、、、、前回の続き。
□ 第2部(B.C.500-A.D.1500)
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例えば、マクニールの記述が、どれだけ秩序だてて論理的に構成されているかというのが、このアウトライン部分を眺めているととよくわかるでしょ?
今読んでる本は、、、
〈書籍〉 瀧井一博 『伊藤博文』 中公新書、2010 (2010年度サントリー学芸賞 政治・経済部門)
このような歴史の専門書籍に手を出すと、著者によってなされる時代や人間の解釈よりも、そこに引用せられた一次資料、二次資料から読み取れる当時の実相や人間の内面のほうが面白いことが往々にしてある。
以下の読書メモは、したがって、著者の用意してくれたストーリを勝手に逸脱して、自分の都合にあわせてまとめたものだ。この意味において、僕はあまりいい読者ではないだろうけども、いや、それも読書の愉しみのうちか、、、。
それにしても、こんな本格的な歴史関連の本を読むのはどれくらいぶりだろう?
第一章 文明との出会い / 伊藤博文の生誕から岩倉使節団の西欧体験まで
日本の新政府によってなされた明治維新以降の一連の改革に対して、その過程を近代的な国民国家の創出プロセスとして読み解くことは、今や常識となった観がある。この国民国家の創出の意味するところとは、ただ国民国家体制を敷くのにふさわしい新しい制度や組織の創出のみならず、それらが拠って立つところの新しい基盤、つまり「国民」の創出をも含意している。
幕末以来、その激しさを見せつけた日本のナショナリズム(nationalism)の運動は、様々な政治上の曲折を経たあげくに、どうにかそれに国民国家(nation-state)としての外形的枠組みを与えることで秩序を与え、1871年(廃藩置県)において一応の政治的帰着を迎えたと見ることができるだろう。
その3年前にあたる1868年1月は、王政復古が宣言されたものの、徳川慶喜がふたたびヘゲモニーの奪還を企て、鳥羽・伏見において戦端を開いた直後であり、政情は安定せず、いまだに日本の新しい国家像はその原初的な素描ですら――その理念と実態ともに――模索の渦中にあったといえる。このような折に際して、伊藤が木戸に宛てて送った手紙には、意訳して次のように綴られている。
「アメリカの独立に際しては、武器を持っていない一般の市民まで立ちあがって、一致団結してイギリスを破った。そして今、そのアメリカは隆盛を極めるに至っている。しかるに、我が国は、数千年にわたって天皇の恩沢を受けながら、それを忘却し、媚びへつらうことに終始して、機会を失しようとしている。これは、日本人に心というものがないからだ。(略)長州に生まれて徳川を憎まなければ、それは人ではない、などという言説もはびこっているが、国内で互いに憎みあって一致団結できないようでは、我々が夷狄と蔑むアメリカ人にすら劣るというものではないか」〈『伊藤伝』、本書 p.20〉
《なぜ、明治を担う政治家たちが国家建設のモデルとして、欧米流の国民国家の移植に躍起になったのか?》
これを、僕は疑問に感じていた。
純粋に、その時代の華々しく隆盛を極める西欧列強の国家体制がそうであったから、それを「文明」として移植した――科学技術や文学、芸術の輸入にとどまらない、その国家体制でさえもモデルとして輸入する――という表層的な論理だけではないだろうとは思っていた。
きっとそれは、上に挙げた手紙の中で記されていたように、欧米列強に対抗し、国際社会のなかで日本が独立を保持するためには、なによりも「日本人」としての団結を阻むもの――地域や身分、宗教などに対する帰属意識――を邪魔なものとして一掃し、より一体的で均質に凝縮された「国民」を創出することによって、新たに国民国家として日本を再生させてゆくしか方途がなかったからに違いない。
このような文脈において、新政府の開化的な諸政策――身分制度の撤廃や、信教の自由など――は、西欧世界に対抗し、日本の独立を保持しようという切実な願いのもとに、おそらく国内における様々な差異の消去としての意味を持ちながら、実行に移されたのだろう。これらの革新的な施策の数々は、その性格の封建的要素の残存やその達成の不十分さについてあれこれと指摘する以前に、まずは強力な国家形成のための手段として、日本政府から積極的に要請されたと理解されなければならない。それは、外国や国内からの圧力に晒されて、新政府がしぶしぶと開明的な施策に応じていくようなイメージとは逆である。
1871年に、廃藩置県の成功によって一つの政治的ステージをクリアした日本新政府は、より具体的な国家像のアイディアを求めて1年半に及ぶ岩倉使節団(*1)を欧米に派遣する。その欧米視察のさなか、木戸孝允の次のような心境、
「皮膚上の事は暫(しばら)く差し置き、骨髄中より進歩いたし申さず候ては、今日の開化も他日の損害如何か」〈『木戸文書』四、本書 p.43(*2)〉
このような境地に、伊藤も同じく達することができたと仮定すれば、その目の捉えた西欧文明の「骨髄」とは、目を驚かすような「築造」でも壮大で驚くべき「宮殿」や「寺観」でもなく、なにより一体的で均質な国民の姿と、その国民が政治参加することによって担われる国家運営のあり方だったのではないだろうか。
さて、著者の瀧井氏のいうところの漸進主義と急進主義の対抗図――ある政策について、どの時期に、どのくらいのスピードで実地に移すかをめぐる争点――は、政策の理念をめぐって思想上の対立は生まないだろうが、たしかに、その実行プログラムをめぐって、政治上の激しい対立点を形成するだろうと思う。その意味で、著者の切り口には面白さがある。あくまで、それを軸として政治上の対抗関係を描ききれれば、の話だが。
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*1 先日、録りためてあった「さかのぼり日本史」を見ていたら、岩倉使節団の派遣の目的があいかわらず、条約改正交渉になっていた。彼らの本来の目的は、第一に欧米の「文明視察」であり、新しい国家像の模索である。条約交渉は、使節団がアメリカに立ち寄ったときに、そこで初めて、突如として伊藤博文から提案されたものであって、あくまでも偶発的にして副次的なものに過ぎない。
そもそも、ただ条約の交渉を図るために、なぜ数百人もの規模で、しかも不安定な政府をなかば空にしてまで渡航を計画しなければならないのか?
(と不満は若干あるが、NHK「さかのぼり日本史」はいい番組だと思う)
*2 本書には、この引用部分は、伊藤の心情として述べられている。しかし、あくまで木戸がみずからの感想について本国の知人に宛てた手紙であり、伊藤の内面とは無関係である。このメモを書き留めるときに初めて気づいたが、著者のこのような紛らわしい引用のしかたは、あまり感心できない。
第二章 憲法制定期
日本の近代史を、デモクラシーの進展という視角から眺めるとき、その理解を困難にさせているのは、現代の日本人のデモクラシー観において、(i)立憲主義、(ii)議会制度、(iii)政党政治、の3つの概念が渾然としていることに大きく起因している。
これらの概念とその同義語を少しリストアップするだけで、以下のようになる。
(i)立憲主義、立憲制度、立憲制、立憲政治、立憲国家、憲法制度、憲法政治、(憲政)
(ii)議会制度、議会制、(議会政治)
(iii)政党政治、議院内閣制、責任内閣制、(憲政)、(議会政治)
こうして並べてみると不分明な語句も多い。「憲政」など、字義からすれば「憲法政治」だろうに、日本の政治史においては、「議院内閣制」の意味で使われている。「憲政の常道」とは、第二次護憲運動以降、政友会と民政党の二大政党によって交互に内閣が組織された時期を指す。
(i)立憲政治とは、国家の基本的な構成(constitute)を定める憲法(constitution)によって、国家運営上に明確なルールが敷かれた体制といえるだろう。
(ii)議会政治とは、議会を開設して、国家運営に対して国民サイドからのチェック制度を備えた国家体制といえるだろうか。
この(i)と(ii)については、概念的にはそれぞれ独立したものであると考えられようが、人類史の実態としては、立憲制度と議会制度はワン・セットで捉えられてきている。フランス革命しかり、ロシア革命しかり、また日本の近代政治史においても、憲法公布の翌年、帝国議会が同時に開催されている。あくまで現実上は、憲法と議会は、一体のものとして実地に移されてきた。
(iii)政党政治とは、国民の代表としての政党に、議会におけるチェック機能のみならず、実際に内閣を組織させて、直接に国家運営にあたらせようとするものであり、これを日本の政治風土に移植するか否かをめぐって、政府と政党のあいだに激しい攻防が展開された。
逆にいえば、(i)(ii)については、その実現の時期をめぐる対立にすぎないのであって、藩閥政府といえども、日本において立憲体制と議会制度をそなえようとする意思については、疑う余地がない。
この(iii)の議院内閣制に対する態度表明が、近代史前半の政治家たちの思想分布図を鮮明にするだろう。
伊藤博文はなぜ、なぜぼくの興味を引くのか?
彼のおもしろさは、藩閥政府のなかにいて、かつ、そのなかでも最大派閥である長州閥のトップリーダーであるにもかかわらず、(本来であれば立場上弾圧すべき)政党政治に対して理解をもち、第二次伊藤内閣において自由党と改進党の合同(憲政党の結成)を見るや、政権の座を政党(憲政党)に譲ることを明治天皇に奏上し、またそれ(隈板内閣)がわずか4ヶ月しか持たずに瓦解するのを見れば、今度はみずから模範なろうとして、反対を押して政府を退き、立憲政友会を結党する。このように、彼の魅力は、一見すると自己否定を繰り返しながら、日本近代史に政党内閣の道筋をつけていくところにあるだろうか。
1.1 伊藤博文の天皇観
強烈な西欧体験にるカルチャーショックは、開国後間もない日本の政治家たちに、欧米的な国家建設に対する将来の自信を挫けさせるに十分であった。岩倉使節団の巡歴中において、岩倉具視は伊藤に次のように洩らしている。そこには、明治に端を発する日本人の西欧コンプレックスの原型が、もっとも素直な形で表出されている。
「英、米、独、仏の如き強大国はいふに及ばず、二流三流の国々といへども、その文化の隆盛なる、我国の追求しあたはざるほどに懸絶(けんぜつ)し居れば、我等如何にこれを研究したればとて、到底これを実地に採用すべき見込みなし」〈『伊藤伝』上、本書 p.44〉
燦燦と光輝する西欧文明を実地で体験した後、彼らの目に映じた日本とは何だったのだろう、もしくは日本のなかに何を見出したのだろう?その回答のひとつが、以下にある。
「日本の国は、歴史の伝えるところによれば、開闢以来、万世一系の皇統によって統治されており、また民族も同様に続いております。(略)
今日のように外国と交流をしていない時代の日本の学者のなかには、ひとり日本だけが高貴であって、外の世界は野蛮であるといっていた人たちもいますが、他国は野蛮であり、日本のみが進んでいるから尊いのだということを述べるよりも、日本が誕生して以来、今日まで存続してきたとものは世界にひとつしかないものである、と考えたほうが世界に誇れるのではないかと思います。(略)
日本はこのように、世界に対して比類ない特徴をそなえた国であります」
〈『伊東文書』皇族華族宛演説 本書 p.94-95 / 意訳〉
思うに、鮮烈な西欧体験を経て、当時の国家草創を担う政治家たちの目に映じた日本とは、第一に、文明と遠く「懸絶」する、未熟にしてみすぼらしい日本の姿と、第二に、それゆえに眩しく映じる、万世一系の皇統の存続、その世界に類例のない日本国の血統性、だったのではないだろうか?
逆にいえば、西欧文明の降り注ぐ光に照らして、すべてが闇夜のなかにある日本から、唯一、光り輝いて見えたものが「万世一系の皇統」という国家の由緒正しさだった、というべきか。
このように考えたときに、西欧文明の迫力に埋没寸前の日本のアイデンティティを救うよりどころとして、万世一系の天皇という国家の血統の由緒正しさが「発見」されたのであれば、それが明治憲法の冒頭文において高々と宣言されるのも十分納得ができる。伊藤は次のように述べている。
「今我が憲法制定の体式(ていしき)をもって他の立憲諸国と比較するに、その間、大差別の存するものあり。すなわち、第一章に君主の大権、すなわわち主権を明記するものは、他国の憲法にその例あるを見ざる所なり。しかして、その所以(ゆえん)のものは、(略)そもそも、我が日本国はその開闢(かいびゃく)の始より天皇みずから開きたまい、天皇みずから治(しら)しめすをもって、これを憲法の首条に載するは実に我が国体に適応するものというべし。これ他国の憲法と大いにその構成体裁と同じくせざる所以なり。」〈『伊藤伝』中、本書 p.86)
もっとも、上のような君主大権の規定が、天皇一個人の恣意的な国家運営を保証するものでないことは、いうまでもない。
実際、明治天皇の心身の成熟とともに起こる天皇親政運動を、伊藤博文は宮中(私生活の空間)と府中(公の空間)を分離させることで、宮中に封じ込めている〈本書 p.69〉。
それは、あくまで天皇に求められているのは、その歴史的存在事実あって、国家統治の根拠となる権威付与装置としての天皇の存在であり、ゆえに生身の人間の才気ではなかったからだろう。
また同様に、西欧の文明列強を意識して、日本のアイデンティティを天皇主権の存続性に求める限り、民権サイドの提起する国民主権論に対しては、とうてい譲歩できるものではなかったことは想像に難くない。なぜなら、伝統としての天皇主権とは、世界に比類のない日本の卓越性を示すものだからだ。
「我が国のごときは開闢以来の歴史と事実にてらして、主権は君主、すなわち王室に存し、未だかつて主権の他に移りたるの事実なく、また移るべきの道理非ざるなり。」〈『伊藤伝』中、p.87〉
「日本に於いては開闢以来の国体に基づき、上元首の位を保ち、決して民衆に移らざることを希望して止やまざるなり」〈『伊藤伝』中、p.88〉
1.2 伊藤博文の政府観
憲法公布と議会開設に際して、藩閥政府が、政党から超然として施政を執るべきことを表明した宣言を超然主義という。
従来、保守的、反動的な評価を烙印されているそれは、しかし、伊藤の講演を収めた資料に目を通すとそれ以上のものを訴えているようだ。
「他日、国家の政治が、臣民を代表する議会の議決に付されるとき、その利害は一府県の利害ではなくて、すべて全国の利害である。いやしくも帝国議会の議員たる者は、選挙にかかわる一部の臣民の代表ではなくて全国の臣民の代表であり、地元の利害に拘泥することなく、ひろく全国の利害を洞察して、みずからの良心に従い判断する覚悟ななくてはならない」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.89〉
原敬による初の本格的政党内閣の出現以降、それが一方においては、今日の自民党政権まで脈打つ地方利益誘導型の政治システムの原型を形づくった今日の歴史を紐解くと、伊藤の指摘は耳に痛い。それを思えば、以下のような伊藤の超然主義的態度も、保守反動のひとことでは片付けにくいものがある。
「互いに意見が異なるのは人間の本性であるから、そこで党派が生まれるのは当然の成り行きであるだろう。しかし思うに、議会や社会において党派が生まれるのはやむを得ないであろうが、一党派のための政府は、これを断じて許すことができない」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.90 / 意訳〉
本書(p.90)の指摘するところによると、エドマンド・バークの「ブリストル区民への演説」の影響が認められるらしい。
(また、この時期の自由民権運動と日本政府の対立の背景には、それぞれ英、仏の自然法的な権利理論と独の歴史主義的な国家理論の、つまり18世紀と19世紀を代表する西欧思想上の対立を看て取ることもできるだろうか?)
1.3.伊藤博文の政党観
憲法制定の時点において、伊藤博文は政党内閣に対してどのような考え方を抱いていたのだろうか?
これに関しては、直接言及された資料がある。
「すみやかに議会政府すなわち政党に内閣を組織させようとするのは最も危険極まりないというべきだ。思うに、政党政治の利を説く者は少なからずいるが、一国の基軸を定めて、政治を公議のものにするためには、力が充分に養育されている必要がある。もしこれを顧みずに国家の根本を揺るがすようなことがあれば、将来の不利益はどれほどのものになるだろう」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.91 / 意訳〉
この解釈については本書の著者である瀧井氏の意見に、ぼくも同意しようと思う。
たしかにこの内容は、政党内閣の即時実現を斥けた言葉であって、時期尚早論を唱えているのに過ぎない。
彼は、政党内閣を排斥していない。
それ以上に伊藤には、政党内閣制度を必要とするに足る十分な理由があるように思える。
というのも先に見たように、伊藤の国家論は、第一に「国民」の創出を基礎として、第二に、その形成する「国民」の政治参加を梃子として、国力の発揮を目指すものだからだ。
「他国と競争して独立の地位を保ち、国威を損なわないようにするには、人民の学力と知識をのばさなければなりません。そのことは、一国の力の上で、大きな国力の成長を発揮します。これは、自然な結果であると言えるでましょう。」
〈『伊東巳代治関係文書』皇族華族宛演説、本書 p.96 / 意訳〉
日本の国力が、「国民」を基礎とするとき、国家の浮沈はひとえに、国民の成長の度合いに依存するといってよい。そのように、伊藤は考えていた。日本の教育政策に対する伊藤の尽力が、それを何より雄弁に裏付けているように思える。
もっとも藩閥政府にとって、国民の知識の伸長は諸刃の剣であることを、伊藤はよく知悉していた。
「人民の学力智識を進歩さして文化に誘導させて参りますと、人民も己れの国家何物である、己れの政治何物である、他国の政治何物である、他国の国力何物である、他国の兵力何物であるといふことを学問をする結果に就(つき)て知ってくるので、それが知ってくる様になれば、知ってくるに就(つき)て支配しなければなりませぬ。もしその支配の仕方が良くないといふと、その人民は是非善悪の見分けを付けることのできる人民であるから、黙っておれといって一国は治まるものではない。」
〈『伊東巳代治関係文書』皇族華族宛演説、本書 p.97〉
それでは、国民が政治意識に目覚め、「是非善悪の見分けを付けることのできる人民」となったとき、伊藤はどのような政治体制を構想していたのだろうか?
次の資料は、伊藤が天皇主権の発動について述べたものである。
「国家の主権は一つであり分割すべきではない。そして、その主権はひとり天皇の身の上にあることを考えれば、官僚や行政組織の働きは、天皇の主権が委任されたものにすぎず、決して固有の力によるものではない。また、行政の各組織がそれぞれ分派しようとも、またそれらが規則に則って独立に働こうとも、一つの主権はすべて君主の手の中に収まっているのである。」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.87〉
このように行政各部の権力作用は、すべて天皇の主権による発動の結果であると述べた後で、伊藤は議会政治について次のように言葉をつないでいる。
「これを以て、たとえ議会を開き、公議世論の府となすも、主権はただ君主の一身に存在すること遺忘すべからず」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.87〉
公論を形成する場と議会がなったとしても、天皇の主権が議会をとおして発揮されているに過ぎない、と伊藤はいう。
もっとも、これがぼくには、「政治が国民の声を中心に回るような事態になっても、それは天皇の主権侵犯にはあたらない」とする、政党政治の将来的な実現を許容する伊藤の弁辞のように聞こえるのだけれど、、、。
しかし、そうであったとしても、一体それは誰に対しての弁明だろうか?
第三章 一八九九年の憲法行脚
この章を読むまで、伊藤は憲法制定時から、国家構想において日本の政党政治を見据えていたものと思っていたが、次の資料によってそのような読み取りは難しいと感じはじめている。
「結論に憲法は立国の体に依遵(いじゅん)適合せざるべからず。憲法すでに国体と密着す。君主の大権下に移すべからず。しかればすなわち政党内閣の説は我が憲法国体に適合するというべきや。多弁をもちいずして明瞭あるものあらん。」
〈一八九一年一〇月一一日伊東宛伊藤書簡、憲政記念館所蔵、本書 p.144〉
これを意訳すれば、憲法の建国の歴史に合致したものでなくてはならず、すでに憲法は国体を体現したものとなっている。君主の大権は不可譲である。したがって政党内閣は、我が国体に適合するといえるだろうか。それはいうまでもなく明らかである、というものだ。つまりこの時期に関して、伊藤博文は、政党政治を否定している。
「我憲法条章の明文において行政官吏の専横に陥るを防遏(ぼうあつ)し、臣民の権利を保証せられたれば、政党内閣を仮らざるも憲法政治の美果を収むるにおいてその難き見ざる所以を述べたり」
〈一八九一年一〇月一一日伊東宛伊藤書簡、憲政記念館所蔵、本書 p.145〉
明治憲法は官僚の専政を抑え、また臣民の権利も保証しているので、政党政治に頼らなくても憲法政治の美果を収めることは難しくない、と伊藤はいう。
この点、伊藤博文に対して、常に一貫した国家構想を読み取ろうとする著者、瀧井氏の論述は、以下のようになる。
「彼が政党政治それ自体についてアンビバレントな見解を抱いていることも事実であろう。」〈本書 p.115〉
「政党政治の漸次的育成を通じて国民の政治参加を推進し、国民政治と立憲体制の融合を図ること、すなわち国民国家としての宥和と協調の政治体制を築くことである。その具体的実践が、1900年の伊藤による立憲政友会の創設に他ならない。」〈本書 p.116〉
すっきりしない言い方だ、と思う。
「政党政治の漸次的育成を通じて」とは、どういうことなのだろうか?
伊藤は、「政党政治」を目標としているのか、していないのか?
普通に読めば、政党政治を目指して、と読める。しかし、それを直接的な目標としていなくても、そちらの方向に路線を誘導することによって、とも読むことができる。奥歯に物が挟まったような物言いである。
少なくとも、先に引用した資料からは、この時期、伊藤は政党政治に否定的だった。それは、政党政治が基本的に利害政治であるという達観があり、党派や党の利益に偏重した国家運営がなされる危険性を恐れているからだ。
伊藤による1900年の立憲政友会の創設は、従来の通説通りに「伊藤の変節」として解読すべきなのだろうか?
このあたり、もう少し時間をかけて考えてみたい。
さて、伊藤新党問題を受けて、6月24日に開かれた御前会議における伊藤博文と山県有朋の応酬がおもしろい。
「閣下の政党組織はついに政党内閣の端を啓くに至らん。しかして政党内閣制は我が国体に反し、欽定憲法の精神に悖り、民主政治に堕するものにあらずや」〈『伊藤伝』下、本書 p.119〉
と山県が述べると、
「政党内閣の可否を論ずるはそもそも枝葉末節のみ。要は皇国の進軍に資するや否やを顧みるにあり。」
〈『伊藤伝』下、本書 p.120〉
と、伊藤が応じている。
山県の発言は、さきの伊藤の弁とほぼ同様の論旨であり、伊藤にとっても痛いところを突かれたのではないか?
第四章 知の結社としての立憲政友会
ひとつ。明治憲法についての従来型の評価、つまり、「この憲法の規定する議会制度は大きな制約を受けたものであって、天皇に強大な大権を認めた君権主義の見せかけの立憲主義の憲法でしかない」〈本書 p.117〉とする否定的な評価に対して、「この憲法のもとで戦前に議会政治の着実な進展が昭和初期まで認められるのも事実」〈同〉と著者は指摘する。たしかに、その通りだ。
ふたつ。従来の明治憲法のなかにプロシア憲法の影響をみてとったり、伊藤博文が、憲法調査に際しての渡欧時に、ドイツやオーストリアの学者から多大な影響を受けたとする見方がこれまでの主流だったけれども、さらにもう一つ、伊藤がイギリス滞在時に受けた議会制度の影響について、資料をもっと細かくみていく必要を感じる。
というのも、伊藤がよく遊説中に、イギリスの議会制度やディズレーリ、エドマンド・バークの発言を多く引用している事実や、また実際の日本の近代政治史の歩みとして、ドイツ・モデルとして制定されたはずの明治憲法のもとで、なぜイギリス風の二大政党政治が、加藤高明を首班とする護憲三派内閣から犬養内閣の倒壊までの8年間、「憲政の常道」として結実していくのか、との問いに答える必要がある、と思うからだ。
第5章 明治国制の確立―― 一九〇七年の憲法改革
以下、著者による論述に従って要約する。
1907年の「憲法改革」の背景とは、
・議会政治の定着
・政党の伸長
・日清日露の両戦役を通しての軍事行政の肥大化・自立化
・新たな植民地の獲得
1907年の「憲法改革」のねらいとは、
このような情勢に対処するため、内閣の国家運営に対する指導力の低下の回復を目指すもの〈本書 p.237〉。
1.国家と天皇の関係
・宮中府中の別の見直し
・天皇のさらなる国家機関化(皇室の国制化)
2.内閣総理大臣と他の閣僚との関係(公式令の制定)
・1885年の大宰相主義(内閣総理大臣による閣令制定権)への回帰
3.内閣と軍部の関係(軍令第一号の制定)
・「これまで慣行化していた帷幄上奏の権限を抑制し、軍行政に内閣が介入していく足がかり」〈p.328〉
・「一九〇七年の憲法改革の挫折ならびに統帥権拡大の法的根拠の確立というよりも、既存の統帥事項の切り崩しとそのうえでの軍部による既得権益の死守の試み」〈p.329〉
・滝井説によると、そのような軍を抑制する実践の場としての、初代韓国統監の就任。
第六章 清末改革と伊藤博文
伊藤博文の中国体験について述べられた章だが、あまり論としてまとまっていない印象を受けた。
強いていえば、彼の西欧体験が、そこで何を見るか、という受け身の視点だったのにくらべると、
中国体験、韓国体験は、そこに何を伝えるか、という能動の視点といえるだろうか?
言い換えるならば、輸入の視点から輸出の視点へ。
とはいえ、このような見方は一面的にすぎるか?
第七章 韓国統監の"ヤヌス"の顔
1.東アジア全体の繁栄を志向する「東洋の統率者」「文明の伝道師」としての思想が、どのようにナショナリズムと関わってくるのか、不分明だったように思う。
それは韓国や中国に対する「文明」の移植の伝道は、東アジアそれ自体の繁栄を願うものか、それとも、あくまで日本にとって西欧列強に対する防波堤となることを目論む手段に過ぎないのか?
2.著者の述べる通り、伊藤博文は、韓国のナショナリズムの運動を甘く見積もり過ぎたか?
もっとも、韓国統監以降の歴史叙述は、ぼくに予備知識がないからか、著者が端折り過ぎたか、いずれにせよ韓国で何が問題となっているのか思想的にも政治的にも状況が明らかでなく、具体的な経過がいまいち掴めなかった。とくに韓国のナショナリズムについての説明がなく、いつの間にかそれは突然現れて、伊藤を殺してしまった、笑
(すべて読了!!!)

とりあえず、日記の内容とはあまり関係ないのですが、音楽を用意いたしました。
カウンターテナーの歌い手 Slava による、Vavilov 作曲、Ave Mariaです。
あなたの日曜日をより贅沢にしてくれる声楽曲を、どうぞ。
さて。
一時。昼食を終え、車に戻る。西予市宇和町、発。
一時半頃。宇和島市にある、多賀神社、着。
■i. 多賀神社、鳥居
11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 01 posted by (C)qeise
この神社、どこが面白いと聞いて訪ねてきたのかというと、
下の写真を見れば、それも了解していただけるだろう。
■ii. 神体
11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 13 posted by (C)qeise
性器崇拝なるものの存在。
すぐに思いつくところでは、日本の各地の路傍にある道祖神。
また、よく日本史の教科書に掲載されるような性器の強調された土偶を思い浮かべると、少なくともこのような信仰は、遥か縄文の時代まで遡ることがわかる。
■iii. 境内。これも男性器の形象か。
11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 05 posted by (C)qeise
多産への祈りは、真剣な希求だったのだろうと思う。
たとえば、近世の大名家にとって、嫡子が生誕するか否かは、その家のみならず藩全体の存亡にかかわる大事だったのは周知の通りだ。市井の家々においても、軽重はともかく、その事情は似たようなものだろうと思う。
ちなみに、この先向かうことになる宇和島の伊達氏の大名庭園にも、また去年の夏に出かけた岡山の後楽園にも、男性器と女性器をそれぞれ象った陽石と陰石が、観光客の目に止まることなく、その他の石にまぎれて佇立していた。
■iv. 同境内。たぶん偉い人。
11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 06 posted by (C)qeise
近代化とか西洋化とか呼称される思想の流入とともに、このような信仰は日本人の日常の表舞台からは姿を消していくことになる。そして、これらの直裁的な性表現を露骨すぎると感じる僕の感性も、やはり近代化された日常の延長線上に置かれてある。
感性の断絶に、もしくは、失われた日常に、何かを感じるわけではない。社会も、歴史も、思想も、人間も、日々成長していく。その身体が大きくなるにつれて、子供の頃の服が着られなくなるのはあたりまえの話だろうと思う。私はただ、使い捨てたはずの子供服が非日常の神域に大切にしまわれているのを発見して、上手く言葉で表現できない戸惑いを覚えたに過ぎない。
■v. 拝殿内部
11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 10 posted by (C)qeise
さて、この先には多賀神社の秘宝館があって、日本を含め世界各地から収集された、性風俗に関する遺物、作品の数々が所狭しと展示されている。
写真撮影が禁止だったので、その常軌を逸した様子をお見せできないのは残念だが、例えば、清浄な如来の立像、しかし、その股間部から男性器を隆々と屹立させているような木彫りを一例として、女を悦ばせるための木製の張型や江戸期の春画などが、文字通り館内を埋めつくす勢いで並ぶ。入館料、八〇〇円。
■vi. 秘宝館、凸凹神堂
11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 07 posted by (C)qeise
部屋も散らかってるし、あまり神経質な部類だとは思わない。
けれど、、、どうしてもぼくは新品で買った本が経年劣化していくのだけは耐えられないようなのだ。
とくにバッグの中に入れた新書や文庫の、その背の上下端の部分や角っこなどがグシャリと潰れたりするのは、いとわろしで、、、とにかく苦手であるw。
そこで"フィルムルックス"でございます、みなさま。
■i. 写真は文庫用。ほかに新書用、B5版、A5版などいろいろ揃えております。
■ii. まず、本のカバーを脱がして、、、
■iii. 口では説明できにくい部分にペンで1cm ほど印をつけて、はさみで切って、、、(写真は、数冊分)
■vi. 間隔の予想をつけて、、、、
■v. 定規を上手に押しあてながら、ズズうーっと貼って、、、
■vi. これはまた別の本だけど、こんな感じで表紙・背表紙・裏表紙と全てに貼って、、、
■vii. そして、端折って、完成!!!
写真ではわかりにくいですが、すべて透明のフィルムでコーティングされております。
地元の図書館で、あ、これだ、と思って以来、ほぼ同様のものをネットで探しまくり、現在では半年に一回くらいのペースでこうして作業しております。本棚に入れっぱなしの本の背表紙だけが日焼けして変色する、なんてことからも免れているように感じます。角も頑丈になって、これで、安心してカバンの中に持ち運べます。
久々の日記の更新です。
内容は、前回のつづきです。
例によって、例によって、音楽も用意いたしました。
Brian McKnight より、6, 8, 12 をどうぞ。
旅は準備して行ったほうが、絶対、楽しい。
事前に何も準備せず、ぶらりと出かけたほうが、旅先で予期せぬ出会いや驚き、発見などがある、という人もいる。
しかし偶然の出会いや発見なんて、どれだけ旅行を周到に計画して、予定通りのコースをめぐろうとも、その先々であるのだし、むしろ、一見格好良く見える「目的もなくあてもない旅」は、その無知ゆえにその土地の表面的な部分をかすって終わり、になることのほうが多いと私の経験が告げている。
あらかじめ計画しておかなければ、行くことのなかった場所があり、その場所を訪れなければ、出会わなかった人がいる。
そして――――下調べをしておかなければ、扉をくぐることのなかった洋食店というのも、なかにはある。
十一時頃、卯之町の散策を終了。
十一時半頃、卯之町駅に到着。
卯之町駅の前の道路を挟んだ向かいにある、鬱々と佇む洋風料理店「ステーション」。
その陰気な外観といい、事前にネットで下調べをしていなければ、ここを食事時に通りがかったとしてもドアノブに手を差し伸ばすことは永遠になかったであろう、笑。
にもかかわらず、私(たち)は、このノブに指先をかける――――。
そこはまるで時間が止まっているかのような、ノスタルジックな空間だった。
リーズナブルな日替わりランチを差し置いて、ネットレビューで評判のよかったハンバーグ定食を注文する。

11-06-04 愛媛県西予市卯之町 36 posted by (C)qeise
その値段――――この愛媛の、ど、ど、ど田舎で昼食代にそれはないだろうと思う金額、千円也。
もっとも、ここのコックの腕をふるって調理された料理は「定食」というよりも、むしろコース料理のそれを思わせるものではあったが。
しばらくすると、別の客の一行がやってきて隣のテーブルに座る。
そして、同じ注文がコックに飛ぶ。
六月四日。晴。
朝八時頃、友人と二人で待ち合わせて、出発。
十時、目的地に到着。
――――愛媛県西予市卯之町。
二〇〇九年、在郷町として重要伝統的建造物群保存地区の選定を受ける。
ここで、重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)とは、日本各地に存する歴史的風致を形成している伝統的建造物群のなかで、とくに価値が高いと文部科学大臣に認定されたもの指し、今現在、九一地区ある。
そのあたりのことは Wikipedia に詳しいので、みなさまのお住まいの身近にあれば、ぜひ行ってみてください。
さて、その西予市卯之町、である。
かなり最近に重伝建の指定を受けた町であるが、それは文化庁の文書に記された選定理由を読めばよくわかる。
「西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区は、近世前期に成立した在郷町を地区の範囲とし、宿場町、門前町の性格を併せ持つ。近代以降に町の中心が南に移動したため旧の中心部が保存され、江戸時代からの地割りや重厚な町家等を良く残し、我が国にとって価値が高い。」
と判断され、とりわけ以下の要素が高く評価されたようだ。
「近世の地割りが良く残り、宇和島街道沿いに、開口部以外を塗籠める桟瓦葺の重厚な町家が良く残る。町家は、屋根の妻を正面に向ける妻入りと、平を正面に向ける平入りが混在し、格子や持ち送り(写真-vi)、飾り瓦(写真-iv)等の意匠に特徴がある。」
宇和島街道とは、愛媛県宇和島市と大洲市をリンクする街道のことであり、町屋の妻入りや平入りというのは、家屋の屋根に対して玄関の向きを示している。
以下、旅先の風景写真と簡約な感想を掲載する。
それでは、卑怯だといわれようが前回評判の良かった書上奈朋子嬢の甘美な囁きとともに、どぞ。
■i. ここは高野長英の隠れ家として、県指定文化財の指定を受けている。写真のように路傍から垣間見えるものがすべて。
11-06-04 愛媛県西予市卯之町 01 posted by (C)qeise
■ii. いわゆる宇和島街道。ここを歩いているあいだが、一番気持ちいい。結局、古い町並みはこのストリートとそれに付随する僅かのみ。しかし、資料館やパンフレットの類はかなり充実していて、この区域全体の町おこしの成否をその小さな肩に担っているようだった。
11-06-04 愛媛県西予市卯之町 04 posted by (C)qeise
■iii. 同上から、振り向いて。
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■iv. 妻入りの町屋、その飾り瓦。鯱の下にあしらわれているのは、おそらく茄子と大根。

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■v. black and white のモノトーン調に、格子とわずかに開いた蔀戸が涼しげな情緒を添える。
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■vi. 持ち送りのディテールとその連なり。

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■vii. 光教寺に至る路。おそらくかつての町全体の中心。

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■viii. こんな小さな町になぜこんな石庭があるの? 宇和民具館内の坪庭。右の窓から全体を眺めて、後列の小さな仏像を模した様な立石の並びと前列の延段のような直線が対照を為す。
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■ix. 小高い丘をのぼると、、、写ってるのは私じゃないよ。

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■x. 開明学校校舎(明治15)。国重要文化財の指定を受ける町全体の象徴。
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■xi. 開明学校の内部。教室には、修身科(現在の道徳)のテストが掲げられていた。父母が熱を出して寝込んでいるとき、子はどうすべきか問うもの。正解は、たしか「常に傍らで寄り添う」だったが、現代っ子は「救急車を呼ぶ」と答えたとか。

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■xii. 司馬遼太郎氏もかつてこの卯之町を訪れたことがあるらしい。

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■xiii. 卯之町キリスト教会(大正15)のある風景。かつて訪れた平戸(長崎)の町並みを想起させる。

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いつの頃からか古い町並みが好きだった――――。
その気持ちを上手く分析できるほどには、私は、私についてよく知らない。
しかし、現地に赴いて湧き出でる感情にはメランコリックな成分が含まれていることは間違いないことであって、それは歴史の主流から隔絶し、忘却せられ、とり残されたものに対する追慕のようなものであるだろうと思う。
それは、過去の記憶や時代を美化し、今でもそれを引き摺っているかのような、したがって、どこか後ろ向きでネガティブな心性の一つではあるだろうけれども、それに魅了せられてしまう自分の感性も否定しきれるものでもなく、自分自身でなんとか折り合いをつけて、向き合っていかなければならない心の内にある小さな棘のようなものだろうと思う。
もう何年前になるのだろう、車のラジオでかかっていた、アレ。
それは僕にとってあまりにも聞きなれない何かで、音楽というよりも、むしろ甘い囁きだった。
ラジオのスピーカーからアルバムを紹介を告げる MC の言葉、それを僕は必死で記憶して、急いで家に帰って、ネットで検索をかけて、そして即刻購入を決めた。
先日たまたま、乱雑にファイルの放り込まれた PC のハードディスクの整理に取り掛かっていると、musicフォルダのなかに収まる、アレを見つけた。なぜだろう、もう何年も聴いていなかったことに気づいた。
もっと高く評価されていいと思うのに、一部の人にしか知られていないのが残念で、昨日の夜、ネット上に動画なんてないよな、と思いながら検索してみると、あ……あった。
ではでは、みなさまどうぞ、URLリンクが途切れないうちに、、、。
書上奈朋子「BAROQUE/バロック」よりCIRCOLAR
Amazon の紹介やレビューを読んでも、彼女の作品を通して感じることは人皆、同じか。エロス、暴力、猥褻、誘惑。そういった語彙が共通して語られる。それにあえて、自分なりに言葉を選んで付け加えてみると、そこにあるのは誘惑ではなく、その誘惑の純真さだ。それは猥褻ではなく、その猥褻のひたむきさだ。もし仮に、猥褻というものに無垢な信仰が許されるのなら、それは眼前にひろがるこの音楽だろうか。
彼女の、官能に心地良く響く旋律が鼓膜を埋めるたびに、僕はクリムトの絵画のあの金色を思い起こす――――。
(The Kiss, Gustav Klimt:http://www.wallpaperlink.com/bin/0706/03494.html)
目の前に立つ可憐な恋人の両頬に両手を添えて、その柔らかな唇を塞いであげたい――――。
甘く抱きしめて、優しく奪い尽して、悦ばせて、燃やし尽して――――。
男はそのすべてを腕の中に覆い隠してゆく。しかし、女もただ受け身に従っているだけではない。男の首筋へとしなやかに伸ばした片腕は、抑圧を解かれた彼女の火焔の昂りを余す所なく見せつけている。
次第に高々と階梯を上げていくコーラスは二人のピークを告げて、金色の恍惚はどこまでも伸びてゆく。燦燦と紡ぎだされるソプラノの声ははたして天使の餞か、嘲笑か。官能的な渦巻文様をのせた衣装の裾から流れ落ちる藤の花にも似た黄金の嶌、その煌きを雫に散りばめてせせらぎと為せば、すべては虚無の世界に昇華されて―――――。
ある古典音楽の主題が遊戯的に操作されてるのに気づきました? そういうところは、アルバムのタイトルこそ BAROQUE ですが、むしろマニエリスム的な作品ともいえるかもしれません。見事に解体された原曲も、一時期携帯の着信音にしたほど好きです。