皆さま
自分を深く内省して、その思考や感情の流れを観察し、自分自身を客観的に見つめ直すことは心身のリラクゼーション、ひいては健康回復の手段として古来より行われてきた手法です。
今回は自分の内側と外側の認識を調整すること、自力と他力のバランスの問題について見ていきます。よろしくお付き合いくださいませ。
Q.自分自身を変える方法はありますか?
A.まず自分にとって心地よくなる場所とか安らげる人など、人、場所、物に対して安らぎ、心地よさを感じられるものを日頃から見つけておくといいでしょう。自分が変わることによって、周りも変わるということもあります。それは内界と外界がつながっているからで、シンクロニシティーという考え方にも通じますけれどもね。
もう一つは、これは心理学に関係することですが、すべての問題の根本原因は自分の内面にある、個人の内面に原因があるという考え方です。
とはいっても、実は社会なり環境に問題があるというケースもあるわけですから、すべての問題を自分で抱え込まないことです。自分のせいにして自虐的になる必要はありません。
ただ、多少なりとも内省的になるというか、自分を振り返ってみるとか、自分にどこか問題がなかったかということを常に反省する態度は必要だと思います。そういう意味で自分が変わるということです。それは前にも述べた、人のせいにばかりにするということの逆です。
もうひとつ自分を省みる方法に「内観」があります。
内観はもともと禅宗や浄土真宗にもあったものですが、今、それをなるべく科学的に説明しようという方向にいっています。
これは自己客体視の方法です。
自己を客観的に観察すればするほどすごい自己嫌悪に陥って、へこむのです。しかし、それを超えるとすっきりすします。自己嫌悪に陥った後、今度はあるがままの自分を受けとめるわけです。あるがままの自分を受け入れるということは本当につらいことです。でも向き合わなければいけない。それを乗り越えなければ目的は達成されません。
心理療法全体が「内観」とか「内省」に基づいているもので、仏教のアプローチとの一致点もあります。
Q.努力する部分と祈りに任せる部分とをどういうバランスで考えたらいいのですか?
A.基本的には努力が九割でしょう。最近のスピリチュアルの中には、起こっている出来事を自分の都合のいいように考えて、あまり努力しないで、楽をして人生を楽しもうという傾向にありますが、私たちが実際に経験するほとんどの現実はその逆でしょうね。そんなに都合よくというわけにはいきません。現実を直視しないのは、一種の逃避あるいは否認です。
ほとんどが内面的なものであって、それが力になって努力するとか、行動するということになり、それで自分の周囲の環境が変わっていくわけですから、自分が何もしないで周りが勝手に変わるわけはありません。そこには思考が行動を変え、行動することによって状況を打開していくという明確なプロセスがあります。
ですから、祈りの実践も努力の上にあるわけです。なにもしないで、放っておいてどうにかなるのだったら、すでに誰でもどうにかなっているはずなのですから。
楽をしていいことを望んでも、それはほとんどランダムにしか起こらないでしょう。なぜならば、それでは眷属、神との一体感が身についていないからです。
問題は、自分に都合のいい利益ばかりを追求していてどういうふうに返ってくるかですね。それは前にお話したカルマの問題ともつながってきます。
他人(ひと)にとっても利益になっているならば、利益を追求すること自体はまったく否定されるものではありません。しかし、他人の利益を侵害するようなものだと、因果応報でそれがまた自分にも返ってきます。たとえ現世でそれでうまくいっていたとしても、それがまた子孫とか、来世とかにつながる可能性はあります。
この世には動かしがたい作用、反作用の法則がありますから、自分にとっての利益が人にとっての利益にもなっているかどうかを考えたらいいと思います。利益が共有化されているかどうかです。そこを理解していることが鍵だと思います。
Q.祈りのときに人をおとしめるような祈りとか、ライバルに勝つためといった祈りではいけないということですか?
A.祈りは人と比べない絶対評価です。ライバルに勝つためとか、人を不幸にしたいというのは呪詛、呪いです。
しかし、以前にも述べたように、呪いでももちろん結果は出ますので、そういうやり方で拝めば、希望どおりにライバルを倒すことができる場合もあります。ただし、必ず見返りは求められますし、自分も無傷ではいられませんよ。
そうではなく、祈りはなるべく「売り上げをどれくらいの会社にしたい」とか「会社がよくなるように」というような、そういう目的に昇華させた方がいいわけです。それで心地よくなるように昇華させる。それで自分自身の感情が浄化できるような祈りだといいですね。あとに残るようなダークな祈りというのもありますが、それは後味の悪い祈りです。
それをわかっていながら、どうして一部の巫師が呪詛をやるのかという問題ですが、人格的に問題を持っている人が多いのではないかと思います。基本的に嫉妬心が非常に強いとか、そうしたマイナス感情が一つの力になっているわけですね。
「意識場」というのは感情的なエネルギーが中心なのです。嫉妬心も感情的エネルギーですから。嫉妬心が強いとそれだけでその意識場はすごいパワーになります。
感情の“エネルギー量”は“善悪”とはまた別の尺度ですから、意識場には強くて建設的なエネルギーもありますが、同時に、強くて破壊をもたらすエネルギーもあります。呪詛をやる巫師にとって、ものごとの善悪などは関係ないのでしょう。
人格的な発達を伴わない霊的覚醒というのは、いってみれば「魔の道」です。
つまり何のためにそういった道に入っているか。自分が向上したいというのはもちろんあっていいし、超越したい、大いなるものと一体化したい、というような動機で修行に入るのはかまわないのです。しかしもう一つ考えておかなければいけないことは、社会性とか、協調性とか、その次元の問題で、人に対して共感的になれるとか、人とのつながり、社会的な貢献、そういった部分の意識があるかないかで「魔の道」に入るかどうかは分かれると思います。
長い目で見ると、短期的な利益追求だけでやっていると、それ以上の不幸を背負うことになるということはいえるわけです。それは現世に限らず、生まれ変わっていく中で必ずどこかでしわ寄せがきますから、また祓わなければならなくなります。
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