2011.3.11について、その日にあった出来事を記憶している範囲の中からお話させていただきます。
私はそのとき、末っ子を妊娠4ヶ月でした。地震があったときは今と同じ自宅にいました。14:30頃、幼稚園が終わり帰宅、ほっと一息ついて、3人の子どもたちと一緒に長男の下校を待っていました。こどもたちの好きなテレビをつけながら、みんなでおやつを食べていました。
そのとき、少しずつ家が揺れ始めました。でも、午前から小さな地震が続いていたので、またそんな感じかなと思って揺れがおさまるのをしばらく待っていました。
しかし、揺れはおさまるどころか、どんどん強くなってきたので、私はどうして良いかわらず、不安でいっぱいになりました。
いろいろな物が次々と倒れ床に落ちていく中、リビングにあるテレビ台に置いてあったブラウン菅テレビがドスンと落ちてきて、近くにいた当時4歳の次男がテレビの下敷きになりそうになり
そこで初めてこれはただの地震じゃないと気づき、固まっていた体を動かし、やっと、子どもたちをテレビ近くにあった食卓テーブルの下に潜らせました。
まだまだ凄い揺れが続くので、どんどん物が落ちてきました。どうしようどうしようと思いながら、電子レンジや冷蔵庫が倒れて壊れたらあとから一番大変だと思い、台所に移動し、落下しないように両手で押さえました。
近くにあった、食洗機や食器棚も大きく揺れて落ちて壊れそうだったので、冷蔵庫、電子レンジ、食洗機、食器棚と少しずつ順番に手で押さえていました。それでも手がまわらないので、20リットルの電子レンジはついに落ちました。
食洗機の配水管は外れて水漏れし、シンク近くにあった調味料やシンク上の吊棚に置いてあった3リットルの寸胴鍋や圧力鍋も落ちてきました。
ついに、食器棚から大量の食器やガラスコップが落ちてきて、物凄い音で壊れたので、子どもたちが泣き叫び「おかあさ~ん、お母さ~ん!!」と泣き叫びましたが
「こっち来ちゃダメ!テーブルの下に居なさい!」と怒って私も叫びました。
私も壊れていく食器を見て「あ~あ~」とどうしようもない声で言ってたと思います。
一体いつになったら、この揺れがおさまるの?まだ揺れるわ、と思っていると、電気が消えてついに停電しました。
落ちるものが全て落ちた頃、やっと揺れがおさまりました。
ぐちゃぐちゃになった家の中を見て呆然としながら、全ての部屋を見てまわりました。
本棚の本は全部落ちて、タンスの引き出しも全部空いていました。
壁にかけてあったコートや主人のスーツ、勉強机においてあった辞書、子どもたちの下着が入っているプラスチックの引き出しも全部倒れていました。
パソコンデスクを見たら、この家で一番高価なものであるノートパソコンは無事だったので安心しました。が、画面が開いてあったので、上に置いてあった外付けのHDDが落ちて、パソコンの一部がへこんでいました。
窓が大きな揺れで空いていて、網戸が外れていました。ベランダの物干し竿が落ちていて、プランターの土がひっくり返っていました。
ベランダから隣の家を見たら、やっぱり窓が空いていて、物が落ちていました。
また反対の隣の庭は、コンクリートの塀が崩れて、金属のフェンスが曲がっていました。
近所のお友だちの家(歩いて3分)に2番目の長女(当時6歳)が遊びに行っていたので、迎えにいかなければと思って子どもたちと外に出ようと思いました。
床が壊れたガラスや食器で危なかったので、私は四男(当時1歳)をおんぶしてコートを着て外靴をはき、そのあとすぐに子どもたちにも靴を履かせました。
足の踏み場のない床を子どもの手を繋いでひっぱりながら歩き、やっと玄関までたどり着きました。
地震でドアが歪んで開かないかと心配でしたが、大丈夫で、なんとか外に出ました。
家の前に置いてあった自転車も全部倒れていました。
お友だちの家にいこうと子どもたちと歩いていたら、道の途中でお友だちのお母さんと長女が手を繋いで歩いてきたのですぐに会えました。
「一緒に遊んでいたほかの子は泣いていたけれど、長女ちゃんは泣かないで、ちゃんと私の言うことをきいておりこうさんにできていたのよ、大丈夫だったよ、心配したでしょう?ごめんなさいね」
と、彼女が悪いわけでもないのに、謝ってくれました。
「他のお友だちとお母さんはどうしているの?」と私が聞いたら、「とりあえず、怪我もなく皆無事ですよ」と答えてくれました。
「家の中はどうなっているの?」と、さらに私が聞いたら、「食器が割れてすごいことになってる」と言っていました。
アパートの敷地に戻ると同じアパートの住人の方も皆外に出てきていたので、「大丈夫でしたか?」と普段はほとんど顔を会わせることのない近所の方とお話しました。
隣の部屋の方が、相馬の出身の方だとお話していたので、携帯電話のワンセグで小名浜や相馬の津波の情報を話してくれました。そこで初めて、私はこの地震が宮城県だけのものではないということを知りました。
まだ余震が続いていたので、余震が起こると話が中断したりして、お互いに自己紹介を兼ねて家の中がどうなっているかを話ました。
揺れがおさまって、大粒の雪が降ってきました。
会社にいる主人からメールがあって、お互いの無事を確認しました。「すぐに風呂に水を溜めて」と言われたので、家の中に入って風呂に水を溜めました。
地震発生から30分ほど経った頃、近所に住んでいる小学校のお母さんが私のところにきて
「小学校にお兄ちゃん(長男、当時2年生)を迎えにいかないとダメですよ。本当はうちで引き取って車で一緒に帰ってきたかったんだけれど、先生が保護者じゃないとダメだと言っていたので、引き渡してもらえなかったの。ゆりんごさんは赤ちゃんがいるから、本当ならうちの車に一緒に乗って連れて行きたいけれど、停電で信号が止まって道路の渋滞がひどいから、申し訳ないんだけれど、歩いて迎えにいってね。ではまたね。」
と、お話して、すぐに帰っていきました。
そこで長男を小学校まで迎えにいかなければならなかったので、隣の部屋の方に下の子どもたち3人を預けられるかお聞きしました。普段あまりお話したことのない方だったので、預かってもらえるか少し不安もありましたが、私のお願いを受け入れてくれたので、小学校に向かいました。
近くのマンションでは火事があったので、いつもの通学路ではなく、べつの道を歩いていきました。小学校まではいつも歩いて25分かかります。
道路は停電で信号が機能していなかったので、ひどい渋滞になっていました。さらに、雪が積もって道路もびしゃびしゃで、歩道も雪がたくさんありました。
空は3月というのに、真冬みたいな灰色の空でまだまだ雪がやみませんでした。
車は話に聞いていたとおりひどい渋滞でのろのろと車が動いていました。
そういう状況だったので大通りの横断歩道を渡るのに凄く時間がかかりました。
やっと、車通りの少ない通学路に入って同じ小学校の保護者の方とすれ違うようになりました。
校門に入ったら、校庭にはまだ子どもたちや保護者でいっぱいで、クラスごとにわかれて、担任の先生と一緒に保護者が来るのを待っていました。
担任と保護者の顔とサインをひとりひとり確認するために、その順番を待って長い列ができていました。やっと私の版がきて、長男に会えました。
まだ保護者が迎えに来ていない家の子がうちのクラスには5人位いました。
あとで話を聞いたら、保護者を待って一番最後に引き渡しした子どもが帰ったのは20時すぎだったそうです。
小学校で長男を引き取り、帰り道で地震のとき学校ではどうだったかを聞きました。学校は全校で掃除の時間で、長男は自分の教室の前の廊下を掃除していました。学校はその年に新築したばかりだったので、建物自体は何でもありませんでした。
廊下にいたときは先生が「伏せろ」と言ったようで、その場所に姿勢を低くして屈んで揺れがおさまるのを待っていたみたいです。
女の子は泣き出す人もいて、何が起こったかよくわからなかったけれど、先生の指示で避難訓練と同じように、荷物をまとめてすぐ校庭に出たというようなことを話ながら家まで歩きました。
歩いているそのときもまだひどい雪が続いていました。道路は救急車や消防車のサイレンがひっきりなしに聞こえ、止まることはありませんでした。
やっと家に帰って隣の方のところに行って、下の子を引き取りお礼を言いました。アパートの住人の皆さんはアパートの中に戻っていました。
家に入ったら水道が使えるか確認しました、運よく水が出ました。お風呂の浴槽に水を溜めましたが、赤い色をしていてひどく濁っていました。
ガスもプロパンガスも使えるかどうかガスをつけてみたら普通に使えました。
家の中はがれきで危ないので、靴のまま、皆で家の中を歩きました。
主人が帰ってくるまで、停電していてとても寒かったので布団に入っていました。
妊娠していてあまり体調がよくなかったので、学校からかえって家についたらどっと疲れました。
もう夜にさしかかっていましたが、停電していたので、家の真っ暗でしたが、こどもたちがおやつおやつと言うので、手当たり次第に食べ物をあげました。
懐中電灯を探す気力もなく、子どもたちと一緒にふとんの中にいました。
二時間くらいして夕方五時頃主人が帰ってきました。その日はたまたま車で出勤していたので、いつもならバスだったのが、車だったので早く帰ってこれました。
主人のワンセグでニュースを聞きながら、ガスで簡単に加熱できるものを食べて20時頃には子どもと一緒にもう寝た感じでその日は終わりです。
以上でお話は終わりです。