干し柿とあんぽ柿違いって知っていますか?!






お疲れさまです。


秋から冬にかけて、果物といえば、
そう、柿です。
ところで、干し柿とあんぽ柿の違い
干しぶどうとの関連性を
知っていますか??

昭和40年代に五十沢が全国の農業団体の
視察を受け入れたため製法が全国に伝わり、
現在では全国各地の主に山間部で作られている。

戦後、蚕産業で、
ウハウハの山間部の
人たちが、蚕産業衰退から、
なにかねえかと、考えて、
黒く硬い干し柿を、色鮮やかな
あんぽ柿にして、売り出した
したら、いいんじゃねーが始まり酔っ払い

宝暦年間(1751年~1763年) 
五十沢(いさざわ)の七右衛門がどこからか
蜂屋柿を五十沢に持ち込んだのが、
五十沢の柿栽培の始まりと伝えられている。
そのため、江戸時代の五十沢では蜂屋柿を
「七右衛門柿」と呼んだ。
蜂屋柿の皮を剥いて連(れん:柿を干すための縄)に
下げて天日で乾燥した干し柿を、
江戸時代には天干し柿(あまぼしがき)と
呼んでいたため、これが「あんぽ柿」と
いう名称の由来と推察されている。
当初は一般的な干し柿と同じように
黒ずんだ色で、これは現在のあんぽ柿と
区別して「黒あんぽ」と呼ぶ。 なお、
五十沢は柿の栽培と干し柿作りに特に
適した気候で、五十沢で栽培すると
他の地方よりも遙かに甘みが増すことが
大正末期の品評会の記録に残る。
福島盆地の北端の南斜面に位置するために
日照量が多い、内陸性盆地型気候で
寒暖差が激しい、西日本のように
台風の被害を受けることが少ない、
土質などの複合要因が、五十沢が柿栽培に
適している原因と考えられる。

大正年間の中頃、五十沢村の隣村である
大枝村出身の佐藤福蔵が
米国カリフォルニア州に行ったときに、
干しぶどうの乾燥に硫黄燻蒸を
行っていることを知り 、これを兄の
佐藤京蔵に伝えた。
京蔵は干しぶどうの硫黄燻蒸を
あんぽ柿に応用すべく研究を進めたが
完成せず、その後、
五十沢の鈴木清吉、曳地長平、
岡崎幸三郎、飯沼庄三郎、
曳地宗三郎、佐藤太郎右衛門、
宍戸与惣次、岡崎文太郎、
岡崎広七、小野良蔵らが
中心となって黒あんぽの改良研究を進め、
試行錯誤の末に1922年(大正11年)に
現在の硫黄燻蒸あんぽ柿の原型が完成した。
翌1923年(大正12年)11月3日に
あんぽ柿出荷組合を創立し、
あんぽ柿の出荷を始めた。

1929年(昭和4年)に五十沢小学校農業教師として
赴任した佐藤昌一(まさいち)の指導もあり、  
五十沢全域に広がった。あんぽ柿出荷組合は 
当初五十沢農協に引き継がれたが、
その後の農協合併によって、
梁川農協、伊達みらい農協へと
引き継がれたため、その過程で
「五十沢のあんぽ柿」
という登録商標は失われた。

ちなみに、飴色の色鮮やかな、
活気的、干し柿の値は、3倍の値で、
当時は売れたとか。




スーパーで、家族が思ったら、教えてね。




ではまた(@^^)/~~~