皆さま

 

私たち巫師の元を訪ねていらっしゃる人は深刻で重い相談が多いです。生きている人同士の争いはもちろんのこと、亡くなった人との関係性について考えさせられるケースが最近は多いです。

 

今のご時世、死者の意向や感情をおもんばかることもなく暮らしている人がほとんどでしょうが、魂が肉体の死後、転生するまでのプロセスについて理解しておかないと、いざ自分が亡くなったとき、遺した家族からどのような扱いを受けるか、子孫もいない場合、自分の遺志をどう伝えるかという問題に直面することになります。

 

誰も取り合ってくれないとなると、生きている人間に対する影響も出てきます。

 

 

今回は、死者の残留思念に関する問題を中心に、死者とどのように向き合うかについてお話しいたします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。



Q.場所柄というのはやはり大事なのでしょうか?

A.住宅街や商店街の真ん中に葬儀場を建てるという話が持ち上がり、地元住民が反対して、葬儀会社とトラブルになっているといったケースがありますね。これは私たち巫師の感覚でいうことですが、そうした“死のケガレ”にかかわる建物を建てる場合は、場所を考えた方がいいですね。霊がそこに集まってきますから、特に商店街のような多くの人が買い物をするよう場所はやめたほうがいいです。


霊の中にはイタズラするのがいたりしますから、そのことと関係のないと思えるような事件や事故が起きたりして、周辺に影響を及ぼします。葬儀場があるところには、大抵幽霊などが出ますからね。だから、葬儀会社もその印象を薄めようと、葬儀ホールとかセレモニーホールなどと名前を変えていますが、変えても、結局そこに死者の想念が集まってきます。

そこでお葬式をやるわけですから、亡くなった人の中には、まだそこに留まっている人が結構いたりします。そういう亡くなった人たちの溜まり場になるのですね。そうすると、普段生活している人と同じ感覚で、その辺をウロウロしますので、周辺が寂れるとか、悪いものが憑くとか、商店街自体に人が寄りつかなくなると思います。

 



最近なくなったと思われる死者がスーパーマーケットの駐車場にたむろしていたり、ベンチに座っていたりもしますし。新仏ほど非常に鮮明な姿で現れます。

 


今の社会を見ても家族に虐げられた高齢者も多いですし、施設でなくなったり、誰に看取られることもなく孤独のままになくなるケースもあります。当然、怒りとか、悲しみとか、後悔とか、つらいとか、そういう気持ちを持っている意識が残留します。そういう場合、その残留思念が土地に浸透するという形になりますから、必ず周囲に影響を及ぼします。無縁仏になるのです。

どう影響するのかといいますと、人とのトラブルとか、つらい、悲しいと抑うつ的になるとか、人と付き合いたくなくなるなど、人が寄りつかなくなる影響です。もしも商売をやっている場所であるならば、お客様の数が減るなどするのではないでしょうか。どうしても、そういうところには孤独感、悲嘆などネガティブな意識が集まってしまうのです。いずれにしても、その周辺の気のエネルギーは低くなりますね。

だから単純に物理的にそこに葬儀社の看板があるから気分がよくないというだけではない、実際に見えない世界の動きと重なってしまっているのです。

それはどんなにカモフラージュしてあまり目立たないようにしてみても、見えない世界のことですから防ぎようがないのです。

「ハレとケ」とか、昔からいってきたものを大事にしなければだめですね。

それは法律の問題でもないし規制が難しいでしょうが、そこはやはり区別した方がいいと思います。そこを何でもありにしてしまうと、目に見えない次元での混乱が生じるのではないかと思います。


Q.日々の祈りの実践で、「よい解決が得られた」とか「よい方向へ展開した」というような例がありますか?

A.毎年、お彼岸の時期になると、いつも左腕が腫れて膿んでくるという人がいました。それを霊的な目で見たときに、その人の母方の先祖が訴えているという事例ありました。それは先祖がその人を非常に頼って訴えて出てきているということで、この場合、もちろん祈祷をしてお祓いしました。しかし、よく調べてみると、この人は全く墓参りを怠っていて、墓がどこにあるかもわからない状態でしたからほとんど無縁仏になっていましたが、見つかってから墓参りをするようになったのです。


さらに普段の生活の中でも、家の中でお茶やお水を置き、簡易ものでもいいですから仏壇をしつらえて、亡くなった母方の先祖のことを意識して手を合わせて拝むように習慣づけたのです。そうすると、やがて腫れが出てこなくなったというケースはあります。

このような依頼は、憑いた、憑かれたといったものが多いです。前向きなものよりも、祓う方が多いのです。そちらのほうが切実だからでしょう。

また、ネガティブなお願いが多いのも現実です。たとえば残念なことに、夫を出世させたいといった願いはありません。むしろ殺してほしいというほうが多いです。もちろん即座にお断りしますが。

憑かれた実例として、飲食店の経営者の話があります。遊びに行って、そこで溺死した女性の霊を連れて帰ったのです。

はじめは自宅のソファーがいつも水浸しになる。その後、自分が経営している飲食店の中でもラップ音が始まる。そのうち、店の中のコップが飛んだり、皿が飛んで落ちて割れるとか、いわゆるポルターガイストが起きたのです。

この例では、まずお店の祓いをしました。溺死した女性の霊体を説得するというような形になりますから、一度ではなかなか祓いきれませんでした。

その後に御札(おふだ)などでシールド(結界)をあちこち貼るという作業もやりました。そこで鎮まりました。憑いているものを外すことができたわけです。



Q.仏教でいう因果応報というのはありますか?
 
あります。自分のやったことは必ず戻ってきます。それは天に向かってつばをするというものも入ってくるし、何かの行動を起こせば、それに対して必ず反応は返ってきます。それは実際やっていてすごく感じます。自分個人がやってきたことが返ってくるということもあるし、先祖の因縁というものもあります。


 

祈祷の現場でも、こうしたことをよく実感します。たとえば、本人がやったことでも何でもない。ただ、先祖が勝手にやった行いといったものが子孫に反映されてしまって障害になっているというケースもあります。

それを解消するには、それを受け入れてから変えるということをこちらが請け負うわけです。なってしまったことを変えるためには、それなりに覚悟をしなければならない部分もありますが、罪をたくさんなしたという先祖の因縁といったことで受け入れるのです。これにもいろいろなケースがあります。

私がかかわったことのあるケースでは、ある相談者の男性が希死念慮(自殺念慮)が強く、何度も自殺未遂を遂げたのですが、その方の家系を調べていくと、何人も男性が自殺をしていて、その大元をたどってみたら、曾祖父が大地主で農地を貸していた人々を苦しめていたことがわかったんです。

 

つまり、多くの人々の生活を脅かし、中には生活苦で一家心中に追い込まれた人もいたようです。そういう人の恨みが、家系にも災いして、一族から自殺者を出し、家系を絶やそうという力となって働いていたのです。

 

このような場合、まず当の相談者の希死念慮をどうにかしようと考えるのではなく、その根本的な原因になっている「人の恨み」から解消していく必要があるわけですね。

 

相談者本人には直接関係のないことですが、曾祖父の行いが家のカルマになっているわけなので、その時代に買った恨みを、亡くなった人との対話の中で緩和していく作業をするわけなのです。



Q.先祖の因縁話としては、先祖に武士がいて人を斬った因果が子孫に影響しているといった話が多いようですが?

A.それをいわれると、かつてはみんな<ヤっている>わけですよ。そうした話をするとみんな納得しますから。でも、何百代前の先祖の因縁はもう関係ないのですよ。子孫に影響を及ぼす因縁は、直近といいますか、新しいものしか残りません。せいぜい二~三代前のものです。それ以上前になると、子孫の数そのものも膨大な数になっていますからね。


ですから、祖父があくどい手口で人をだますようにして商売を拡張していった因果がマイナスに働いたくらいはありますが、その原因が何百年前の先祖が人を斬ったから祟っているのだというのはおかしいと思います。そんな古いものは出てきません。

因果が出てくるのは、せいぜい明治とか大正、この100年の間くらいの先祖のものです。古い先祖はほとんど影響しません。直近の先祖ほど影響は強いです。

非物質的な存在といっても、魂そのものは転生していきますから、土地や場所に残るのは残留思念です。

 

もっと古いものになると、宇宙大の意識の所蔵庫、神智学やエドガー・ケイシーの広めたアカシックレコードの概念のように情報として検知することはあっても、目の前に人の姿をした霊が現れて、生きている人の心身に影響を及ぼすような形式にはなりませんね。大昔の出来事を、その土地に行ったときに映像のように眺めることはあります。



Q.直近の先祖の因果の場合は、祈祷で経文やなんかによって祓うわけですか?

A.その場合は、迷っている先祖が障害になっているわけですから、その先祖と対話をします。たとえば、自殺した人がいますと、その霊が自分の気持ちをわかってほしいということで子孫に対して訴えるために憑いているような場合があります。そういう場合には確実に子孫に影響が来ます。


それを解決するためには、こちらが亡くなった人と対話しなければいけないのですが、それが死者の霊の中で一番厄介なのです。自分で命を絶った人というのは、こちらの説明になかなか納得しないのです。自分から煙幕を張っていて、霊的に引きこもり状態にあります。死の瞬間の意識のままフリーズしてしまっているのです。

病気である程度納得して亡くなった人など、自分で自分の死を自覚し、納得している人はすぐにいなくなりますが、自殺した人は憑依してなかなか離れません。これだけは経験則でいう宇宙の法則ですね。逃れようがありません。

ただ、世間でよくいわれている水子の祟りはあり得ないです。そもそも水子はこの世に生まれ落ちなかったもので意識を持ってはいませんから、多くの場合、そのままの状態でもとに帰るわけです。だからそれが祟ることはあり得ないです。

ただし生まれ落ちて、意識を持ったものは残る可能性はあります。生まれ落ちたばかりの子どもの命を奪ってしまったというような場合です。

Q.そういう場合は納得してもらって成仏させることによって解決されるのでしょうけれども、たとえば先祖がかなり悪いことをした報いといったことはどう防げばいいですか?

A.それをやるためには神仏の力が必要です。人がやったことを解決するには、人を超えた力を使わないと解決できません。だから、先祖がやった霊的な負債を解消するには、人を超えた力を使います。


その力はまず眷属。それも、ちゃんとそれをうまくやってくれるような強い眷属でないと無理です。それはある程度“取引”するわけです。ただ、それは一朝一夕には解決できません。先祖の罪がいっぱい積み重なって祟っているとかというようなものがあるとするならば、それを一日や二日で変えるということは、まずできません。場合によっては何年もかかりますよ。

根本的に祟られている子孫の考え方を変えないと解決できません。でも、大抵、そういう人の場合は、自分の身に起こっている出来事の原因を周りの人のせいにしてしまっていますから、それを自分のこととして受けとめられるかどうかなんですよ。その上で、神にすがるということをしないと、なかなか解決しません。結果が出るまでの時間がかかります。その間、やっぱり苦しいです。それでも何とかしたいと思い続けるかどうかですが、非常に難しいです。依頼する側も、それを承る側も覚悟が必要です。

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