体石の文様は、海の渦や波を表したものであり、石に彫られている人のような顔は<海神>を象徴している。
 

ここにたどり着いた人々は少数だったが、この地で漁労や農耕を営むことで、彼らは繁栄していった。

 

首長が亡くなったとき、彼らは自分たちが海からやってきた民であることを強く意識するために、海の見える丘に墓を造り、そこに一族が集まって祭祀を行った。
 

中央の立石は自分たちがやってきた海の方角を向けて立てられた。首長を失った悲しみを表す墓所というよりは、結婚式場のような祝い事を執り行う場所として祭祀が行われた。

 

彼らはきれいな貝殻など海のものを装飾品として身につけており、海からやってきた民であるという自覚をもっていた。

 

この地に住んでいた人にとって、祖霊とは自然と一体化しているものと観念されていた。

 

自分たちの出自を各部族は強く自覚していたし、彼らはそれが<海>と深いつながりを持った神イメージを持っていた。

 

部族の長が亡くなれば、その祖霊は自分たちが祀っていた神と同化していき(海に還る)、守護神となった。

 

この地域に住んでいた人々の祭祀は、とても穏やかなもので、生け贄や人身御供などの呪術は使用していない。
 

その後、互いの部族がまとまっていき大きな勢力となった。対立よりも協調することが彼らの気質であった。 

――――

このサイコメトリーの結果を考古学的な知見と重ね合わせながら、さらに考察を深めてみます。

 

楯築遺跡の発掘を行った近藤義郎氏は、弥生時代後期の祭祀について次のように述べています。

 


主に瀬戸内や「畿内」など倭西方の各地で(弥生時代)中期後葉の頃から、新穀や酒などの飲食物の入った壷や甕などを器台に載せて、豊作の折は神々に感謝し祝い、凶作の折りは神々の加護と繁栄の回復を願い、神々と一緒に呑み食べる相嘗の呪術的祭儀が、首長を司祭として「村人」参集の上で「村の広場」あるいは「村の聖地」で行なわれていたと想像される。神々には穀物の神・田の神・水の神・日の神など、さまざまな自然神の一部または全部があったと普通には想像されているが、首長や集団にとっての祖霊が、それら自然の神々とかかわりがあったことは確かであろうが、それがどのようなかかわりにあると考えられていたか、両者が一体と信じられていたかどうかなどは僕には判らない。

 

出土物から、当時の祭祀の概要を推論することは可能です。

 

しかし、古代人が具体的にどのようなカミ概念を持っていて、どのような宗教的心情をもって祭祀に臨んだのか、肉眼で出土物を見ただけでは分かりません。
 

サイコメトリーは、魂の眼で過去に時間を遡り、当時の人間の心理状態を、特定の場所に赴いたり、そこにあるモノ、あるいはそこから出土したモノを手がかりにしてかなり詳しい情報を得ることができます。
 

あとは、それが事実だったのかどうかをモノから入る考古学的アプローチとすり合わせていくことができるならば、古代人の祭祀と世界観、その心理状態に関する知識をえることができるはずです。

 

実際に、海外ではこのようなアプローチも試みられています。
 

 

結論を言えば、この遺跡は私たちにとって直接の関係の薄い場所でした。

 

私たちは、出雲と北部九州を結ぶラインに注目しています。

 

特に2世紀後半~3世紀中頃までの西日本における部族単位の離合集散の様子を知るための手がかりとして、この地を訪れたことになります。

 

なぜこの地に足を運んだのか、最初はよく分かりませんでした。

 

しかし、古代日本の連合王国=UKJ(United Kingdom of Japan)につながる場所の一つが、この遺跡だったことに後になって気がついた次第です。

 

 

 


参考文献


(1)近藤義郎「楯築遺跡」(山陽新聞社、1980年)
(2)近藤義郎「前方後円墳と吉備・大和」(吉備人出版、1988年)



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