以前書いた「読解力とは何か」のところで、
「読解力とは、試験で答えられたら読解力があるということ」
「実社会ではほぼ役に立たない」
「読解力とは受験の分野でだけ使われる専門用語である」
「読解力=現代文で高得点がとれる力 であり、それ以上の何かではない」
などと大見得を切って書きました。
内容的には自信があるものの、特に資料をみて書いたわけでもなく、ほぼ100%自分の頭の中だけで作りました。
今になって本当にそれでいいのか、客観的な資料もあったほうがいいのではないか、と思い、ちょっと検証してみました。
ちょうどよい書籍が2冊あったのです。
・なぜ読解力が必要なのか(池上彰)
・大人の読解力を鍛える(斎藤孝)
いずれも、大人向けに書かれた新書です。
この二人であれば、知名度もありますし、偏った意見とは言えないはずです。
客観的な資料としてまず間違いないだろうと思いました。
しかも、目的にあっている。
どちらも、大人にとって読解力が必要だ・役に立つという趣旨であることは、表題からして明らか。
問題は、「読解力」と言っていることの中身です。
これらの書籍の中で、学校で学ぶところの「読解力」がそのまま、実社会で役に立つとか有効だ、というようなことが説得力をもって書かれてあれば私の考えは間違いということになるでしょう。
一方で、そのような内容でなければ、やはり試験で試されるような読解力は実社会では不必要である可能性が高くなる。
さて、どうだったか。
まず、「なぜ読解力が必要なのか」(池上彰)から。
印象に残ったところだけ書きます。
「読解力には『論理的読解力』と『情緒的読解力』ののふたつがある」という記載にびっくり。
しかも太字で。
私は、「どうして小説を学ぶのか」ということを、延々と書きました。
そして、小説を学ぶ意味はある、と結論付けたのですが、池上さんはさすがというか、それをきちんと書いてらっしゃる。
つまり、小説を学ぶのは、情緒的読解力を培うためなのですね。
私の考えと同じ、というか、私より確信をこめて、しかも簡潔に述べてらっしゃる。
・・ていうか、これなら池上さんを読めばいいのであって、私のブログなんて必要ないじゃん!と思いましたが<笑>。
ただ、それはこの書籍に書いてあることの一部でした。
池上さんが他に書いてあるところだと、「読解力」という単語は、もっと広い概念として扱われているようです。会話とか、コミュニケーション上、相手の本音をどう読み取るか、あるいは相手に響くためには何をどう話したらいいか、というところまで計算する力まで読解力に含めている。
また、「在宅起訴」「送検」とかいった言葉の明確な意味であるとか、原油価格と石油価格の違いとか、検察庁、警察庁、警視庁それぞれの違いとか。
そういう幅広い知識があるかどうかも読解力の一部としてとらえられているようです。
そういう言葉の正確な意味を知らないと、新聞などの記事を読むときに、
理解が不十分になる=読解が困難になる、
という理由のようです。
・・・まあ、それはそうですが。
もう少し具体的には、経済新聞を読んでもちゃんと理解できること。
それは、知らない単語がない状態。
AさんとBさんがいて、二人の基礎学力が同じとして、違いはBさんは経済用語に詳しいとしましょう。
二人が経済新聞を読んだとき、Aさんは知らない単語があるからよくわからない。
Bさんは当然わかる。
二人の違いは、経済用語の意味を知っているかどうかの違いだけなのだけれど、
それでBさんが理解できることを、池上さん流の定義によれば、「読解力が上」という判定になる。
例を経済にしましたが、芸術、文化、自然科学、なんでもいいです。
つまるところ、池上さんの言われるところの読解力とは、教養に近い。
そして、そうした読解力(=教養)を上げる一つの方法として、もちろん読書が大事、と主張がされております。
そのように読解力を定義するのであれば、特に池上さんの言われることに疑問点はありません。
ただ、これでは当然、私の定義した「読解力」とは全然ちがうものといっていいでしょう。
「警視庁と警察庁の違いを説明せよ」などと言った質問は、絶対に今の国語の試験には出ません。
また、この本の中には、
「今の学校の国語の勉強では、テストの出題者の意図を推理するような忖度力が身につくばかり」
という危惧さえ書かれています。
上記の「 」内のは、ある意味私の読解力の定義に近い。
そしてそういう力を池上さんは否定的に見ておられるわけですが、私も、このような力は実社会では役に立たないと言っているわけです。
ここまで、私の考えが間接的に指示されてるというのは、うれしくもあり、意外でもありました。
次に、「大人の読解力を鍛える」(斎藤孝)
こちらはもう少し簡単でした。本の最初の方に、もう私の望む記載があったからです。
「(この本で書く読解力とは)解釈を広げて、日常生活で接するあらゆる情報から、その真意を正しく読み取る能力」
と、読解力の再定義がされていました。
要するに、学校の勉強でいうところの読解力とは意味が違いますよ、と言っておられるわけです。
題材に挙げられているものも、文章以外に映画、歌謡曲、スポーツなど幅広い。
ただ、そのあとで、読解力について、
「論理的に整理して読み取る力」と「人の心の在り方や情感を理解する力」があることを書いておられるのは、池上さんの書いている「論理的読解力」と「情緒的読解力」の言い換えであって、さすがにお二人とも読解力が大きく二種類あることについては考えが一致されているようです。
ともあれ、斎藤さんも、勉強で使われるような意味で読解力という言葉を使っておられるのではない、ということははっきりしたように思います。
コミュニケーション力というか、解釈力というか。
しっくりした言葉がないから、この際読解力、と名付けたようです。
ダメ押しするなら、お二人とも、「学校の勉強をすれば私たちのいう読解力が身につきます」「国語の点数のいい人は、私たちのいう読解力もすぐれています」とはつゆほども主張されていない。
池上さんなどむしろ、上記のように、反対の考えのようですから。
<結論>
・やはり、試験問題を解けるという意味での読解力は、実社会で役に立つ、ということはなさそう
・「大人に必要な読解力」というような使われ方をするときは、試験問題を解けるような読解力とはまったく別の意味合いで使われるよう
・当然、試験問題を解ける読解力を伸ばしても、その人の「大人の読解力」なる能力とは何の関係もない。むしろ池上さんによれば、忖度力だけがつくことになりそう
だから、試験の点数をあげることがいいことかどうかは別として、点数を上げたいと思うなら、試験のテクニックを学ぼうとするのがよいと思います。
決して、「読書量を増やさないと」などと思ったり、読書量が少ないことにコンプレックスを感じる必要はありません。
<おしまいです>