おまけということもあり、急いで書いたのでまとまりが悪いかもしれませんが、ご容赦ください。

 

 

2022年度から、高校の教科書で国語が選択制になるとのこと。

これまでもそうでしたが、どちらかというと、小説(私流の言い方で言えば、表現文)は、どんどん肩身がせまくなるというイメージがあります。

この理由は、一つには、私がこれまで書いてきたように、「小説を学ぶ」という誤解があるから、当然「なんでそんなものを学ぶのか」「小説が好きでない者にとっては苦痛」「結局センスの問題」という形になっているかと思います。

しかし、表現文を学ぶ目的を「人の気持ちや状況をどう言葉で表現するか」ととらえれば、そういう誤解は減ると思います。

 

そして、今回お伝えしたいのは、長期的にみれば、もしかしたら今後重視されるのは、今までの評論(説明文)ではなく、表現文のほうかもしれない、ということです。

 

私が現役のころは(少なくとも1900年代・・・)、評論といえば、まあ筆者は哲学系の人が多かった。当然内容も、ものの見方とか考え方とか、そういうものが多かった。

今でもおそらくは、そういうジャンルが主流だと思います。

 

ところが、それが徐々に変わりつつあると思うのです。

最近話題になっている大学入試共通テストの試作品(?)とか新聞にのるのをちらちら見ていると、もっと現実社会に実用的な文章がのっている。

クラスでの討論会の内容だったり、グラフと組み合わせたものであったり、会社でのプレゼンであったり。

ここで思うのは、評論というか、説明文の本質は、「他者を論理的に説得する文章」であるわけですが、そうしたものを問う場合、中身も形式も変わりつつある、ということです。

 

中身で言えば、上記したような、哲学的な内容はなくなってきているわけです。

私個人としては、賛成です。ものの考え方、というのは大事かもしれませんが、そればかりに偏るのはどうかと思う。

第一、国語で教えるべきは「論理的に説得する文章とはどのようなものか」ということであって、中身そのものではないはずなのです。

この点は、表現文を学ぶことと小説をまなぶことの違いに似たことが論説文でも起きていた、と考えることができます。

人を説得する内容というのはいろいろなジャンルがあるのであって、単純に意見のすり合わせであっても、実はそれなりのテクニックがいる、ということが気づかれてきたのだと思います。

 

それに、今までの評論というのは、実際的になんの役に立つのか、誰のために書かれたものなのか、わからない。

確かに、考え方を学ぶと、それなりに賢くなった気はするのですが、それが実際に仕事に生きることはまれです。なんだか知的遊戯に近い感じがするのです。

 

そしてさらに大事なこととしては、形式です。グラフや図、写真が併用されるようになった。

これはすごく大事なことです。

人を説得するのに、言葉だけ使うというのは、考えてみれば非効率的です。

「見ればわかる」ということがある。

「これとこれは違う」ということや、差を言葉だけでいおうとすると大変。でも、図にすれば一発、ということがある。

 

ということは、人を説得するのに言葉だけ、というのは、あえて必要もないのに難しいことをしているということになる。

現実社会では何か資料をつくるのに普通、図や写真を入れたりするわけです。

下手をすると、図や写真が説得力の9割を占めてしまうかもしれない。

例えば、地球温暖化の説明でも、北極圏の雪が、30年前に比べて今どのくらい減ったかは、2つの図を提示してもらえば一目瞭然。言葉はいりません。ビジュアルの方が、圧倒的に効果的なわけです。

 

ところが、国語は基本的に言葉を学ぶ教科なのです。今はなんとかバランスをとっていますが、そのうち、図や写真の方が占める割合が高くなれば、「これって国語(言葉)を勉強してるの?」という疑問がわいてくるに違いない。

 

 

この流れがなぜおきたかというと、おそらくは、最近の画像技術の発展が寄与していると思います。

大げさになりますが、人類は最近になってようやく言葉以外の説明の方法を手に入れた。

図しかり、写真しかり。

そうした画像を、大量に作って等しく配布する技術、というのはつい最近までなかったわけです。頼るのは言葉しかなかった。

だから、人を説得するときは、言葉をつかうことが主流であったわけです。

 

もはや、ちがうわけです。そうしたとき、説得材料として言葉のもつ重要性は相対的に小さくなる。

となれば、少なくとも言葉だけで相手を説得しようとする、従来の評論形式というのは「古くさい」ものとなる可能性がある。

もしかしたら、評論というジャンルは国語という科目から消えるかもしれません。少なくとも、これまでのような哲学系の評論分は。

相手を説得する技術が本質とみなされたとき、国語という科目から外れ、あらたに「情報処理」「説明技術」というような科目となって、「言葉が主、図や写真が従」ではなく、「必要に応じて言葉、写真、図などを適宜使い分ける」という形になるかもしれません

 

 

ひるがえって、表現文はどうか。

一見すると、ビデオが発達した分、こちらの方が不利な印象を受けます。

それこそ報道などで、山火事のシーンなどは文章よりは画像の方が圧倒的にわかりやすい。

 

しかし、です。

ビデオは発達しましたが、一瞬の光景などは、タイミングよく撮影できるとは限らない。

日常生活で、誰かとどんなやりとりしたかというようなことを、いちいち録画はできません。

また、アングルとかの問題もある。

よくありませんか? すごい景色に感動して写真にとるけど、撮った写真を見ると、自分の感動とは微妙に違うこと。

 

そして、最大の問題は、気持ちを画像ではとれないことです。

表情はとれるかもしれない。しかし、その時自分がこう思った、こう感じた、ということは、言葉が一番正確だと思います。

「このとき、すごく腹がたった」というとき、自分のそのときの表情を自撮りして、「ほら、こんな感じだったんだよ」と見せても相手には伝わらないと思います。

 

もし、今後技術が進んで、たとえば脳の中のイメージを直接画像として映し出せたら。

あるいは、自分の湧き上がってくる感情を、相手に直接感覚的に伝えることができるようになったら、違うかもしれません。

「大物の魚を釣り上げたときの快感・充実感・達成感」を、相手に伝える機械が発明されて、相手に自分と同じような感覚を文字通り「体感」してもらえたら、その時言葉はいらなくなるでしょう。

「わかった? この感じ?」

それこそ、「わかった」としか答えようがない。

 

しかし、そんな技術が開発されたら、それこそどうなるのか想像もつきません。私としては、ポジティブな想像よりは、ネガティブな想像が働きます。

犯罪被害にあった人の感覚がどんなものか。

それを、直接体感できるとしたら、もしかしたら精神的に耐えられない可能性がある。

しかし、裁判などで、「被害者の苦痛はあまりある」などと表現されますが、どんな苦痛なのか、実際に体感できるようになる世界。

そしてそれは、今でもおそらく、そうした被害にあった方々が多少なりとも望むことではないでしょうか。

「どんな経験をしたか、わかってほしい」と思うのは、自然なことです。

 

幸か不幸か、そのような技術はおそらく当面できないでしょうが。

 

 

話が脱線しました。

以下、まとめです。

 

<まとめ>

・最近は小説を学ぶことが軽視される傾向があるかもしれない

・しかし、小説を学ぶのではなく、表現文を学ぶことの意味を考えるべき

・そうしたとき、長期的に見れば、論説文(=従来のような言葉メインの評論)よりも、表現文のほうが、「学ぶべきもの」と見直される可能性がある

・というのも、論説文の本質的な目的は、「相手を論理的に説得すること」であるから。効率よく説得できることに価値がある

・ところが、昨今の画像技術の進歩もあり、相手を説得するのに写真・図・グラフと言った画像表現のほうが、場合によっては言葉よりも格段に説得力をもつ手段として便利になった。認知されるようになった

・結果として、説得する道具としての言葉の重要性は相対的に下がることになった

・「言葉だけを使って説得する」ということが本質ではなく、「なんでもいいからとにかくよりよく説得する・説明する」が本質であるなら、説得技術というジャンルは、言葉のみを主として扱う国語という科目に収まらない可能性がある

・内容的にも、形式的にも、少なくとも従来の、哲学的な内容を主として扱ってきた評論というジャンルは先細りする可能性がある

・一方で表現文にとってかわる表現手段は今のところ見当たらない。一瞬の光景や気持ちといったものを手軽に表現するなら、言葉である(普段の人同士のやりとりも同じ。言葉をつかう。いくらなんでも、「この前こんなことがあって」とかいって、互いに自分のとったスマホの動画をみせあう、というやり取りはみたことがない)

・そう考えると、どのように表現するか、ということは、少なくとも、言葉をメインに扱う国語という科目においては、学ぶべきことの多い部分が残ると思われる

・まとめのおまけとして: 小説を学ぶということなら未来はないかもしれないが、表現文を学ぶということならおおいに価値が見直される可能性がある

 

<一応終了>