皆さま
以前、当ブログでは憑き物信仰について論じましたが、これを精神医学の観点から見たときには「病的な状態」であり、治療の対象になります。
今回は憑き物信仰や憑依状態に対する精神医学的なアプローチと、それがはたして病的な状態であると断定できるのかという点について考えます。
よろしくお付き合いくださいませ。
祈祷性精神病は、日本の精神科医である森田正馬によって命名された精神病の一種です。
この病気は、迷信、まじない、祈祷や宗教的要因などによって引き起こされる精神障害であって、人格変換、宗教妄想、憑依妄想などを発し、自己暗示性の精神異常とされています。
以下は祈祷性精神病についての特徴や実例です。
1.祈祷性精神病⇒感動をもとにして起こる一種の自己暗示性の精神異常。患者は、憑依、神罰、神仏の思いが感じられるなどの迷信を抱き、祈祷もしくは類似した原因をきっかけに症状が発現します。
2.病態⇒錯乱状態、混迷状態、人格変容状態の3つに分類されます。
3.実例⇒祈祷師に「これは憑き物だ」と告げられて、祈祷をすることによって発症する事例が多いです。治癒後、祈祷に懲りる人もいるとされています。
4.発症の要因⇒宗教の過信が原因の一つであり、異常なまでの信仰の仕方によると考えられています。教育を受けていない40歳以上の女性に多く見られ、自信家で強情な性格の傾向があるとされています。
5.日本国内⇒東北地方の恐山のイタコや、沖縄県のユタのカミダーリなどに見られる現象としても知られています。また、アイヌのイムという特殊な精神状態や、四国を中心とする犬神憑きなどの憑依現象も、祈祷性精神病と関連があると考えられています。
6.他の文化圏⇒祈祷性精神病に類似する現象は、他の文化にも存在します。例えば、西欧の精神医学においては、霊媒性精神病(mediumistische Psychose)という概念があります。これは、1919年にヘンネベルグによって提唱されたもので、病的素質を持つ人が霊媒活動に熱心に取り組むことで発症するとされています。また、カトリック文化圏では悪魔憑きと悪魔祓い(跋魔)に関する現象、儀礼があります。
これらの現象は、意識変容や文化との関係が深く、祈祷性精神病の成立プロセスや変遷を理解する上で重要な要素です。
以上をまとめるなら、祈祷性精神病は、呪術的観念や思考が支配するシャーマン文化に由来する名称であり、神がかりや憑きものといった用語も精神医学的には同様の概念内容を持つとされています。
精神病的兆候と神秘体験
このように、精神医学の立場からみると、宗教に関わる憑依、憑霊というものは病的な状態であって、宗教団体の教祖、霊媒師、祈祷師も、病的状態になっている可能性があって、迷信深い人たちに憑依という名の病気を増長させているということになるわけです。
でも、そういうことを言い始めると、歴史上の有名な預言者や宗教指導者もことごとく「アブナイ人」になってしまいますけど?
神の言葉=預言、深い瞑想やトランス状態で得られた「啓示」が元になっているなら、お釈迦様も、イエス・キリストも、ムハンマドも錯乱状態にあったことになります。
この点について、ルコフは精神病的兆候を伴った神秘体験(mystical experience with psychotic features : MEPF)を精神病的エピソードと区別するための診断基準の提案を行っています。
参考文献:Lukoff,D. 1985 The diagnosis of mystical experiences with psychotic features. Journal of Transpersonal Psychology, 17, 155-181.
まず区別されなければならないのは、ある人が精神病的状態にあるのかどうかをどのようにして決定するかです。
精神病者は自分の主張が空想や思いこみから来ていることを自覚しておらず、大げさに体験を脚色したがる傾向があります。
これに対し、精神病的ではない人は自分の体験がおかしい、ふつうではないことをはっきりと認めます。
さらに重要なことは、精神病者が自分の体験を他の人々との間で共有することが難しいことです。
私たちが経験し、認識している世界を他の人々と共有しており、私たちは一つの共通した世界の中で生きているのだという実感を精神病者の場合は確立できません。それに、精神病者の語る体験は基本的に意味不明であり、支離滅裂です。
また、その人が日常的な常識レベルの意識や行動を操作する能力を持っているかどうかも重要な着眼点になります。
日常的で常識的な課題を処理することができない場合や、他者と体験の共有ができず、孤立した生活を送るような場合には、精神病的特徴が見られます。
これに対して、神秘体験の場合にはどのような特徴が認められるのでしょうか?
神秘体験とは、神、宇宙、絶対者などと呼ばれる”自己よりも偉大なもの”との接触あるいは一体化を意味する体験です。
神秘体験には以下のような特徴が存在します。これらの5つの特徴がすべて存在するとき、ルコフの基準では精神病的特徴を伴う神秘体験(MEPF)と診断され、一般の精神病とは区別されるのです。
①恍惚とした気分…気分の高揚。新たな生,もう一つの世界,喜び,救い,完全,満足,光輝に満ちたフィーリング。
②新しく獲得された知識の感覚…知的理解の高揚及び人生の神秘が解き明かされたという信念。
③知覚の変容…高ぶった感覚,視覚的聴覚的幻覚。光に包まれた感じ。天使の姿を見る、イエス・キリストの声を聞くなど宗教的内容を伴う幻覚。
④幻想に神話と関連したテーマが含まれる…神秘体験の内容には時代や文化を通じて多様性がある。しかし,表面的には多様化し特殊なアイデンティティや信念の背後には,テーマ的な類似性が認められるのであり,精神病的とされるエピソードにも肯定的で成長的な結果をもたらす神話的テーマもある。
⑤概念的混乱が存在しないこと…精神病的な人には認知能力に欠陥があり,そのことによって基本的思考プロセスに困難が生じている。集中できない,考えがまとまらない,外界の認識に歪みが生じるなどの兆候は,精神病的エピソードに属する。逆を言えばMEPFにはそのような混乱が生じていない。
精神病理学的兆候と霊的危機との違いを明確にする基準について、さらに研究の積み重ねが必要です。
宗教という<病>
宗教が原因で精神を病む、宗教病というような精神医学のアプローチは、明治以来の淫祠邪教と迷信打破の時代背景もあったのでしょうが、日本独自の研究の発展もあったようです。
宗教体験は精神的変調だと誤解されがちですが、精神的に大きく変調をきたしたときに「精神的救済」を求めるあり方だと考えた方がいいと思います。
なので、宗教にはまると病者になるといった認識の方を改めるべきだと考えます。
一部の破壊的カルトのようなケースでは、確かに病む人も出てきます。この点には注意も必要でしょう。
祈祷性精神病の概念を提唱した森田生馬は高知県出身で、高知県と言えば「犬神信仰」の強かった地域です。
この森田が概念化した祈祷性精神病の展開と広がりを追った最近の著作があったので、念のために読んでみました。
参考文献 大宮司 信 2022 祈祷性精神病 憑依研究の成立と展開 日本評論社
これによれば、高知県の民間祈祷師へのインタビューなどフィールド調査もされていますが、やはりというべきか、突っ込んだ内容の情報が得られていないように感じました。
巫師の世界をフィールドにされている研究者の方には申し訳ありませんが、祈祷師の実際の活動について深く教える事などしません。当たり障りのない情報や、見せても不利益を被らないレベルのことしか知らせないのです。
よって「ガセネタ」をお持ち帰りすることになります。
概念の整理
ここでもう一度、森田正馬による祈祷性精神病の定義を検討してみます。
1.神がかり……神霊その他霊的存在が人身にのりうつること。神懸り、神憑りとも表記される。
2.何が乗り移るのか……神霊・死霊・祖霊・精霊・生霊・動物霊・妖怪など
3.トランス状態を伴う……神がかりでは、多少のトランス状態に入る(そのレベルはケースによってまちまち)。
トランス状態とは、通常の意識状態ではなくなり、魂が抜けたような状態になったり、別人の魂が入り込んだようになったりする状態のことです。
意識が他の何かに乗っ取られたような状態。その結果、その霊的存在の影響で言葉を発したり、行動したりするようになります。
神がかりと憑依の違い
1.憑依(possession)……人、事物、自然物などに対する霊的存在が転移すること
2.神がかり……その転移は人への乗り移りに限定される
さらに神がかりには意図性の問題があります。
1つは、意図的・自発的に神がかり状態となり、霊的存在と人間との媒介者として、託宣・予言・治病行為をおこなう巫者・巫女などシャーマンが行うものです。
もう1つは、突発的、あるいは徐々にある人物に霊的存在がのりうつり、その人物が正気を失ったようにトランス状態でふるまうことです。
この場合、シャーマンなどにより霊を祓い「正常な状態」に戻す宗教行為が祈祷になります。
祈祷性精神病の概念に対する反論
祈祷性精神病は、もの憑き(犬神、人狐、生き霊、死霊などの憑依)、神罰、祟りなどに関する迷信をもっていて、占い、まじない、信心、祈祷などにはまっていくうちに、偶然の事件、異様な体験、あるいは祈祷師による暗示などをきっかけに急激に起こることが多いとされています。
これについて反論するなら、祈祷行為は、既に非意図的神がかりになっている人物に対し、シャーマン的資質を持っている祈祷者が除霊、浄霊を行うことにより通常の意識状態に戻し、神がかり状態を解除するものです。
祈祷者によって神がかり状態が激化するというのは祈祷=祓い清めとは言えません。
それはむしろ催眠状態へ誘導など別の心理的刺激を与えているようなケースで起こりうるのではないでしょうか。
あたかも祈祷によって神がかりが激化し、妄想を悪化させるという前提に立って祈祷性精神病の概念は構築されています。
祈祷行為が精神疾患の引き金になるかのような捉え方自体に、精神医学者の祈祷そのものに対する偏見が含まれているとさえ言えます。
次に、催眠・暗示と超常現象としての念力(ここでは祈祷、ヒーリング)を区別するならば、前者はお互いが対面している状況で、言葉や感覚的刺激を媒介してイメージを活性化していくプロセスです。
これに対し、後者は念じる対象が自分以外の相手でも、そして距離的に離れており、遮断された場所にいる相手に対しても、影響を及ぼすことができるプロセスを含んでいます。
これについては「祈りの力」シリーズで述べているように、非対面的な状況で、言語的、非言語的な手がかりを与えず、誰が誰に対して祈っているのかも分からない条件下で、祈りの対象となった相手の病状が軽快したというデータがあります。
それに、私たちが実施している祈祷の場合でいえば、全て遠隔祈祷であり、非対面的状況により暗示の付け入る余地もありません。
何月何日の何時何分から祈祷を始めます、という手がかりさえも与えません。このような「祈祷」の場合、暗示による影響は少なくなると言えます。
逆を言うと、大広間などに大勢の人を入れて、祈祷師が集団に対して加持祈祷を行うとすると、祈祷師も祝詞や真言などの言語的刺激を相談者に与え、祈りを捧げることによって、イメージを喚起させ、相談者に神仏の救済力が働いていることを「暗示」することになります。
このような場面では、多くの人に痙攣や呼吸困難などの身体症状、または興奮や恍惚状態などの精神症状が「伝染」してしまう可能性も高まります。
通常は感情や関心、利害の共通であるクラスメート、寮仲間、宗教団体などの親密な関係を持つ小集団内で発生します。この現象は「集団ヒステリー」「集団パニック」とも呼ばれます。
こうした状況ならともかく、遠隔で非対面的な状況で行われる祈祷が、「病状」を悪化させるというのは通常は起こりません。
むしろ、「癒やす」ために行われているわけですから、祈祷をしたら調子が悪くなること自体が起こりにくいのです。ただし、祈祷者の資質・能力の不足によって「悪化」の方向へ誘導してしまう可能性はあります。
いずれにしても、祈祷性精神病の概念は今から100年以上も前に提案されたものですから、現代における「癒やし」の場面に適用するには時代遅れのそしりは免れません。
また、西洋の精神医学を導入することによる日本人の迷信打倒という大目標があったにしても、伝統霊性に対する敬意のかけらさえもないというのは容認しかねます。
そもそも伝統的な霊性に対する謙虚さがないのです。
日本の伝統霊性を再検討するならば、神祇信仰以来のシャーマニズムの影響は否定できず、そこには憑依現象を前提とした巫者と被術者との関係性の特徴があります。
憑依解除の図
それは対面的状況で行われることが基本でしょうが、非対面状況もあります。そのような状況であっても他者の心身の状態を変化させることは可能です。
日本の歴史における託宣神、ご神託、そしてシャーマニズムは、古代から中世にかけて重要な役割を果たしました。これらの概念は、日本の宗教や文化において霊的な指導や啓示を提供し、政治や社会の様々な側面に影響を与えました。
託宣神は、神の意志や啓示を伝える存在として信じられていました。彼らは神聖な存在として崇められ、国家や地域の指導者たちからの助言や指示を通じて社会に影響を与えました。託宣神はしばしば神社や寺院で崇拝され、祭りや祈りの儀式の中でその存在が称えられました。
ご神託は、神の意志や啓示が神聖な場所や人々を通じて伝えられる現象を指します。これは神聖な山や泉、神社などで起こることが多く、特に古代の日本では皇室や貴族階級、武士などの指導者たちが重要な意思決定を行う際に重要な役割を果たしました。ご神託は、神の意志を直接知る手段として崇められ、政治的な決定や戦争の計画に影響を与えました。
こうした日本の伝統霊性に関する深い理解がない限り、研究の進展はありません。
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