、、、、前回の続き。



□ 第2部(B.C.500-A.D.1500)


2.1.1.第2部 概観


◎4つの文明(中東文明、ギリシャ文明、インド文明、中国文明)の平衡状態の保持(B.C.500-A.D.1500)
  → 1:ギリシャ文明の波及と中東のヘレニズム化(B.C.500-A.D.200)
  → 2:インド文明の波及と中国、日本のインド化(A.D.200-A.D.600)
  → 3:イスラム文明の成立と膨張(A.D.600-A.D.1000)
     ・A.D.631-1000:中東、北アフリカ、スペインのイスラム化
     ・A.D.1000-1453:インド、東欧、中央アジアのイスラム化
  → 4:西欧文明と日本文明の成立(A.D.1000-A.D.1500)


■ B.C.500-A.D.200


2.2.1.ギリシャ文明の発展


[アテネ]
 〈ペルシア戦争の帰結〉
  ・貧民が、軍艦の漕ぎ手として参戦 → 貧民の政治参加 → 民主政体の確立へ
  ・諸都市の自由な同盟体 → アテネ帝国へ
  ・貴族による政治指導体制の崩壊
  ・様々な社会階層への分化 → 共同体意識(ポリスへの忠誠心)の衰退、内部結合力の喪失
 〈古典時代(B.C.480-431)〉
  ・演劇:アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデス
  ・哲学:ソフィスト、ソクラテス、プラトン、アリストテレス
  ・科学、修辞学、歴史学:ヒポクラテス(医学)、ヘロドトス(歴史学)、トゥキュディデス(歴史学)
  ・建築:フィディアス、プラクシテレス
 〈ペロポネソス戦争の帰結〉
  ・富裕層と貧民層の格差拡大、対立
  ・個々のポリスの主権喪失、重装歩兵の傭兵化


2.2.2.ヘレニズム(ギリシャ風)文明の波及


[マケドニア]
  ・マケドニア、セレウコス朝、プトレマイオス朝 → ギリシャ人移民に依拠
  ・ギリシャ人の移民現象:ギリシャ本国における社会の分極化 → ギリシャ文化は富裕な地主階級のものへ → 各地の富裕層にギリシャ文化を輸出 → ギリシャ人の大量移民
  ・ギリシャ語:アラム語を追い抜き、東地中海世界の支配的言語へ
 〈ヘレニズム文明〉
  ・中東文化とギリシャ文化の交流
  ・宗教の変化:ミトラ神信仰、セラピス神信仰
  ・天文学の発達:アリスタルコス、ヒッパルコス、プトレマイオス(ローマ時代)
 
[ローマ帝国]
   → B.C.146、マケドニアを属州に → ヘレニズム文明の浸透
 〈ローマ帝国のヘレニズム文明〉
  ・ラテン語により、イタリア、ガリア、スペインをヘレニズム化
  ・ラテン文学の発達:ルクレティウス、キケロ、ヴェルギリウス
  ・普遍的法体系の形成:ローマ法
 〈キリスト教の成立〉
  ・ユダヤ(中東)的要素(救済への期待、世界の終焉)とギリシャ的要素(三位一体説)の融合


2.2.3.文明(インド文明、中国文明)の反応


[インド文明]
 ・マウリヤ朝の成立(チャンドラグプタ・マウリヤ、アショカ)
   → ヘレニズム、ペルシアの影響(彫刻、王宮、柱)

[中国文明]
 ・中国の統一(B.C.221、秦) → ステップ諸民族の大移動を惹起
 ・儒学の政治化(前漢) → 支配者層、知識人層の画一化

[中央アジア]諸王朝の興亡
 ・匈奴の西進 → イラン語系部族の南西移動 → ギリシャ・バクトリア王国の滅亡 → 中国による安定化 → クシャナ朝、パルティアの建国による安定


・文明の交流の確立
 ・文明世界を結節する通商路の形成(ローマ文明-インド文明-中国文明)
   → 陸路(シルクロード等)
    ・重装騎兵戦術の採用 → ステップ遊牧民の軽装騎兵に対する防衛ラインの形成
   → 海路(インド洋のモンスーンを利用紅海-マラヤ半島-東南アジア)
 ⇓ 
・文明の接触:それぞれの文明に、根本的な変化をもたらさない
  → 〈芸術様式の伝播〉
    ・ギリシャ彫刻の仏教美術に対する影響 → インドを経て中国に到達
  → 〈世界宗教の成立〉
    ・文明の交錯地点で派生
    ・救済を特徴
      → ローマ帝国のギリシャ語地域:キリスト教の成立
      → 南インド:ヒンズー教の成立
            ・救済神として、シヴァ神とビシュヌ神の2神
            ・輪廻による上位のカーストへの転生
      → 北西インド:大乗仏教の成立(クシャナ朝)
             ・救済神として、菩薩の導入
   → 〈病原菌と疫病の伝播〉


■ A.D.200-A.D.600


2.3.1.インド文明の発展と波及


・東南アジア、東アジアに影響
[グプタ帝国(320-535)]チャンドラ・グプタ
 ・非政治的傾向
  → 〈ヒンズー教の保護〉
    ・法典「ダルマ・シャーストラ」 → カースト制度を明確に規定
    ・権威階梯:ヴェーダ → バラモン法典 → 聖者の規範 → 王
    ・宗教、法、神秘哲学、迷信の結合
  → 〈グプタ朝時代の文化〉宮廷、寺院、学校中心
    ・サンスクリット語の蘇生:
     ・地方語の差の拡大 → 共通語の必要性
     ・学校に拠点を置くサンスクリット学問集団が文化的主導権を掌握
    ・天文学・医学:ギリシャの影響、10進法の発明
    ・サンスクリット文学
     ・叙事詩:「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」
     ・サンスクリット劇(戯曲):カーリダーサ / ギリシャ劇の影響?
    ・グプタ美術:
     ・ヒンズー教美術 → 破壊されて現存遺物は少ない
     ・仏教美術:アジャンター石窟壁画

〈インド文明の波及〉
  → 東南アジア:ビルマ、スマトラ、ジャワ、マラヤ、タイ、ベトナム
   ・先住文化をもたないため、全面的なインド化
   ・インド宮廷生活の移植 → 独自化(600頃)
  → 東アジア:中国、朝鮮、日本
   ・(中国)仏教の受容
         → 儒教的価値観と激しく対立
         → 仏教の独自化
         → 仏教美術の伝播:幾何学的装飾 → 写実性
   ・(朝鮮、日本)中国文明の周縁に位置
         → インド文明を中国化の過程として仏教を受容
         → 弱い先住文化 → 根源的影響
  → イラン、ローマ:与えた影響は不明確
   ・インド修行僧の行とキリスト教の苦行に類似点
   ・ギリシャ、プロティノスの哲学とウパニシャッド哲学に類似点


2.3.2.ステップ遊牧民の侵入活動


〈ステップ遊牧民〉文明世界に侵入(200-600)
  → [イラン]侵入者を撃退
  → [中国]侵入者を同化吸収、3世紀半にわたる分裂と混乱の末、帝権を再統一(589、随の成立)
  → [ローマ]侵入者より弱化(378-511) → 軍人皇帝時代

[柔然]外モンゴルにおける成立と草原地帯への勢力の拡大 → 中国・トルコ(突厥)連合軍によって、崩壊
  → [フン族]南ロシアへの移動
     → [東ゴート族]滅亡
     → [西ゴート族]ローマ帝国に侵入(ローマ略奪)、イベリア半島に定住(西ゴート王国の建国)
  → [エフタル]イラン東部、インド北西部への侵入
    ・(インド北西部)グプタ朝を崩壊させた後、崩壊
    ・(イラン東部)ササン朝ペルシア・トルコ(突厥)連合軍によって、崩壊(554)
  → [トルコ(突厥)]柔然に代わり、草原地帯に帝国を形成 → 東西に分裂、内紛(572)
     → [随]北部諸民族を一掃し、中国を再統一(589)

[フン]ハンガリー平野に定住、バルカン、イタリア、ガリアに侵入
  → アッティラの死後(453)、帝国の瓦解
   → ゲルマン諸民族:服属から解放
    ・[ヴァンダル王国]北アフリカに建国
    ・[ブルグント王国]ガリアに建国
    ・[東ゴート王国]北イタリアに建国


2.3.3.文明(中国文明、イラン文明、ローマ文明)の反応


[中国(随、唐)]
 ・皇帝権力の強化
   → 蛮族の傭兵による国境守備軍の再建、外交・貢納
   → 官僚制度の拡充

[イラン(ササン朝ペルシア)]
 ・軍事力(重装騎兵)を、領主階級に土地を与えることにより賄う → いわゆる「封建制」
   → 分権化(領主階級の反乱等)の危機
   → ペルシアの後裔としての意識の涵養、ゾロアスター教の教化(『アヴェスター』)によって、領主階級の反乱心を解消

[ローマ(ビザンティン帝国)]
 ・キリスト教の国教化 → 帝権の教化
   → 教義論争を惹起
 ・軍事力(重装騎兵)を、ペルシアの「封建制」とは異なり、都市の税金と戦利品により賄う
   → 分権化の拒絶:都市中心の社会構造
    ・軍隊は、分権化をおそれて首都に在中
    ・都市中心の古代社会との連続性の確認(「ローマ法」の成文化)


■ A.D.600-A.D.1000


2.4.1.イスラム文明の成立


[イスラム]成立と隆盛期
 ・指導者:マホメット → アブー・バクル → ウマル
 ・イスラムの拡大:アラビア地方の統一(632)、メソポタミア(641)、エジプト(642)、イラン(651)、インダス下流域(715)、北アフリカ、スペイン(711-715)

[イスラム(ウマイヤ朝)]退潮期
 ・ 715年以降の挫折:ビザンティウム包囲戦の失敗(717-718)、イラン東部からの撤退(715まで、トルコ軍による)、トゥール会戦の敗北(732、フランク軍による)
   → イスラム共同体の内部における矛盾の表面化 → 内乱の勃発(744)
    ・(アラブ人に対して)宗教的リーダーとしての権威失墜
    ・(アラブ人以外に対して)アラブ人との待遇格差

[イスラム(アッバース朝)]再建期
 ・アラブ人の特権的地位の剥奪 → 非アラブ人の要求に合致 
 ・軍事・政治的指導と宗教的指導の分離 → 宗教的立法権をウラマー(イスラム神学の学者集団)に委任
   → 同様に、他の宗教集団(ユダヤ教、キリスト教)に対しても、自律性を保証
 ・弱点
  ・シーア派の反抗(イスラム内部の人種差別、経済格差) → 反乱の多発 → 小国家の分離(800年以降)
  ・北方国境地帯における草原地帯からの圧力 → トルコ人傭兵による政治上の実権の侵食


2.4.2.周縁文明の派生


・従来の文明地帯の周縁部に、様々な文明の諸要素からなる半文明化された生活様式が浸透
  ・ b.c.2000頃、メソポタミア文明の周辺部における文化の多様な派生と同様の現象が、大規模な再現
  ・固有の言語を保持、境界を接する中心的文明の宗教とは、異なる宗教を採用
   → 中心的文明に対して、地域的・文化的な独立を保持するため

〈ローマ文明の周縁〉
  → [西ヨーロッパ]ケルト、ゲルマン、スラヴ → キリスト教世界の境界内へ → 文明の完全な浸透
  → [東ヨーロッパ]トルコ系ハザール人(ユダヤ教を採用)

〈中国文明の周縁〉
  → [中央アジア]トルコ系ウイグル(マニ教を採用)
  → [中国の北東外縁部]朝鮮(仏教を採用)、日本
  → [中国南部]安南、雲南
  → [中国東部]チベット(中国文明とインド文明の中間)

〈インド文明の周縁〉
  → [インド北部]カシミール、ベンガル

〈イスラム文明の周縁〉
  → [アフリカ東部]エチオピア(モノフィジート派キリスト教)、ヌビア(モノフィジート派キリスト教)
  → [アフリカ西部]ガーナ(土着宗教)


2.4.3.文明(中国、インド、ヨーロッパ)の反応


・イスラム教の圧力 
  → 抵抗するために、ヒンズー教世界、キリスト教世界は、自己の特性を強化
  → 中国には少ない影響

[中国]伝統の保持
 ・仏教の一時的隆盛と敗退
 ・新儒教の形成:外国的なものの排除と中国的なものの保護
   → 以後、中国の歴史を単一な性格に
 ・科挙:
   → 均質な官僚集団の形成、価値体系の共有
   → 社会的流動性を保証

[インド]イスラムの拒否とインド化の伸展
 ・ヒンズー教の教義に関するイスラム教からの防衛(シャンカラ)
 ・ヒンズー教の大衆化(庇護者が宮廷から寺院へ)

[ヨーロッパ]制度の根源的な変化
 ・3度の蛮族侵入と2つの安定期
   → 第1の蛮族侵入:ゴート、ブルグンド、ヴァンダル、フランク、アングロ・サクソン
   → 安定期:フランク王国の統一、ユスティニアヌス帝によるローマ帝国の一部再建
   → 第2の蛮族侵入:アヴァール(ロシア南部からハンガリー平原)、ランゴバルド(イタリア)
   → 安定期:ビザンティン帝国の小アジアにおける復権、ブルガリア王国の建国(679)、ピピンによるメロヴィング朝の実権掌握(687)
   → 第3の蛮族侵入:マジャール人(ハンガリー人 / 南ロシアからハンガリー平原)、北アフリカのイスラム諸国による地中海の海賊行為、ヴァイキングによる海賊行為
 ・1000年以降の力関係の逆転
   → イタリアの海軍力の伸長
   → ロシア(898)、ハンガリー(1000)、スカンディナヴィア3王国(デンマーク、スウェーデン、ノルウェー)のキリスト教への改宗
 ・封建制度の開始
   → [ビザンティン帝国]都市の地方に対する優位性の喪失
   → [カロリング朝]中央権力の分散化
 ・技術革新
   ・鐙の普及 → 槍騎兵戦術の採用
  ・大型犁の普及 → 農業の伸展 → 多くの騎士の維持に成功
  ・ヨーロッパ北部における商業の発展 → 独立心の気風をもった商業階級の形成


■ A.D.1000-A.D.1500


2.5.1.ステップ地帯の遊牧民による侵入と征服

[トルコ人]
 ・傭兵としてイラン、イラク、シリア社会に浸透
 ・イスラムの拡大
   → インド:ガズニ朝マフムードのインド遠征、ヴィジャヤナガル王国の滅亡(1565)
   → 小アジア:セルジュク朝(1171、マンジケルトの戦い)
   → ウクライナ:キプチャクの侵入  
   → バルカン半島:オスマン朝(1389、コソボの戦い / 1453、コンスタンティノープル占領)

[モンゴル人]
 ・トルコの伸長を一時中断
 ・シャーマニズム信仰
   → モンゴル帝国の西部:イスラムに改宗(1257、中東 / 1295、ペルシア)
   → 中国:ラマ教に改宗 → 中国人との同化を忌避

[オスマン帝国]
 ・封建制度の採用 → 諸侯の分権化 → イエニチェリ(従卒による常備軍)の創設により解決


2.5.2.文明(イスラム、インド、東方キリスト教世界、中国)の対応


[イスラム]
 ・「律法」のマンネリ化 → スーフィズム(神秘主義)の勃興
 ・スーフィズム:
   → 周縁のイスラム化:ステップ中央部・西部、小アジア、アフリカ東部・西部、シリア・パレスティナのキリスト教の消滅
   → イスラム文化の変質:ルーミー、サーディー、ハーフィズ
   → 学問の体系化:
    ・イブン・シーナ『医学典範』、アル・ビールーニー、アル・ガザーリー
    ・1200年以降、衰退

[インド]
 ・ヒンズー教の大衆化
   → 寺院という中心拠点の喪失 → 祭儀の地域化
   → シク教団の創設(ナーナク)
   → サンスクリット語の放棄 → ヒンディー語の使用

[東方キリスト教世界]
 ・ラテン的(ローマ・カトリック)世界の膨張の犠牲者へ
   → 1054、東西の教会分裂
   → トルコ人による小アジア(オスマン帝国)、南ロシアの喪失(キプチャク)
   → イタリア商人の襲来、ノルマン人による南イタリア、シチリア島の略奪、第4回十字軍(1204)
 ・ビザンティン文学:アンナ・コムーネ『アレクシド』、叙事詩『ディゲニス・アクリタス』

[中国]
 ・モンゴルの支配
   → 一時的な影響
 ・明王朝
   → 中国の正統的文化の強調
    ・朱子:新儒教の完成
 ・官僚の社会的優位性
   → 革新が一時的にとどまり、社会変革に直結しない
    ・製鉄産業の発展
    ・海外交易の伸展、鄭和の南海遠征 
    ・火薬、印刷術、羅針盤の発明
  

2.5.3.西欧文明と日本文明の発展

・共通点:
 ・高度に発達した文明と隣接(西欧に対するビザンティン文明、日本に対する中国文明)
 ・軍事中心の傾向
 ・他文明の文物に対する熱烈な摂取欲、柔軟な成長能力

[西ヨーロッパ]
 ・ラテン・キリスト教圏の拡大
   → スカンディナヴィア:ノルウェー、アイスランドの改宗
   → 西ケルト:アングロ・ノルマンによるウェルズ、アイルランドの侵入
   → ドイツ騎士団による東方植民
   → バルト海沿岸:プロシア、ラトヴィア、エストニアの占領
   → ポーランド、ハンガリーのドイツ化
   → ノルマン人による南イタリア、シチリアの占領
   → スペイン・ポルトガルによるレコンキスタ
   → 十字軍による遠征:エルサレム、エーゲ海、北アフリカ、エジプト → 一時的にとどまる
 ・内的統合:急激な変転
  〈経済強化〉
   ・新農地の拡大(14c.頃まで)
   ・都市の成長(14c.頃まで)
     → 例外:バルト海沿岸、中・北イタリア、ドイツ中部
   ・商人階級が、地理的好条件に恵まれれ、海上輸送を発達させる
     → 低下な日常消費財の市場を形成
  〈政治統合〉
   ・1期:皇帝主導による政治統合の試み
   ・2期:教皇主導による教会改革の試み(~1254)
   ・3期:
     → (イギリス、フランス)国王権力の伸長、教皇との提携、地方権力の抑圧
     → (ドイツ、イタリア)地方権力(都市国家、小王国)の伸長
     → 教皇権の没落:アヴィニョン幽閉(1307、クレメンス5世)、2教皇(1378-1417)、コンスタンツ公会議(1414-17、ジギスムント)
   ・代表議会制度の発展
     → 教会における教会法、世俗政治における統治者と臣下の伝統的関係に源流
     → 主要な王国では、税をめぐり、利益代表者(都市代表者、上級聖職者)と協議する体制へ
  〈文化統合〉
   (1000-1200)アラビア、ビザンティン文化の貪欲な吸収
    ・アラビア語からラテン語への翻訳活動(スペイン、南イタリア)
      → アリストテレス哲学の輸入
    ・騎士道精神の理想
    ・聖アンセルムス、ペトルス・アベラルドゥス、グラティアヌス、イルネリウスらの活躍
    ・ロマネスク建築
   (1200-1300)信仰と理性の緊張関係、中世文化の極点
    ・トマス・アクィナス、アルベルトゥス・マグヌス、聖ボナヴェントラ、ロジャー・ベーコンらの活躍
    ・托鉢修道士(聖フランチェスコ、聖ドミニクス)の活躍
    ・ダンテ『帝政論』『新曲』
    ・ゴシック建築
   (1300-1500)イタリアを除いて、衰退
    ・(イタリア)ローマ文化の意識的再生
      ・キケロの研究
      ・ルネサンス建築
      ・絵画における空気透視図法、線遠近法の発明
    ・(その他の国)文化の行き詰まり
      ・百年戦争、農民反乱、ウィクリフ派やフス派による異端運動

[日本]民族的均質性、狭い地理的範囲 → 十分な発展を阻害
 ・武士階級の台頭
   → 中世ヨーロッパの封建制と酷似(衰微した西欧の教皇権と日本の皇室の宗主権の残存)
 ・水稲稲作による集約農耕 → わずかな剰余生産 → 勤勉な大衆を形成   
 ・遠洋航海の発展 → 海賊行為の横行(倭寇) → 独立心の強い中産階級の形成 → 都市の発達
 ・軍記物、大和絵、茶道
 ・禅宗、浄土宗の形成
 ・神道の形成 → 外的世界との接触に促されて、日本の独自性を認識


--------------------------------------


最後に、これまで記したノートは、ほぼ本書全体の構成を俯瞰できるようにとられてある。なので、アウトライン機能のついたエディタで表示すると、こういうふうになる↓

マクニール


本の中身を、こうして階層構造で認識できると、とても便利じゃない?
例えば、マクニールの記述が、どれだけ秩序だてて論理的に構成されているかというのが、このアウトライン部分を眺めているととよくわかるでしょ?

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先月、二、三週間ほどかけてみっちり読み込んだ本が、これ。


〈書籍〉ウィリアム・H. マクニール 『世界史』 上、第4版、2008


マクニール「世界史」の上巻は、主要な4つの文明(中東、ギリシャ、インド、中国)を主役に据えて、その成立と発展の過程として人類の歴史を描く。その際に、本書を通底する視角は、第一に、文明(農耕文明)間相互、第二に、文明(農耕文明)と野蛮(遊牧文化)の対立、交流、影響である。
 

この上巻は2部から構成されており、第1部(先史時代- B.C.500年)では、主要な4文明の成立を、第2部(B.C.500年- A.D.1500年)では、その後の4文明の発展とそれら相互の関係の基本的な平衡状態、および周縁文明である西欧文明、日本文明の台頭までを扱う。
 

注目して欲しいのは、ここで記した「主要な4つの文明」とは、いわゆる四大河文明と一致しない。シュメール文明は、やがてメソポタミア文明へと発展を遂げ、後にエジプト文明と融合することによって、一括して「中東(オリエント)文明」として扱われる。代わりに、主役の一つとしてギリシャ文明が設定され、後にヘレニズム文明(マケドニア、ローマ)へと成長し、西欧文明という「周縁文明(準文明)」を派生する母体となる。 


日本も、日本文明として本書に登場する。西欧文明と同様に、文明の「周縁」から派生し(日本の場合は中国文明の、西欧の場合はギリシャ文明の、それぞれ「周縁文明(準文明)」として描かれる)、またそれによって日本文明と西欧文明との文明類似性が指摘される。上巻の最終部分では、文明の「周縁」に派生した西欧文明と日本文明が急速な成長を遂げ、主要な4文明と肩を並べたところで幕を閉じる。
 

以下は、この本を読みながら作成した読書ノート【完全版】である。
もちろん、いつもこんなノートをつくっているわけではない。
果てしなく茫洋とのびる歴史の海に溺れないために必要だったから、といちおう言い訳をしておく。



□ 第1部(先史時代-B.C.500)


1.1.1.第1部概観

◎ユーラシアに4つの文明(中東文明、ギリシャ文明、インド文明、中国文明)の成立
  → 1:食糧生産の発達(B.C.8500-B.C.7000)
    ・狩猟採集 → 農耕牧畜:人口の増加が可能に
  → 2:文明の成立(B.C.4000-B.C.3000)
    ・農産物の余剰
      → 専門的技能者の出現
      → 組織の社会化(=複合社会(=文明)の成立
    ・立地は、地理的要因に制限(灌漑地域(=河川流域の氾濫原))
      → メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明の成立
  → 3:文明の拡大(B.C.3000-B.C.1700)
    ・犁の発明 → 降雨地域における定着農耕が可能に → 周縁文明の成立
  → 4:ステップ遊牧民の侵略(B.C.1700前後)
    ・戦車の発明 → ステップ地帯のインド・ヨーロッパ語族の活動を活発化:
      ・ヨーロッパ、インド、中国への征服活動
        →ギリシャ文明、インド文明、中国文明の成立 
      ・中東への征服活動
        → 根本的な影響をもたらさず
        → 中東文明(メソポタミア文明+エジプト文明の融合)の成立
 

■ B.C.4000年以前


1.2.1.ホモ・サピエンスの出現


〈原人類の出現〉50万年前まで
 ・木器、石器、火の使用、初歩的言語、狩りの協同

〈ホモ・サピエンスの出現〉3万年前まで
 ・原人類と現人類(ホモ・サピエンス)の相違点
   ・ 幼少期、少年期の長さ → 学習能力の増大:生物的進化に対して文化的進化が優位性をもちはじめる
 ・人種的変化
 ・3万年前:大陸氷河の後退(生態学的変化) → 豊かな植生、食料源(肉食獣)の出現 → 様々な発明(毛皮等)

〈農耕の開始〉B.C.8500-B.C.7000
 ・狩猟採集 → 植物栽培、家畜飼育:食糧生産社会の誕生
 ・焼畑農耕
 ・遊牧民集団 → 村落共同体
 ・(中東)穀物中心:小麦、大麦
 ・(アジアモンスーン)根菜植物中心

〈都市の成立〉B.C.7000年以後
 ・定住村落の成立
 ・資源立地 → 都市は孤立
   → ジェリコ(黒海の塩)、チャタル・ヒュユク(黒曜石)


■ B.C.4000-B.C.1700


1.3.1.シュメール文明の成立


[シュメール文明]B.C.4000-B.C.3000
 ・最古の文明
 ・大河下流域 → 灌漑によって収穫可能 → 労働力の組織化と管理エリートの発生、職業の分化をもたらす
 ・発明:暦(時間の測定の必要性) → 神官の地位向上
 ・宗教:自然の人格化(天の神アヌ、嵐の神エンリル)
 ・文字:楔形文字 → 知識の蓄積が可能
 ・君主制:王権は神々の代理人として発達
 ・各都市の独立性 → 統一政権の樹立を阻害


1.3.2.メソポタミア文明の発展と波及


・初期農耕文化(焼畑農耕)の2つの変容
  → 〈遊牧民社会の成立〉
    ・家畜飼育の採用、植物栽培の拒絶 → 遊牧民文化(新石器農耕文化の変種)の形成
    ・(メソポタミアの北)ステップ地帯:牛、馬などの大型獣
    ・(メソポタミアの南)アラビアの砂漠地帯:羊、山羊、ロバ
    ・以降の人類史において、農耕文明と遊牧民文化は、歴史の対立軸を形成

  → 〈犁を使う農耕社会の成立〉
    ・犁の発明:穀物栽培に家畜の力を応用
      → 完全な定着生活を可能
      → 〈文明の波及〉降雨地帯でありながら灌漑の及ばない地域への文明の波及が可能
        (メソポタミア文明周辺)
         ・カッシート人
         ・カナン人
         ・エラム人
         ・フルリ人
         ・ステップ地帯遊牧民:
           → 青銅器を得て、侵略活動を活発化 → 西ヨーロッパ、イラン、インドに展開
            ・西欧、インドのインド・ヨーロッパ語化
        (エジプト文明周辺)砂漠に囲まれ、文明の波及は阻害
        (インダス文明)ガンジス流域、インド南部に文明の波及の可能性
        (その他)
         ・ミノア(クレタ)文明
         ・巨石文化:マルタ島を拠点に、北アフリカ、西ヨーロッパ、スウェーデン沿岸部

[メソポタミア文明]灌漑文明
 ・シュメール文明 → メソポタミア文明
 ・シュメール語 → アッカド語
 ・帝国(統一権力)の形成
  ・統治手段の発達
    → 官僚制、法、市場の形成 → 遠隔地の統治が可能
  ・政治的中心:シュメール → アッカド(サルゴン) → バビロニア(ハンムラビ)

[エジプト文明]B.C.3000、灌漑文明
 〈古王国〉
  ・シュメール文明の影響
  ・メネス王によって統一
  ・帝国内の資源と富が、王(ファラオ)に一極集中
  ・ナイル川の影響
    → 両側が砂漠 → 外敵の侵入の危険が少ない
    → 航行の容易さ → シュメール文明とは異なり、中央集権的行政が可能
 〈中王国〉
  ・一極集中から文化的主導権の地方への拡散
    → のちにヒクソスの侵入を受けても、文明の存続が可能

[インダス文明]B.C.3000、灌漑文明
 ・シュメール文明の影響
 ・詳細は不明
 ・アーリア人の侵入によって、文明は崩壊

[その他地域]
 ・技術の分化や広範な政治組織化は発達せず
  → (東アジア)
    ・黄河中流域 → 黄土地帯 → 焼畑の必要性なし、粟、稗中心
  → (東南アジア)
    ・モンスーン・アジア → 根菜類、米作に適性
    ・米作 → 中東文明の畑地農耕よりも労働力の集約の必要性、高い生産性 → 高い人口密度を維持
  → (南北アメリカ)
    ・トウモロコシ栽培

 
■ B.C.1700-B.C.500


1.4.1.オリエント(中東)文明の形成


〈戦車戦術の発明〉B.C.1700頃
 ・ステップ遊牧民によって開発 
 ・蛮族の征服活動(1)
   → (インド)アーリア人の侵入 → インダス文明の崩壊 → インド文明の形成
   → (クレタ)アカイア人の侵入 → クレタ文明の崩壊 → ギリシャ文明(ミケーネ)の形成
   → (中国)殷人による中国侵略 → 殷王朝の成立
   → 〈中東〉影響は一時的に限られる
     ・(メソポタミア)カッシートの侵入 → すぐに追放(B.C.1570頃)
     ・(エジプト)ヒクソスの侵入 → すぐに追放(B.C.1370頃)
     ・中東三帝国の成立
      ・エジプト新王国
      ・アッシリア帝国
      ・ヒッタイト

〈鉄器の発明〉B.C.1200頃
 ・鉄製農具の使用 → 都市(商人)と地方(農民)の交易の確立 →地域的分業体制の確立 →  文明地域の社会分化と分業が、地方に波及
 ・蛮族の征服活動(2)
   → (イラン)リディア人、ペルシャ人
   → (シリア・パレスティナ)ペリシテ人、アラム人、ヘブライ人
   → (エーゲ海地方)フリュギア人、ドリース人
   → 〈中東〉
     ・(メソポタミア)アッシリア帝国 → イスラエル人、バビロニア人の反乱に悩まされる
     ・(エジプト)新王国 → 3度侵入を撃退(B.C.1220-B.C.1165)

〈騎馬戦術の発明〉B.C.850-B.C.700
 ・蛮族(スキタイ人)の征服活動(3)
   → アッシリア帝国の滅亡(B.C.612)
   → メディア、バビロニア、エジプトによる3分割
    ⇓
  [ペルシャ帝国]B.C.551-B.C.330
   ・中東を統一(キュロス、カンビュセス、ダレイオス)

[オリエント文明の特徴]3つの要素
 ・1:統治システム
    ・商業的利益 → 常備軍の維持が可能 → 官僚制の拡大と長期化が可能
     ・商人の権利の保護 、兵役免除、道路の保護 
 ・2:アルファベット文字の発明  →  知識の大衆化、継続化
 ・3:倫理的一神論の出現
    ・多神教からの脱却
     → (メソポタミア)文化的分水界で発達
       ・初期ユダヤ教
        ・アブラハム:ヘブライ人の起源
        ・エジプトへの隷属、シナイ半島でのヤハウェとの誓約、モーゼの立法
        ・カナン(パレスティナ)侵入
        ・エルサレム王国(ダビデ、ソロモン)の繁栄と腐敗 → 預言者(アモスら)は、ヤハウェを部族神から普遍神へ
        ・バビロンの追放生活
          → 制度的発展:神殿礼拝からラビの集会へ
          → 思想的変容:「最後の審判」(イザヤ)
       ・ゾロアスター教
        ・善悪二元論(アフラ・マズダ、アーリマン) → 初期ユダヤ教に影響か?
        ・ペルシャ人以外に信仰されない
     → (エジプト)
       ・アトン信仰(アメン・ホテプ4世) → 弾圧を受ける → エジプトは、内的世界に保守化


1.4.2.インド文明の成立


〈インドの発展〉
 ・アーリア人の侵入(B.C.1500頃)と拡大
  ・焼畑農耕 → 土地移動の必要性
 ・鉄の導入(B.C.900頃)
   → 武器の大衆化 → 平等主義的小国家の乱立
   → 密林の伐採 → ガンジス川流域に肥沃な農地の開拓
   → 米作の確立 → 高い人口密度、完全な定着農耕、永続的村落 → 生産性の上昇、剰余生産 → 大君主国の成立

[インド文明の特徴]
 〈カースト制度〉
  ・「清浄」観念 → カースト間の接触を制限
  ・渡来集団の集団的自律性を保証(固有の習慣、風俗) → 他集団に対する寛容性
  ・「ヴァルナ」制と転生思想 → 表面上の不平等・不公平を除去
   → 領土国家の意義を弱化
   → 新しい集団を容易に吸収 → 未開、古代の思考・行動パターンを保存
 〈宗教〉禁欲主義、神秘主義
  ・アーリア系宗教
   ・原典「ヴェーダ」
   ・自然要素の人格化(雷と暴風の神インドラ) → メソポタミア的世界観の影響
   ・注釈書「ブラーフマナ」 → 宗教儀礼の煩雑化 → 神官の地位向上
  ・ウパニシャッド
    → アーリア系の神官尊重の信仰と対立
   ・輪廻転生からの解放 → 来世の重視
   ・自己修練による真理への到達 → 禁欲主義
   ・体調の異常や幻覚に対する意味づけ
  ・ヒンズー教の成立
   ・ヴェーダとウパニシャッドの融合
   ・神官の儀式への執着
   ・神秘主義への渇望
    → 大衆化に成功
  ・ジャイナ教と仏教の成立
   ・ウパニシャッドの思想の一般化
     → 両者とも、輪廻転生からの解放を目標
   ・ジャイナ教(マハーヴィーラ):禁欲主義
   ・仏教(ゴータマ):中道の重視(八正道)
     → 大衆化に失敗:人生の危機的時期に対応する儀礼がない → バラモンの儀礼主義を保存


1.4.3.ギリシャ文明の成立


[ポリス]
 〈ポリスの成立〉
  ・ミケーネ人の侵入(B.C.1400、戦車) → ミノア文明の崩壊
  ・ドーリア人の侵入(B.C.1200、鉄器) → ギリシャ人のイオニア地方への移住 → 共通の法体系の整備 → 都市国家の誕生
  ・都市国家:領土に基礎を置く政治単位を、他の人間組織よりも優先

 〈ポリスの発展〉
  ・植民と貿易
   ・人口増加 → 海外植民 → 貿易の促進 → 葡萄酒、オリーブ油の輸出による利益 → 穀物生産供給を超える人口の増加が可能 → 大都市の形成
   ・農民の市場への主体的参加 → 仕事の余暇に公共の行事に参加可能
  ・ファランクスの影響
   ・政治参加の基礎を形成
   ・軍隊の規律に対する絶対服従 → ポリスへの協調と協力 → 自己主張はスポーツ分野へ(オリンピア祭典)

[ギリシャ文明の特徴]ポリス制度との強い制約
 ・インド文明とは異なり、個人の内的救済や信仰を排除
   → ポリスの要請する忠誠と対立するため → ギリシャ諸都市間の内紛の遠因
 ・宗教:ギリシャ神話
     ・オリンポス神と在来信仰との2系統の神話の不調和
      → デルフォイ神殿の神官、ホメロス、ヘシオドスによる統合の失敗 → 論理的混乱 → 思弁の端緒 → 哲学の誕生
      → 公的宗教儀礼における2系統の混合
 ・美術:神々を表彰 → 建築・彫刻の発展、人間は個々としてではなく理想美として表現
 ・文学:ホメロスによる英雄的な個人表現を、ポリスの集団としての主張に同化 / ポリスの求める自己没却の要請に接続
 ・科学(イオニア):宇宙の現象を説明するさいに、神の存在を消去(中東的有神論の否定) → 自然法則の設定 / ポリス観を外縁に投影


1.4.4.中国文明の成立


[殷(B.C.1525-B.C.1028)]
 ・青銅器、車 → 戦車
 ・甲骨

[周]
  → [西周(B.C.1028-B.C.771)]
  → [東周(B.C.770-B.C.256)]
     → 〈戦国時代(B.C.403-B.C.221)〉
       ・文化圏の拡大:中国北東部、南部
       ・中国的思想の形成:
        ・易姓革命
        ・一個人の貴族に知識の集合化を要請 ⇔ 中東では、知識は専門分化

[中国文明の特徴]官僚制的中央集権化に都合のいい社会体系
 〈儒教と道教〉相互に補完しあい、安定的な中国思想を形成
  ・儒教:礼節と自己抑制
      古典の編纂、集中的研究 → 中国的な価値体系の形成
  ・道教:人間の情熱、自然の神秘についての考察

1.4.5.未開人の世界の変化

〈文明圏の波及〉
 ・フェニキア人、エトルリア人、ギリシャ人の植民活動(B.C.800頃) → 地中海地方(北アフリカ、シチリア、イタリア)

〈ステップ遊牧民文化の波及〉
 ・騎兵戦術の普及(B.C.900頃)
 ・遊牧民の移動は、東から環境のよい西に向かって移動(スキタイ人、トルコ人)
 ・スキタイ人:中央アジア → 南ロシア → ギリシャ人と交易、影響
 ・ケルト人:南ドイツ → 西ヨーロッパ全般(フランス、スペイン、ブリテン島等) → ギリシャ人、フェニキア人と交易
 ・中国における周都の攻略(B.C.771)
   → その後、ドンソン民族を征服か


(第2部につづく)


-----------------------------------

・誤記:「穀物飼育」(p.73) → 「穀物栽培」だろう、笑。穀物栽培と家畜飼育を混同したか。 
・表記の不統一:「メネス王」(p.76)「メネ王」(p.80) → メネス王が正解か? 
・表記の不統一:「ドリース人」(p.115)「ドーリス人」(p.166) → ドーリス人が正解か?もっともドーリア人のほうが一般的だろう。 
・誤記?:「イオニアの文化的な背景」(p.179) → 「インドの文化的な背景」か? 
・誤記?:「ギリシャとイオニアの制度」(p.180) → 「ギリシャとインドの制度」か?


世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)/ウィリアム・H. マクニール
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久々の読書感想文。


〈書籍〉藤森照信 『フジモリ式建築入門』 ちくまプリマー新書、2011


とにかく最高だった。私は図書館で借りて読んだが、今年のベストバイだ。本書の特徴は、第一に、噛み砕いた明快な解説であり、第二に、ポイントを押さえた通史であり、第三に、細部よりも全体像の明示、第四に著者の独自の見解やユーモア等があげられよう。


入門書であってもその奥行きはかなり深い。本書の扱う対象は、旧石器時代から青銅器時代の遺跡群、西洋建築におけるビザンティン様式から歴史主義、日本建築における竪穴式住居から数寄屋建築に及ぶ。また、そこに差し込まれる著者の知見の源泉は、建築学のみならず、時として歴史学、人類学などの学問分野にまで延びてゆく。「建築とは何か」という問いに対して、著者なりに正面から答えを提示しようとしているのは、これまでになされた建築巡礼を総括する時期に入ったからか?ともあれ、あとがきにも言及されているとおり、モダニズム以降の現代建築については、著者はもう一冊上梓する必要があるだろう。というわけで、続編が出版される日を今から心待ちにしている。


以下は、本書でとりあげられた建築メニューをリストアップしたものだ。しかし、この本の面白さは、どのような解釈の針と糸でもってこれらの建築物群を貫くかにあるのであって、その衒学ぶりにあるのでは全くないことを強調しておく。なので、下に掲載したメモで興味を持たれた方は実際に実物を手にとってみて欲しい。



Ⅰ 文明以前


■旧石器時代(※ 内部空間の誕生)

・ラスコー洞窟(約15000年前 / ドルドーニュ県、仏)

■新石器時代(※ 外観の獲得、太陽信仰)

・ロクマリアケールのメンヒル(B.C.4000頃? / モルビアン県、仏)
・カルナック列石群(B.C.2000頃? /モルビアン県、仏)
・カラニッシュ列石群(B.C.2000頃? /ルイス島、スコットランド)
・ムーアヘッドサークル(シンシナティ、オハイオ州、米)
・大湯環状列石(B.C.4000頃? / 秋田県鹿角市、日)
・三内丸山遺跡、掘立柱(B.C.4000頃? / 青森県青森市、日)
→・イサム・ノグチ庭園美術館(香川県高松市、日)

■青銅器時代(※ 立体構造の極限、太陽信仰の延長)

・ギザのピラミッド(紀元前2540頃 / ギザ、エジプト)
・ウルのジッグラト(イラク、現存せず)

→◆日本の古墳、立柱
 ・大仙陵古墳(5c. / 百舌鳥古墳群、大阪府堺市、日)
 ・箸墓古墳3c. / 纒向遺跡、奈良県桜井市、日)
 ・御柱、諏訪大社(長野県諏訪市・茅野市、日 / ミシャグジ信仰?)
 ・心御柱、伊勢神宮(三重県伊勢市、日)
 ・岩根御柱、出雲大社(島根県出雲市、日)

→◆中南米のピラミッド
 ・太陽のピラミッド、月のピラミッド(紀元前2~紀元6c. / テオティワカン、メキシコシティ、墨)
 ・マヤのピラミッド(8~13c.)
  →・大ジャガーの神殿(ティカル、グアテマラ)
  →・カラクムル遺跡(カンペチェ州、墨)


Ⅱ 西洋建築


■ギリシャ

・パルテノン神殿(アテネ、希)
・エレクテイオン(アテネ、希)

■ローマ

・コロッセウム(ローマ、伊)
・凱旋門(ローマ、伊)
・パンテオン(ローマ、伊)
・水道橋(セゴビア、西)

■ビザンティン様式

・ハギア・ソフィア大聖堂(イスタンブール、土)
・サン・ヴィターレ大聖堂(ラヴァンナ、伊)
・サン・マルコ大聖堂(ベネチア、伊)

■ロマネスク様式

・サント・マドレーヌ大聖堂(ヨンヌ県、仏)
・ル・トロネ修道院(ヴァール県、仏)
・クリュニー修道院(ソーヌ=エ=ロワール県、仏)
・シュパイアー大聖堂(ラインラント=プファルツ州、独)
・ピサ大聖堂(ピサ市、伊)
・サン・ミゲル・デ・リーリョ教会(オビエド、アストゥリアス州、西)
・サンタ・マリーア・デル・ナランコ教会(オビエド、アストゥリアス州、西)

■ゴシック様式

・アミアン大聖堂(ソンム県、仏)
・シャルトル大聖堂(ウール=エ=ロワール県、仏)
・ケルン大聖堂(ケルン、ノルトライン=ヴェストファーレン州、独)

■ルネサンス様式

・サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のドーム(フィレンツェ、伊、通称フィレンツェ大聖堂 / ブルネレスキ設計)
・捨子養育院(フィレンツェ、伊 / ブルネレスキ設計)
・サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の正面(フィレンツェ、伊 / アルベルティ設計)
・ルチェッライ邸(フィレンツェ、伊 / ブラマンテ設計)
・サン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂のテンピエット(ローマ、伊 / ブラマンテ設計)
・サン・ピエトロ大聖堂(ローマ、伊 / ミケランジェロ設計)

→◆マニエリスム
 ・ロレンツォ図書館(フィレンツェ、伊 / ミケランジェロ設計)
 ・カンピドリオ広場(ローマ、伊 / ミケランジェロ設計)
 ・パラディオ

■バロック様式

・サンタンドレア・アル・クィリナーレ聖堂(ローマ、伊 / ベルニーニ設計)
・サン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂(ローマ、伊 / ボッロミーニ設計)
・サン・ロレンツォ聖堂(トリノ、伊 /グァリーニ設計)
・サンティッシマ・シンドーネ礼拝堂(トリノ、伊 /グァリーニ設計)
・ザンクト・ヨハン・ネポムク聖堂(ミュンヘン、バイエルン州、独 / アザム兄弟設計)
・ルーヴル宮殿東面(パリ、仏))
・ヴェルサイユ宮殿(イヴリーヌ県、仏)

→◆ロココ様式

■新古典主義(18c.前半、ネオ・クラシシズム)

・サント・ジュヌヴィエーヴ聖堂(パリ、仏、通称パンテオン / ジャック・ジェルメン・スフロ設計)
・ホーカム・ホール(ノーフォーク、英 / ウィリアム・ケント設計)
・ロバート・アダム
・クロード・ニコラ・ルドゥー
・エティエンヌ・ルイ・ブーレー
・明治生命館(東京 / 岡田信一郎設計)

■グリーク・リヴァイヴァル(19c.前半)ペディメントを列柱が支えるだけの建築

・大英博物館(ロバート・スマーク設計)
・ベルリン王立劇場(ベルリン、独 / カルル・フリードリッヒ・シンケル設計)
・ベルリン旧博物館(ベルリン、独、通称アルテス・ムゼウム / カルル・フリードリッヒ・シンケル設計)
・満州中央銀行(中 / 西村好時設計)

■ゴシック・リヴァイヴァル

・ウェストミンスター宮殿(ロンドン、英 / オーガスタス・ピュージン、チャールズ・バリー設計)
・ヴォティーフ教会(ウィーン、墺 / ハインリヒ・フォン・フェルステル設計)
・セント・パンクラス駅(ロンドン、英 / ジョージ・ギルバート・スコット設計)

■他

・泥の大モスク(ジェンネ、マリ)
・サンフランシスコ・デ・アシス教会(サンタフェ、ニューメキシコ州、米)



Ⅲ 日本建築


■竪穴式住居系(B.C.5000 / 縄文 / 茅葺き)

・上野原遺跡(鹿児島県霧島市)

→◆民家(広間型平面、田の字型平面)
 ・江川邸(静岡県伊豆の国市)
 ・箱木家住宅(神戸市)

■高床式住居系(B.C.5C. / 弥生 / 桧皮葺き)

・登呂遺跡(静岡県静岡市)

→◆寝殿造り

→◆書院造り
 ・二条城二の丸御殿(京都市)
 ・矢篦原家住宅(横浜市三渓園内)

■中国式(礎石、丹、瓦)

→◆寺院建築、官庁(大極殿、朝集殿)

■草庵風茶室

・妙喜庵待庵(京都府乙訓郡大山崎町)


今読んでる本は、、、


〈書籍〉 瀧井一博 『伊藤博文』 中公新書、20102010年度サントリー学芸賞 政治・経済部門


このような歴史の専門書籍に手を出すと、著者によってなされる時代や人間の解釈よりも、そこに引用せられた一次資料、二次資料から読み取れる当時の実相や人間の内面のほうが面白いことが往々にしてある。


以下の読書メモは、したがって、著者の用意してくれたストーリを勝手に逸脱して、自分の都合にあわせてまとめたものだ。この意味において、僕はあまりいい読者ではないだろうけども、いや、それも読書の愉しみのうちか、、、。
それにしても、こんな本格的な歴史関連の本を読むのはどれくらいぶりだろう?



第一章 文明との出会い / 伊藤博文の生誕から岩倉使節団の西欧体験まで



日本の新政府によってなされた明治維新以降の一連の改革に対して、その過程を近代的な国民国家の創出プロセスとして読み解くことは、今や常識となった観がある。この国民国家の創出の意味するところとは、ただ国民国家体制を敷くのにふさわしい新しい制度や組織の創出のみならず、それらが拠って立つところの新しい基盤、つまり「国民」の創出をも含意している。


幕末以来、その激しさを見せつけた日本のナショナリズム(nationalism)の運動は、様々な政治上の曲折を経たあげくに、どうにかそれに国民国家(nation-state)としての外形的枠組みを与えることで秩序を与え、1871年(廃藩置県)において一応の政治的帰着を迎えたと見ることができるだろう。


その3年前にあたる1868年1月は、王政復古が宣言されたものの、徳川慶喜がふたたびヘゲモニーの奪還を企て、鳥羽・伏見において戦端を開いた直後であり、政情は安定せず、いまだに日本の新しい国家像はその原初的な素描ですら――その理念と実態ともに――模索の渦中にあったといえる。このような折に際して、伊藤が木戸に宛てて送った手紙には、意訳して次のように綴られている。


「アメリカの独立に際しては、武器を持っていない一般の市民まで立ちあがって、一致団結してイギリスを破った。そして今、そのアメリカは隆盛を極めるに至っている。しかるに、我が国は、数千年にわたって天皇の恩沢を受けながら、それを忘却し、媚びへつらうことに終始して、機会を失しようとしている。これは、日本人に心というものがないからだ。(略)長州に生まれて徳川を憎まなければ、それは人ではない、などという言説もはびこっているが、国内で互いに憎みあって一致団結できないようでは、我々が夷狄と蔑むアメリカ人にすら劣るというものではないか」〈『伊藤伝』、本書 p.20〉


《なぜ、明治を担う政治家たちが国家建設のモデルとして、欧米流の国民国家の移植に躍起になったのか?》


これを、僕は疑問に感じていた。
純粋に、その時代の華々しく隆盛を極める西欧列強の国家体制がそうであったから、それを「文明」として移植した――科学技術や文学、芸術の輸入にとどまらない、その国家体制でさえもモデルとして輸入する――という表層的な論理だけではないだろうとは思っていた。
きっとそれは、上に挙げた手紙の中で記されていたように、欧米列強に対抗し、国際社会のなかで日本が独立を保持するためには、なによりも「日本人」としての団結を阻むもの――地域や身分、宗教などに対する帰属意識――を邪魔なものとして一掃し、より一体的で均質に凝縮された「国民」を創出することによって、新たに国民国家として日本を再生させてゆくしか方途がなかったからに違いない。


このような文脈において、新政府の開化的な諸政策――身分制度の撤廃や、信教の自由など――は、西欧世界に対抗し、日本の独立を保持しようという切実な願いのもとに、おそらく国内における様々な差異の消去としての意味を持ちながら、実行に移されたのだろう。これらの革新的な施策の数々は、その性格の封建的要素の残存やその達成の不十分さについてあれこれと指摘する以前に、まずは強力な国家形成のための手段として、日本政府から積極的に要請されたと理解されなければならない。それは、外国や国内からの圧力に晒されて、新政府がしぶしぶと開明的な施策に応じていくようなイメージとは逆である。


1871年に、廃藩置県の成功によって一つの政治的ステージをクリアした日本新政府は、より具体的な国家像のアイディアを求めて1年半に及ぶ岩倉使節団(*1)を欧米に派遣する。その欧米視察のさなか、木戸孝允の次のような心境、


「皮膚上の事は暫(しばら)く差し置き、骨髄中より進歩いたし申さず候ては、今日の開化も他日の損害如何か」〈『木戸文書』四、本書 p.43(*)〉


このような境地に、伊藤も同じく達することができたと仮定すれば、その目の捉えた西欧文明の「骨髄」とは、目を驚かすような「築造」でも壮大で驚くべき「宮殿」や「寺観」でもなく、なにより一体的で均質な国民の姿と、その国民が政治参加することによって担われる国家運営のあり方だったのではないだろうか。


さて、著者の瀧井氏のいうところの漸進主義と急進主義の対抗図――ある政策について、どの時期に、どのくらいのスピードで実地に移すかをめぐる争点――は、政策の理念をめぐって思想上の対立は生まないだろうが、たしかに、その実行プログラムをめぐって、政治上の激しい対立点を形成するだろうと思う。その意味で、著者の切り口には面白さがある。あくまで、それを軸として政治上の対抗関係を描ききれれば、の話だが。


-----------


*1 先日、録りためてあった「さかのぼり日本史」を見ていたら、岩倉使節団の派遣の目的があいかわらず、条約改正交渉になっていた。彼らの本来の目的は、第一に欧米の「文明視察」であり、新しい国家像の模索である。条約交渉は、使節団がアメリカに立ち寄ったときに、そこで初めて、突如として伊藤博文から提案されたものであって、あくまでも偶発的にして副次的なものに過ぎない。
そもそも、ただ条約の交渉を図るために、なぜ数百人もの規模で、しかも不安定な政府をなかば空にしてまで渡航を計画しなければならないのか?
(と不満は若干あるが、NHK「さかのぼり日本史」はいい番組だと思う)


*2 本書には、この引用部分は、伊藤の心情として述べられている。しかし、あくまで木戸がみずからの感想について本国の知人に宛てた手紙であり、伊藤の内面とは無関係である。このメモを書き留めるときに初めて気づいたが、著者のこのような紛らわしい引用のしかたは、あまり感心できない。



第二章 憲法制定期



日本の近代史を、デモクラシーの進展という視角から眺めるとき、その理解を困難にさせているのは、現代の日本人のデモクラシー観において、(i)立憲主義、(ii)議会制度、(iii)政党政治、の3つの概念が渾然としていることに大きく起因している。


これらの概念とその同義語を少しリストアップするだけで、以下のようになる。


(i)立憲主義、立憲制度、立憲制、立憲政治、立憲国家、憲法制度、憲法政治、(憲政)
(ii)議会制度、議会制、(議会政治)
(iii)政党政治、議院内閣制、責任内閣制、(憲政)、(議会政治)


こうして並べてみると不分明な語句も多い。「憲政」など、字義からすれば「憲法政治」だろうに、日本の政治史においては、「議院内閣制」の意味で使われている。「憲政の常道」とは、第二次護憲運動以降、政友会と民政党の二大政党によって交互に内閣が組織された時期を指す。


(i)立憲政治とは、国家の基本的な構成(constitute)を定める憲法(constitution)によって、国家運営上に明確なルールが敷かれた体制といえるだろう。


(ii)議会政治とは、議会を開設して、国家運営に対して国民サイドからのチェック制度を備えた国家体制といえるだろうか。


この(i)と(ii)については、概念的にはそれぞれ独立したものであると考えられようが、人類史の実態としては、立憲制度と議会制度はワン・セットで捉えられてきている。フランス革命しかり、ロシア革命しかり、また日本の近代政治史においても、憲法公布の翌年、帝国議会が同時に開催されている。あくまで現実上は、憲法と議会は、一体のものとして実地に移されてきた。


(iii)政党政治とは、国民の代表としての政党に、議会におけるチェック機能のみならず、実際に内閣を組織させて、直接に国家運営にあたらせようとするものであり、これを日本の政治風土に移植するか否かをめぐって、政府と政党のあいだに激しい攻防が展開された。
逆にいえば、(i)(ii)については、その実現の時期をめぐる対立にすぎないのであって、藩閥政府といえども、日本において立憲体制と議会制度をそなえようとする意思については、疑う余地がない。
この(iii)の議院内閣制に対する態度表明が、近代史前半の政治家たちの思想分布図を鮮明にするだろう。


伊藤博文はなぜ、なぜぼくの興味を引くのか?
彼のおもしろさは、藩閥政府のなかにいて、かつ、そのなかでも最大派閥である長州閥のトップリーダーであるにもかかわらず、(本来であれば立場上弾圧すべき)政党政治に対して理解をもち、第二次伊藤内閣において自由党と改進党の合同(憲政党の結成)を見るや、政権の座を政党(憲政党)に譲ることを明治天皇に奏上し、またそれ(隈板内閣)がわずか4ヶ月しか持たずに瓦解するのを見れば、今度はみずから模範なろうとして、反対を押して政府を退き、立憲政友会を結党する。このように、彼の魅力は、一見すると自己否定を繰り返しながら、日本近代史に政党内閣の道筋をつけていくところにあるだろうか。


1.1 伊藤博文の天皇観


強烈な西欧体験にるカルチャーショックは、開国後間もない日本の政治家たちに、欧米的な国家建設に対する将来の自信を挫けさせるに十分であった。岩倉使節団の巡歴中において、岩倉具視は伊藤に次のように洩らしている。そこには、明治に端を発する日本人の西欧コンプレックスの原型が、もっとも素直な形で表出されている。


「英、米、独、仏の如き強大国はいふに及ばず、二流三流の国々といへども、その文化の隆盛なる、我国の追求しあたはざるほどに懸絶(けんぜつ)し居れば、我等如何にこれを研究したればとて、到底これを実地に採用すべき見込みなし」〈『伊藤伝』上、本書 p.44〉


燦燦と光輝する西欧文明を実地で体験した後、彼らの目に映じた日本とは何だったのだろう、もしくは日本のなかに何を見出したのだろう?その回答のひとつが、以下にある。


「日本の国は、歴史の伝えるところによれば、開闢以来、万世一系の皇統によって統治されており、また民族も同様に続いております。(略)
 今日のように外国と交流をしていない時代の日本の学者のなかには、ひとり日本だけが高貴であって、外の世界は野蛮であるといっていた人たちもいますが、他国は野蛮であり、日本のみが進んでいるから尊いのだということを述べるよりも、日本が誕生して以来、今日まで存続してきたとものは世界にひとつしかないものである、と考えたほうが世界に誇れるのではないかと思います。(略)
 日本はこのように、世界に対して比類ない特徴をそなえた国であります」
〈『伊東文書』皇族華族宛演説 本書 p.94-95 / 意訳〉


思うに、鮮烈な西欧体験を経て、当時の国家草創を担う政治家たちの目に映じた日本とは、第一に、文明と遠く「懸絶」する、未熟にしてみすぼらしい日本の姿と、第二に、それゆえに眩しく映じる、万世一系の皇統の存続、その世界に類例のない日本国の血統性、だったのではないだろうか?
逆にいえば、西欧文明の降り注ぐ光に照らして、すべてが闇夜のなかにある日本から、唯一、光り輝いて見えたものが「万世一系の皇統」という国家の由緒正しさだった、というべきか。


このように考えたときに、西欧文明の迫力に埋没寸前の日本のアイデンティティを救うよりどころとして、万世一系の天皇という国家の血統の由緒正しさが「発見」されたのであれば、それが明治憲法の冒頭文において高々と宣言されるのも十分納得ができる。伊藤は次のように述べている。


「今我が憲法制定の体式(ていしき)をもって他の立憲諸国と比較するに、その間、大差別の存するものあり。すなわち、第一章に君主の大権、すなわわち主権を明記するものは、他国の憲法にその例あるを見ざる所なり。しかして、その所以(ゆえん)のものは、(略)そもそも、我が日本国はその開闢(かいびゃく)の始より天皇みずから開きたまい、天皇みずから治(しら)しめすをもって、これを憲法の首条に載するは実に我が国体に適応するものというべし。これ他国の憲法と大いにその構成体裁と同じくせざる所以なり。」〈『伊藤伝』中、本書 p.86)


もっとも、上のような君主大権の規定が、天皇一個人の恣意的な国家運営を保証するものでないことは、いうまでもない。
実際、明治天皇の心身の成熟とともに起こる天皇親政運動を、伊藤博文は宮中(私生活の空間)と府中(公の空間)を分離させることで、宮中に封じ込めている〈本書 p.69〉。
それは、あくまで天皇に求められているのは、その歴史的存在事実あって、国家統治の根拠となる権威付与装置としての天皇の存在であり、ゆえに生身の人間の才気ではなかったからだろう。


また同様に、西欧の文明列強を意識して、日本のアイデンティティを天皇主権の存続性に求める限り、民権サイドの提起する国民主権論に対しては、とうてい譲歩できるものではなかったことは想像に難くない。なぜなら、伝統としての天皇主権とは、世界に比類のない日本の卓越性を示すものだからだ。


「我が国のごときは開闢以来の歴史と事実にてらして、主権は君主、すなわち王室に存し、未だかつて主権の他に移りたるの事実なく、また移るべきの道理非ざるなり。」〈『伊藤伝』中、p.87〉


「日本に於いては開闢以来の国体に基づき、上元首の位を保ち、決して民衆に移らざることを希望して止やまざるなり」〈『伊藤伝』中、p.88〉


1.2 伊藤博文の政府観


憲法公布と議会開設に際して、藩閥政府が、政党から超然として施政を執るべきことを表明した宣言を超然主義という。
従来、保守的、反動的な評価を烙印されているそれは、しかし、伊藤の講演を収めた資料に目を通すとそれ以上のものを訴えているようだ。


「他日、国家の政治が、臣民を代表する議会の議決に付されるとき、その利害は一府県の利害ではなくて、すべて全国の利害である。いやしくも帝国議会の議員たる者は、選挙にかかわる一部の臣民の代表ではなくて全国の臣民の代表であり、地元の利害に拘泥することなく、ひろく全国の利害を洞察して、みずからの良心に従い判断する覚悟ななくてはならない」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.89〉


原敬による初の本格的政党内閣の出現以降、それが一方においては、今日の自民党政権まで脈打つ地方利益誘導型の政治システムの原型を形づくった今日の歴史を紐解くと、伊藤の指摘は耳に痛い。それを思えば、以下のような伊藤の超然主義的態度も、保守反動のひとことでは片付けにくいものがある。


「互いに意見が異なるのは人間の本性であるから、そこで党派が生まれるのは当然の成り行きであるだろう。しかし思うに、議会や社会において党派が生まれるのはやむを得ないであろうが、一党派のための政府は、これを断じて許すことができない」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.90 / 意訳〉


本書(p.90)の指摘するところによると、エドマンド・バークの「ブリストル区民への演説」の影響が認められるらしい。
(また、この時期の自由民権運動と日本政府の対立の背景には、それぞれ英、仏の自然法的な権利理論と独の歴史主義的な国家理論の、つまり18世紀と19世紀を代表する西欧思想上の対立を看て取ることもできるだろうか?)


1.3.伊藤博文の政党観


憲法制定の時点において、伊藤博文は政党内閣に対してどのような考え方を抱いていたのだろうか?
これに関しては、直接言及された資料がある。


「すみやかに議会政府すなわち政党に内閣を組織させようとするのは最も危険極まりないというべきだ。思うに、政党政治の利を説く者は少なからずいるが、一国の基軸を定めて、政治を公議のものにするためには、力が充分に養育されている必要がある。もしこれを顧みずに国家の根本を揺るがすようなことがあれば、将来の不利益はどれほどのものになるだろう」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.91 / 意訳〉


この解釈については本書の著者である瀧井氏の意見に、ぼくも同意しようと思う。
たしかにこの内容は、政党内閣の即時実現を斥けた言葉であって、時期尚早論を唱えているのに過ぎない。
彼は、政党内閣を排斥していない。


それ以上に伊藤には、政党内閣制度を必要とするに足る十分な理由があるように思える。
というのも先に見たように、伊藤の国家論は、第一に「国民」の創出を基礎として、第二に、その形成する「国民」の政治参加を梃子として、国力の発揮を目指すものだからだ。


「他国と競争して独立の地位を保ち、国威を損なわないようにするには、人民の学力と知識をのばさなければなりません。そのことは、一国の力の上で、大きな国力の成長を発揮します。これは、自然な結果であると言えるでましょう。」
〈『伊東巳代治関係文書』皇族華族宛演説、本書 p.96 / 意訳〉


日本の国力が、「国民」を基礎とするとき、国家の浮沈はひとえに、国民の成長の度合いに依存するといってよい。そのように、伊藤は考えていた。日本の教育政策に対する伊藤の尽力が、それを何より雄弁に裏付けているように思える。
もっとも藩閥政府にとって、国民の知識の伸長は諸刃の剣であることを、伊藤はよく知悉していた。


「人民の学力智識を進歩さして文化に誘導させて参りますと、人民も己れの国家何物である、己れの政治何物である、他国の政治何物である、他国の国力何物である、他国の兵力何物であるといふことを学問をする結果に就(つき)て知ってくるので、それが知ってくる様になれば、知ってくるに就(つき)て支配しなければなりませぬ。もしその支配の仕方が良くないといふと、その人民は是非善悪の見分けを付けることのできる人民であるから、黙っておれといって一国は治まるものではない。」
〈『伊東巳代治関係文書』皇族華族宛演説、本書 p.97〉


それでは、国民が政治意識に目覚め、「是非善悪の見分けを付けることのできる人民」となったとき、伊藤はどのような政治体制を構想していたのだろうか?
次の資料は、伊藤が天皇主権の発動について述べたものである。


「国家の主権は一つであり分割すべきではない。そして、その主権はひとり天皇の身の上にあることを考えれば、官僚や行政組織の働きは、天皇の主権が委任されたものにすぎず、決して固有の力によるものではない。また、行政の各組織がそれぞれ分派しようとも、またそれらが規則に則って独立に働こうとも、一つの主権はすべて君主の手の中に収まっているのである。」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.87〉


このように行政各部の権力作用は、すべて天皇の主権による発動の結果であると述べた後で、伊藤は議会政治について次のように言葉をつないでいる。


「これを以て、たとえ議会を開き、公議世論の府となすも、主権はただ君主の一身に存在すること遺忘すべからず」
〈『東京日日新聞』一八八九年二月一九日、本書 p.87〉


公論を形成する場と議会がなったとしても、天皇の主権が議会をとおして発揮されているに過ぎない、と伊藤はいう。
もっとも、これがぼくには、「政治が国民の声を中心に回るような事態になっても、それは天皇の主権侵犯にはあたらない」とする、政党政治の将来的な実現を許容する伊藤の弁辞のように聞こえるのだけれど、、、。
しかし、そうであったとしても、一体それは誰に対しての弁明だろうか?



第三章 一八九九年の憲法行脚



この章を読むまで、伊藤は憲法制定時から、国家構想において日本の政党政治を見据えていたものと思っていたが、次の資料によってそのような読み取りは難しいと感じはじめている。


「結論に憲法は立国の体に依遵(いじゅん)適合せざるべからず。憲法すでに国体と密着す。君主の大権下に移すべからず。しかればすなわち政党内閣の説は我が憲法国体に適合するというべきや。多弁をもちいずして明瞭あるものあらん。」
〈一八九一年一〇月一一日伊東宛伊藤書簡、憲政記念館所蔵、本書 p.144〉


これを意訳すれば、憲法の建国の歴史に合致したものでなくてはならず、すでに憲法は国体を体現したものとなっている。君主の大権は不可譲である。したがって政党内閣は、我が国体に適合するといえるだろうか。それはいうまでもなく明らかである、というものだ。つまりこの時期に関して、伊藤博文は、政党政治を否定している。


「我憲法条章の明文において行政官吏の専横に陥るを防遏(ぼうあつ)し、臣民の権利を保証せられたれば、政党内閣を仮らざるも憲法政治の美果を収むるにおいてその難き見ざる所以を述べたり」
〈一八九一年一〇月一一日伊東宛伊藤書簡、憲政記念館所蔵、本書 p.145〉


明治憲法は官僚の専政を抑え、また臣民の権利も保証しているので、政党政治に頼らなくても憲法政治の美果を収めることは難しくない、と伊藤はいう。
この点、伊藤博文に対して、常に一貫した国家構想を読み取ろうとする著者、瀧井氏の論述は、以下のようになる。


「彼が政党政治それ自体についてアンビバレントな見解を抱いていることも事実であろう。」〈本書 p.115〉
「政党政治の漸次的育成を通じて国民の政治参加を推進し、国民政治と立憲体制の融合を図ること、すなわち国民国家としての宥和と協調の政治体制を築くことである。その具体的実践が、1900年の伊藤による立憲政友会の創設に他ならない。」〈本書 p.116〉


すっきりしない言い方だ、と思う。
「政党政治の漸次的育成を通じて」とは、どういうことなのだろうか?
伊藤は、「政党政治」を目標としているのか、していないのか?
普通に読めば、政党政治を目指して、と読める。しかし、それを直接的な目標としていなくても、そちらの方向に路線を誘導することによって、とも読むことができる。奥歯に物が挟まったような物言いである。


少なくとも、先に引用した資料からは、この時期、伊藤は政党政治に否定的だった。それは、政党政治が基本的に利害政治であるという達観があり、党派や党の利益に偏重した国家運営がなされる危険性を恐れているからだ。
伊藤による1900年の立憲政友会の創設は、従来の通説通りに「伊藤の変節」として解読すべきなのだろうか?
このあたり、もう少し時間をかけて考えてみたい。


さて、伊藤新党問題を受けて、6月24日に開かれた御前会議における伊藤博文と山県有朋の応酬がおもしろい。


「閣下の政党組織はついに政党内閣の端を啓くに至らん。しかして政党内閣制は我が国体に反し、欽定憲法の精神に悖り、民主政治に堕するものにあらずや」〈『伊藤伝』下、本書 p.119〉


と山県が述べると、


「政党内閣の可否を論ずるはそもそも枝葉末節のみ。要は皇国の進軍に資するや否やを顧みるにあり。」
〈『伊藤伝』下、本書 p.120〉


と、伊藤が応じている。
山県の発言は、さきの伊藤の弁とほぼ同様の論旨であり、伊藤にとっても痛いところを突かれたのではないか?



第四章 知の結社としての立憲政友会



ひとつ。明治憲法についての従来型の評価、つまり、「この憲法の規定する議会制度は大きな制約を受けたものであって、天皇に強大な大権を認めた君権主義の見せかけの立憲主義の憲法でしかない」〈本書 p.117〉とする否定的な評価に対して、「この憲法のもとで戦前に議会政治の着実な進展が昭和初期まで認められるのも事実」〈同〉と著者は指摘する。たしかに、その通りだ。


ふたつ。従来の明治憲法のなかにプロシア憲法の影響をみてとったり、伊藤博文が、憲法調査に際しての渡欧時に、ドイツやオーストリアの学者から多大な影響を受けたとする見方がこれまでの主流だったけれども、さらにもう一つ、伊藤がイギリス滞在時に受けた議会制度の影響について、資料をもっと細かくみていく必要を感じる。


というのも、伊藤がよく遊説中に、イギリスの議会制度やディズレーリ、エドマンド・バークの発言を多く引用している事実や、また実際の日本の近代政治史の歩みとして、ドイツ・モデルとして制定されたはずの明治憲法のもとで、なぜイギリス風の二大政党政治が、加藤高明を首班とする護憲三派内閣から犬養内閣の倒壊までの8年間、「憲政の常道」として結実していくのか、との問いに答える必要がある、と思うからだ。



第5章 明治国制の確立―― 一九〇七年の憲法改革



以下、著者による論述に従って要約する。
1907年の「憲法改革」の背景とは、

・議会政治の定着
・政党の伸長
・日清日露の両戦役を通しての軍事行政の肥大化・自立化
・新たな植民地の獲得

1907年の「憲法改革」のねらいとは、
このような情勢に対処するため、内閣の国家運営に対する指導力の低下の回復を目指すもの〈本書 p.237〉。


1.国家と天皇の関係


・宮中府中の別の見直し
・天皇のさらなる国家機関化(皇室の国制化)


2.内閣総理大臣と他の閣僚との関係(公式令の制定)


・1885年の大宰相主義(内閣総理大臣による閣令制定権)への回帰


3.内閣と軍部の関係(軍令第一号の制定)


・「これまで慣行化していた帷幄上奏の権限を抑制し、軍行政に内閣が介入していく足がかり」〈p.328〉
・「一九〇七年の憲法改革の挫折ならびに統帥権拡大の法的根拠の確立というよりも、既存の統帥事項の切り崩しとそのうえでの軍部による既得権益の死守の試み」〈p.329〉
・滝井説によると、そのような軍を抑制する実践の場としての、初代韓国統監の就任。



第六章 清末改革と伊藤博文



伊藤博文の中国体験について述べられた章だが、あまり論としてまとまっていない印象を受けた。
強いていえば、彼の西欧体験が、そこで何を見るか、という受け身の視点だったのにくらべると、
中国体験、韓国体験は、そこに何を伝えるか、という能動の視点といえるだろうか?
言い換えるならば、輸入の視点から輸出の視点へ。
とはいえ、このような見方は一面的にすぎるか?



第七章 韓国統監の"ヤヌス"の顔



1.東アジア全体の繁栄を志向する「東洋の統率者」「文明の伝道師」としての思想が、どのようにナショナリズムと関わってくるのか、不分明だったように思う。
それは韓国や中国に対する「文明」の移植の伝道は、東アジアそれ自体の繁栄を願うものか、それとも、あくまで日本にとって西欧列強に対する防波堤となることを目論む手段に過ぎないのか?


2.著者の述べる通り、伊藤博文は、韓国のナショナリズムの運動を甘く見積もり過ぎたか?
もっとも、韓国統監以降の歴史叙述は、ぼくに予備知識がないからか、著者が端折り過ぎたか、いずれにせよ韓国で何が問題となっているのか思想的にも政治的にも状況が明らかでなく、具体的な経過がいまいち掴めなかった。とくに韓国のナショナリズムについての説明がなく、いつの間にかそれは突然現れて、伊藤を殺してしまった、笑


(すべて読了!!!)

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)/瀧井 一博
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とりあえず、日記の内容とはあまり関係ないのですが、音楽を用意いたしました。
カウンターテナーの歌い手 Slava による、Vavilov 作曲、Ave Mariaです。
あなたの日曜日をより贅沢にしてくれる声楽曲を、どうぞ。









さて。
一時。昼食を終え、車に戻る。西予市宇和町、発。
一時半頃。宇和島市にある、多賀神社、着。


■i. 多賀神社、鳥居

11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 01 posted by (C)qeise




この神社、どこが面白いと聞いて訪ねてきたのかというと、
下の写真を見れば、それも了解していただけるだろう。




■ii. 神体

11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 13 posted by (C)qeise


性器崇拝なるものの存在。
すぐに思いつくところでは、日本の各地の路傍にある道祖神。
また、よく日本史の教科書に掲載されるような性器の強調された土偶を思い浮かべると、少なくともこのような信仰は、遥か縄文の時代まで遡ることがわかる。




■iii. 境内。これも男性器の形象か。

11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 05 posted by (C)qeise



多産への祈りは、真剣な希求だったのだろうと思う。
たとえば、近世の大名家にとって、嫡子が生誕するか否かは、その家のみならず藩全体の存亡にかかわる大事だったのは周知の通りだ。市井の家々においても、軽重はともかく、その事情は似たようなものだろうと思う。




ちなみに、この先向かうことになる宇和島の伊達氏の大名庭園にも、また去年の夏に出かけた岡山の後楽園にも、男性器と女性器をそれぞれ象った陽石と陰石が、観光客の目に止まることなく、その他の石にまぎれて佇立していた。





■iv. 同境内。たぶん偉い人。

11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 06 posted by (C)qeise





近代化とか西洋化とか呼称される思想の流入とともに、このような信仰は日本人の日常の表舞台からは姿を消していくことになる。そして、これらの直裁的な性表現を露骨すぎると感じる僕の感性も、やはり近代化された日常の延長線上に置かれてある。




感性の断絶に、もしくは、失われた日常に、何かを感じるわけではない。社会も、歴史も、思想も、人間も、日々成長していく。その身体が大きくなるにつれて、子供の頃の服が着られなくなるのはあたりまえの話だろうと思う。私はただ、使い捨てたはずの子供服が非日常の神域に大切にしまわれているのを発見して、上手く言葉で表現できない戸惑いを覚えたに過ぎない。



■v. 拝殿内部

11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 10 posted by (C)qeise



さて、この先には多賀神社の秘宝館があって、日本を含め世界各地から収集された、性風俗に関する遺物、作品の数々が所狭しと展示されている。
写真撮影が禁止だったので、その常軌を逸した様子をお見せできないのは残念だが、例えば、清浄な如来の立像、しかし、その股間部から男性器を隆々と屹立させているような木彫りを一例として、女を悦ばせるための木製の張型や江戸期の春画などが、文字通り館内を埋めつくす勢いで並ぶ。入館料、八〇〇円。



■vi. 秘宝館、凸凹神堂


11-06-04 愛媛県宇和島市 多賀神社 07 posted by (C)qeise



部屋も散らかってるし、あまり神経質な部類だとは思わない。
けれど、、、どうしてもぼくは新品で買った本が経年劣化していくのだけは耐えられないようなのだ。
とくにバッグの中に入れた新書や文庫の、その背の上下端の部分や角っこなどがグシャリと潰れたりするのは、いとわろしで、、、とにかく苦手であるw。




そこで"フィルムルックス"でございます、みなさま。


■i. 写真は文庫用。ほかに新書用、B5版、A5版などいろいろ揃えております。


i





■ii. まず、本のカバーを脱がして、、、

ii



■iii. 口では説明できにくい部分にペンで1cm ほど印をつけて、はさみで切って、、、(写真は、数冊分)


iii





■vi. 間隔の予想をつけて、、、、

iv



■v. 定規を上手に押しあてながら、ズズうーっと貼って、、、


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■vi. これはまた別の本だけど、こんな感じで表紙・背表紙・裏表紙と全てに貼って、、、

v




■vii. そして、端折って、完成!!!

vi





写真ではわかりにくいですが、すべて透明のフィルムでコーティングされております。
地元の図書館で、あ、これだ、と思って以来、ほぼ同様のものをネットで探しまくり、現在では半年に一回くらいのペースでこうして作業しております。本棚に入れっぱなしの本の背表紙だけが日焼けして変色する、なんてことからも免れているように感じます。角も頑丈になって、これで、安心してカバンの中に持ち運べます。

久々の日記の更新です。
内容は、前回のつづきです。



例によって、例によって、音楽も用意いたしました。
Brian McKnight より、6, 8, 12 をどうぞ。 







旅は準備して行ったほうが、絶対、楽しい。
事前に何も準備せず、ぶらりと出かけたほうが、旅先で予期せぬ出会いや驚き、発見などがある、という人もいる。
しかし偶然の出会いや発見なんて、どれだけ旅行を周到に計画して、予定通りのコースをめぐろうとも、その先々であるのだし、むしろ、一見格好良く見える「目的もなくあてもない旅」は、その無知ゆえにその土地の表面的な部分をかすって終わり、になることのほうが多いと私の経験が告げている。



あらかじめ計画しておかなければ、行くことのなかった場所があり、その場所を訪れなければ、出会わなかった人がいる。
そして――――下調べをしておかなければ、扉をくぐることのなかった洋食店というのも、なかにはある。




十一時頃、卯之町の散策を終了。
十一時半頃、卯之町駅に到着。


卯之町駅の前の道路を挟んだ向かいにある、鬱々と佇む洋風料理店「ステーション」。
その陰気な外観といい、事前にネットで下調べをしていなければ、ここを食事時に通りがかったとしてもドアノブに手を差し伸ばすことは永遠になかったであろう、笑。
にもかかわらず、私(たち)は、このノブに指先をかける――――。




そこはまるで時間が止まっているかのような、ノスタルジックな空間だった。
リーズナブルな日替わりランチを差し置いて、ネットレビューで評判のよかったハンバーグ定食を注文する。





11-06-04 愛媛県西予市卯之町 36 posted by (C)qeise


その値段――――この愛媛の、ど、ど、ど田舎で昼食代にそれはないだろうと思う金額、千円也。
もっとも、ここのコックの腕をふるって調理された料理は「定食」というよりも、むしろコース料理のそれを思わせるものではあったが。
しばらくすると、別の客の一行がやってきて隣のテーブルに座る。
そして、同じ注文がコックに飛ぶ。



六月四日。晴。
朝八時頃、友人と二人で待ち合わせて、出発。
十時、目的地に到着。




――――愛媛県西予市卯之町。




二〇〇九年、在郷町として重要伝統的建造物群保存地区の選定を受ける。
ここで、重要伝統的建造物群保存地区(以下、重伝建)とは、日本各地に存する歴史的風致を形成している伝統的建造物群のなかで、とくに価値が高いと文部科学大臣に認定されたもの指し、今現在、九一地区ある。
そのあたりのことは Wikipedia に詳しいので、みなさまのお住まいの身近にあれば、ぜひ行ってみてください。


さて、その西予市卯之町、である。
かなり最近に重伝建の指定を受けた町であるが、それは文化庁の文書に記された選定理由を読めばよくわかる。


「西予市宇和町卯之町伝統的建造物群保存地区は、近世前期に成立した在郷町を地区の範囲とし、宿場町、門前町の性格を併せ持つ。近代以降に町の中心が南に移動したため旧の中心部が保存され、江戸時代からの地割りや重厚な町家等を良く残し、我が国にとって価値が高い。」


と判断され、とりわけ以下の要素が高く評価されたようだ。


「近世の地割りが良く残り、宇和島街道沿いに、開口部以外を塗籠める桟瓦葺の重厚な町家が良く残る。町家は、屋根の妻を正面に向ける妻入りと、平を正面に向ける平入りが混在し、格子や持ち送り(写真-vi)、飾り瓦(写真-iv)等の意匠に特徴がある。」

宇和島街道とは、愛媛県宇和島市と大洲市をリンクする街道のことであり、町屋の妻入りや平入りというのは、家屋の屋根に対して玄関の向きを示している。


以下、旅先の風景写真と簡約な感想を掲載する。
それでは、卑怯だといわれようが前回評判の良かった書上奈朋子嬢の甘美な囁きとともに、どぞ。






■i. ここは高野長英の隠れ家として、県指定文化財の指定を受けている。写真のように路傍から垣間見えるものがすべて。

11-06-04 愛媛県西予市卯之町 01 posted by (C)qeise





■ii. いわゆる宇和島街道。ここを歩いているあいだが、一番気持ちいい。結局、古い町並みはこのストリートとそれに付随する僅かのみ。しかし、資料館やパンフレットの類はかなり充実していて、この区域全体の町おこしの成否をその小さな肩に担っているようだった。

11-06-04 愛媛県西予市卯之町 04 posted by (C)qeise




■iii. 同上から、振り向いて。

11-06-04 愛媛県西予市卯之町 08 posted by (C)qeise




■iv. 妻入りの町屋、その飾り瓦。鯱の下にあしらわれているのは、おそらく茄子と大根。





11-06-04 愛媛県西予市卯之町 10 posted by (C)qeise



■v. black and white のモノトーン調に、格子とわずかに開いた蔀戸が涼しげな情緒を添える。


11-06-04 愛媛県西予市卯之町 11 posted by (C)qeise



■vi.  持ち送りのディテールとその連なり。



11-06-04 愛媛県西予市卯之町 33 posted by (C)qeise





■vii. 光教寺に至る路。おそらくかつての町全体の中心。




11-06-04 愛媛県西予市卯之町 13 posted by (C)qeise



■viii. こんな小さな町になぜこんな石庭があるの? 宇和民具館内の坪庭。右の窓から全体を眺めて、後列の小さな仏像を模した様な立石の並びと前列の延段のような直線が対照を為す。


11-06-04 愛媛県西予市卯之町 14 posted by (C)qeise



■ix. 小高い丘をのぼると、、、写ってるのは私じゃないよ。




11-06-04 愛媛県西予市卯之町 16 posted by (C)qeise



■x. 開明学校校舎(明治15)。国重要文化財の指定を受ける町全体の象徴。


11-06-04 愛媛県西予市卯之町 18 posted by (C)qeise



■xi. 開明学校の内部。教室には、修身科(現在の道徳)のテストが掲げられていた。父母が熱を出して寝込んでいるとき、子はどうすべきか問うもの。正解は、たしか「常に傍らで寄り添う」だったが、現代っ子は「救急車を呼ぶ」と答えたとか。



11-06-04 愛媛県西予市卯之町 22 posted by (C)qeise



■xii. 司馬遼太郎氏もかつてこの卯之町を訪れたことがあるらしい。




11-06-04 愛媛県西予市卯之町 23 posted by (C)qeise



■xiii. 卯之町キリスト教会(大正15)のある風景。かつて訪れた平戸(長崎)の町並みを想起させる。



11-06-04 愛媛県西予市卯之町 21 posted by (C)qeise



いつの頃からか古い町並みが好きだった――――。
その気持ちを上手く分析できるほどには、私は、私についてよく知らない。
しかし、現地に赴いて湧き出でる感情にはメランコリックな成分が含まれていることは間違いないことであって、それは歴史の主流から隔絶し、忘却せられ、とり残されたものに対する追慕のようなものであるだろうと思う。
それは、過去の記憶や時代を美化し、今でもそれを引き摺っているかのような、したがって、どこか後ろ向きでネガティブな心性の一つではあるだろうけれども、それに魅了せられてしまう自分の感性も否定しきれるものでもなく、自分自身でなんとか折り合いをつけて、向き合っていかなければならない心の内にある小さな棘のようなものだろうと思う。

もう何年前になるのだろう、車のラジオでかかっていた、アレ。
それは僕にとってあまりにも聞きなれない何かで、音楽というよりも、むしろ甘い囁きだった。
ラジオのスピーカーからアルバムを紹介を告げる MC の言葉、それを僕は必死で記憶して、急いで家に帰って、ネットで検索をかけて、そして即刻購入を決めた。




先日たまたま、乱雑にファイルの放り込まれた PC のハードディスクの整理に取り掛かっていると、musicフォルダのなかに収まる、アレを見つけた。なぜだろう、もう何年も聴いていなかったことに気づいた。


もっと高く評価されていいと思うのに、一部の人にしか知られていないのが残念で、昨日の夜、ネット上に動画なんてないよな、と思いながら検索してみると、あ……あった。
ではでは、みなさまどうぞ、URLリンクが途切れないうちに、、、。


書上奈朋子BAROQUE/」よりCIRCOLAR








Amazon の紹介やレビューを読んでも、彼女の作品を通して感じることは人皆、同じか。エロス、暴力、猥褻、誘惑。そういった語彙が共通して語られる。それにあえて、自分なりに言葉を選んで付け加えてみると、そこにあるのは誘惑ではなく、その誘惑の純真さだ。それは猥褻ではなく、その猥褻のひたむきさだ。もし仮に、猥褻というものに無垢な信仰が許されるのなら、それは眼前にひろがるこの音楽だろうか。


彼女の、官能に心地良く響く旋律が鼓膜を埋めるたびに、僕はクリムトの絵画のあの金色を思い起こす――――。




(The Kiss, Gustav Klimthttp://www.wallpaperlink.com/bin/0706/03494.html)


目の前に立つ可憐な恋人の両頬に両手を添えて、その柔らかな唇を塞いであげたい――――。
甘く抱きしめて、優しく奪い尽して、悦ばせて、燃やし尽して――――。



男はそのすべてを腕の中に覆い隠してゆく。しかし、女もただ受け身に従っているだけではない。男の首筋へとしなやかに伸ばした片腕は、抑圧を解かれた彼女の火焔の昂りを余す所なく見せつけている。




次第に高々と階梯を上げていくコーラスは二人のピークを告げて、金色の恍惚はどこまでも伸びてゆく。燦燦と紡ぎだされるソプラノの声ははたして天使の餞か、嘲笑か。官能的な渦巻文様をのせた衣装の裾から流れ落ちる藤の花にも似た黄金の嶌、その煌きを雫に散りばめてせせらぎと為せば、すべては虚無の世界に昇華されて―――――。


ある古典音楽の主題が遊戯的に操作されてるのに気づきました? そういうところは、アルバムのタイトルこそ BAROQUE ですが、むしろマニエリスム的な作品ともいえるかもしれません。見事に解体された原曲も、一時期携帯の着信音にしたほど好きです。





取り溜めたものがたんまりとある、の、で、今、まだ先月のものを listening しています。

さて、世界記録を狙う空軍士官候補生4000人のドッジボール大会 (dodgeball game) を受けて、ステューデントニュースのアンカーであるカール・アズーズは次のように締めくくりました。

Carl Azuz: No word yet on whether or not they got the record. Maybe officials are dodging the question. It's time to fly, but we'll catch up with you tomorrow for more CNN Student News."

* no word yet on = ~についてはまだ発表されていない。
** dodge [v] さっと避ける。ドッジボールのドッジ。

それを日本語に通訳している方、このように述べます。

「記録達成か否か、結果はまだドッジかわからないといったところ……以上 CNN STUDENT NEWS でした。」

淡々とした口調でしたが、こういう時って絶対、通訳者は内心ドヤ顔してますよね? いや、自分ならしてる、笑。