令和5年12月9日
辛丑 五黄 除 柳
信仰と信念
信仰とは、形式や場所にとらわれないことから始まるものです。
いろんな神社にお参りに行った、何かの修行をしたというのも信仰の本筋ではありません。どこにいても、何をしていても、いつも自分の中に神様はいらっしゃると感じること。また自分が神様の中にいるという気持ちで毎日の生活を送ることが信仰だと私は思います。
信仰とは、「私はお経をを何回も唱えました」、「私は何度も神社・寺院に足を運んで祈りました」そういう形式の問題ではありません。神様に対する意識の持ち方、想いの強さで、神様が応えてくださるものであり、こちらからこれだけお供えやお金を出したから何かの結果が出るはずだと期待してするものではありません。
神様以前の問題として、まず自分の努力がどれだけのものなのかによって、神との波長が合い、奇跡なり、結果が出てくるものです。あちらこちらにお参りにいって、自分はこれだけ信仰の努力をしているではないかという人がいらっしゃいますが、それも努力のうちには入りません。
神仏に祈ったから何か起こるだろうというのならば、これほど楽なことはありません。幸せいっぱいの人生をみんなが過ごすことができるようになるはずです。
何かをしたから神様が動かれるのでありません。人間、ギリギリの状態にまで追いつめられて、初めてそれまでの自分の努力の結果が表れ、人生の転機が訪れるようになるのです。
一日の中で、仕事もして、家事もして、育児もして、その後に寝る時間や遊ぶ時間を削って「祈る時間を作る」のが信仰の努力、姿勢です。普通の生活を続けながら、いつでもどこでも神を意識することです。
よく、どこそこの神社・寺院に休日を利用して、あるいは休暇を取ってお参りに行ったから、自分は信心深いのだという人がいますが、これも信仰の本筋から外れています。
いつも通りの生活の中でいつも神様を意識しているのが信仰です。目の前に社や本堂があっても、なくても、どこにいようともいつも神を意識している状態のことです。
では、どのようにすれば神様を意識する習慣ができるのでしょうか?私のやり方はこうです。
1.毎日の感謝(自分の言葉でいいから感謝を表す言葉を見つける)
2.自分の努力(日常生活のすべてにおいて)
3.その日の自分自身の言動に対する反省や内省
4.最後に願い事
これが信仰の優先順位です。
最初の3つが1つでも欠けていると、神様は願い事を受け入れてくださいません。
どこまで習慣づけできるでしょうか。
信仰と言っても、これは個人的な信念を持つという意味です。
特定の神仏をみんなが同時に信じるということではなく、あなたと「崇高な存在」との個人的な関係を作るための信念なら、その信じる対象は何でもいいのです。
私は神様と呼んでいますが、別の言葉に置き換えてもかまわないと思います。
麗月 謹上再拝
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