皆さま

 

 

加持祈祷に関わっている者の立場から見て、神と仏、神と人を繋ぐ者の世界、死と死後の問題、人と自然との関係などについてどのようにとらえているのか、世間にはあまり知られていない事柄がたくさんあると思います。
 

そこで、巫師の一族の世界がどのようなものなのかについて、わかりやすく解説するためにQ&A形式で披露したいと思います。

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

巫師の祀る神々 

 

 

Q.巫師の世界の神とは、どういうものをいうのでしょうか。


A.これには系列がいろいろありまして、密教系は不動明王などを祀っている人が多いです。神道系は、自分がかかわっている神社との絡みがあります。私たちの場合は、秦氏の祀った神々となります。

巫師が神と思っているものには、場合によっては動物霊だったりもしますから、いわゆる神道で祀っている天照大神(あまてらすおおみかみ)のような神をそのまま拝んでいるとは限りません。土着の神というものを拝んでいる場合もあります。

例えば四国では、犬神信仰があります。「犬神筋」と呼ばれる家の系列の人たちの中では、守護神といえば犬神なんですね。だから民俗信仰の中の神。それを神として拝みます。

神は、外よりも心の中にあると考えた方がいいと思います。ただし、心の中にあるもので内側にもあるけれども、外側にも広がっているものです。

外側の中に自分も入っているわけですから、大きなものの中に自分がいて、自分の内側にも外側にも広がっているというものです。

神と呼ばれるもの宇宙そのもので、私たちはその宇宙を構成している1つの点にすぎません。だから、神は自分の中にも外にもあるといえるのです。

しかも宇宙的なスケールの時間の中では、私たちは一瞬のあぶくのような存在に過ぎません。とてもはかない存在です。でも、そのあぶくのような存在であっても、今ここに生きて「ある」ということは、かけがえのないことですし、命あるものは、必ずその与えられた命を一生懸命に生き抜くことが求められていると思います。

一瞬の間のはかない命ではあるけれども、だれもが生まれてきたことには意味があります。神の懐の中に私たちは生きているわけですから、それを大切に自覚しながら生きていくことなのです。そう言う意味で、自分や他人の命はもちろんのこと、動物や植物、地球さえも生きているわけですから、神を信仰する立場からは、決して命は粗末にできないものだと思うわけです。
 
普通、「神」というとキリスト教などの一神教の神のイメージが今では強いようです。でも、一神教の神はゴッドだけですが、巫師の神は基本的には八百万(やおよろず)の神で、それぞれにいろいろな役割があります。そしてそれぞれの特性が全部違いますので、何のために、どういう祈祷をかけるかといった祈祷の用途、目的によっても使う神は違ってきます。

ですから私たちの世界は、本当に多神教といえるわけで、目的のために使えるものならばすべて神として認める。唯一絶対的な神というものはありません。

神道でも、一番位が高い神は天照大神。さらに万物を創造した神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ということになるわけですけれども、巫師の神は階級化されたり、統合化されるというイメージはありません。そういう系統立った神の系列というのは持たないです。

巫師の世界の神々は、本当にその地域に代々信仰されてきた土地の神々です。国津神といってもいいでしょう。

ですから、巫師はたとえば形の上で天照大神を崇めるということはありますが、しかし、それを自分たちの神として崇めることはありません。

その背景には、基本には「魂は万物に宿っている」というアニミズムの発想があります。この世の動物、植物、鉱物などすべてのもの一つ一つに魂があり、神が宿っていると考えます。そして、それぞれの魂同士は全部つながっている、そういう世界です。実際、人々の心の中に生きていて現世のいろいろなことに影響している神は、国津神や八百万の神々だからといってもいいかもしれません。

祈りの現場で、相談を受けた場合、「こういう悩みを解決するときにはこの神を」というように神々を使い分けます。特に巫師の世界でやっていることというのは、神そのものと交信して何かを解決していくというよりは、眷属とか式神とか呼ばれる、人と神の中間にあるもの、つまり、それらの非人称的意識場との交流がメインになります。

なぜかというと、眷属とか式神といっているものは、ある意味、人間が作り出したイメージ体なのです。そういうもののほうが個別具体的な要求に応えやすく、願望を実現する効果があります。神そのものは宇宙そのものなので、それはただあるだけのものであって、何かをしてくれるというものではありません。

だから、神はただ感謝したりありがたいと思う存在であって、願い事をするのは筋違いなのです。要求に応えるのは、眷属とか式神です。

平安時代の中期に活躍したとされる陰陽師の安倍晴明も有名な式神を使っていました。そういうものが具体的な要求に応えてくれる効果があるということです。

Q.欧米などのように一神教の世界だと、眷属とか式神のような中間の存在がないようですが。それは出発点が違うのでしょうか。どうちがうのでしょうか。天使などはそうしたものとはいえないでしょうか。

A.あえて言えば、天使といったイメージを持つものも広い意味での「神のお使い」になるのかもしれませんが、日本的な霊性の視点に立てば、動物など昔、人々が生活の中でよく見かけたものを自然という神のお使い=眷属と考えたわけですから、やはりキリスト教で言う天使のような存在とは質が違います。

ブラジルやフィリピンなどにも、アニミズム的な巫師がいますが、あの人たちの依代(よりしろ)もやっぱりマリア様とかミカエルとかでキリスト教にかぶせていますね。

あれも結局は精霊です。森の中にいるようなアニミズム的な精霊。精霊信仰とキリスト教が土着の信仰と混ざっていったものです。純粋なといいますか、正統なキリスト教の世界観とまた違うものです。唯一絶対の神とつながっているというものではありません。もっと身近なところにいる神ということです。

 

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