「なぜ物語文(小説)を勉強するのか(1)」で、「国語の教科書の目次や参考書の目次をみると、実はそのことが書いてある」と書きました。その続きです。
まず、教科書。実際に教科書をみてみます。
「ひろがる言葉 小学国語 四下」 教育出版 から。
物語は2つ掲載されています。「ごんぎつね」と「木竜(もくりゅう)うるし」です。
正確には木竜うるしは劇の台本なのですが、本質は同じです。
そして、目次をみてみますと、それぞれの題材の右側に以下のように書いてあるのです。
「㊀ 場面のうつり変わりと結びつけ、登場人物の変化を読もう」(ごんぎつね)
「㊆ 場面のうつり変わりと、登場人物の気持ちの変化を読もう」(木竜うるし)
これをみれば、一目瞭然。学ぶのは「ごんぎつね」という物語ではないんです。
「 ごんぎつねという有名なお話があって、それはこんなお話なのです。ぜひこれを知っておきましょう 」 ではないんです。
たしかにごんぎつねはいい話なので、個人的には知っておきたい、伝えておきたい話ではある。
けれど、学ぶべきは、そのごんぎつねを題材にして、場面がかわったときごんがどう思ったか、兵十はごんのことをどう思っていたが、最後に真実を知ったときその思いがどう変わったか。そしてそれがどう表現されているか、といったことを学ぶのです。
そういう意味では、(あとでも似たようなことを違った角度で書くことになりますが、)ごんぎつねという物語が有名すぎるから、かえって学ぶことの邪魔になるかもしれない。
例えていうなら、ファッションショーで超有名人がモデルになってしまうと、そのモデルの方ばかりに目がいって、肝心の来ている服への注目がおろそかになる、という感じでしょうか。
だから、設定だけ借りて、登場人物を変えて、「太郎とのらねこみけ」とかにしてそれを勉強したほうが学ぶところがはっきりしていいかもしれない。
(でもそうすると、あとでごんぎつねを読む機会があったとき感動がうすれるからだめか)
木竜うるしも同じです。「木竜うるし」というすばらしい作品がある、ということではない。
そこで登場人物の気持ちがどう変化しているかを学ぶ。
ただ、ここまで書くと、そういう学ばせたいこと、登場人物の気持ちの変化とかいったものが的確に、上手に表現されているということが、教科書にのせるにふさわしい理由であると同時に名作たるゆえんの一つでもあるわけで、結局名作をのせることになりがちなのかな、と思いますが。
話がそれました。
私がここで言いたいのは、学ぶことをまちがえてはいけないということ。
そして学ぶことがちゃんと教科書に明記されている、ということです。
ところが、ここからがさらに肝心だと思うのですが、そういう「ここではこういうことを学びます」というようなことが、私の経験(記憶)では、授業では正確に言われていなかったように思うのです。
「 はい、今日からは、場面のうつり変わりとか、登場人物の気持ちとかがどういうふうに言葉で表現されるのか勉強します。そのために、『ごんぎつね』という物語を例に考えていきましょう 」 ・・・①
こういう風な紹介のされかたではないのです。
「 はい、今日からはこの『ごんぎつね』というお話を勉強します 」 ・・・②
という感じではないでしょうか。
学校や塾の先生で、「いやいや、私は①と意識して授業をしています」という方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、それだとしたらたぶん、失礼ながら強調(アピール)のされかたが足りないと思います。
たぶん、生徒に
「今国語でなにを勉強している?」
と聞いたら、大半は①の
「人の気持ちの表現の仕方を勉強してます」
とかではなく、②の
「ごんぎつねを勉強してるよ」
と答えるに違いない。
厳しい言い方になりますが、教える先生の側でいくら伝える内容を意識していても、教わる側の生徒がそれをわかっていないのなら、それは伝えてないのと同じではないでしょうか。
急いで弁解しますが、私は学校の先生を批判しているわけではない。
ただ、どうしてそうなっているのかが知りたい。
どうしてこういう誤解を生じているのかが、知りたい。
私はいつも、他のことで置き換えて考えるのが好きなので、ここでもやはり、他の教科で考えてみます。
例えば理科。
昆虫を習うと思いますが、昆虫の代表(一例)として、蝶を取り上げたとしましょう。
その時、
「はい、今日からは虫のことを勉強します」
といわずに、
「はい、今日から蝶について勉強します」
と伝えたら、どうなるでしょう。
そして、その後も「昆虫」という概念を一切言わないのです。
「蝶の足は六本あります」
「足は胸からでています」
「最初は卵で、そのあと幼虫、さなぎと変化しますね」
というふうに教えていく。
先生のほうは、「昆虫」を教えているつもりで、です。
「蝶のこと教えてるけど、他の虫も同じなんだって、わかるよね?」という具合に。
まあ、虫の知識はあちこちにあるのでそういうところから補完されるかもしれませんが、
上記のような教え方をしていたら、おそらく何割かのこどもは、「昆虫」という概念を形成するのに非常に時間がかかってしまうとか、蝶を見ると反応するが、他のとんぼとかカブトムシとかと蝶の共通性を知る機会を失うとかの弊害が生まれるでしょう。
ごく一部のさえた子供だけが、「ん? 足が六本とかって、セミも同じだな」とか気づいて、昆虫という概念があることを独自に「発見」する。
そうすると、テストのときセミの足の数を答えさせる質問が出て、そういう気づいた生徒だけが正当できる。
他の生徒は、「蝶は習ったけど、いきなりセミかあ」というわけで、気づかない。
そこまで極端ではなくても、クモ、セミ、蝶、トンボとかでてきて「仲間外れはどれでしょう」と問われたら、太刀打ちできません。
そして、「理科ってセンスじゃない?」「図鑑とか好きでたくさん見ている子が有利だよね」ということになるのではないでしょうか。
それがまさに、国語で起こっていることではないでしょうか。
蛇足になりますが、算数でもできます。
「掛け算を勉強している」「九九を勉強します」と言わずに、
「6を7回たすと、42になります。これを、『ろくしちしじゅうに』と唱えておぼえます」
「はい、(それとは別に、)5を4回たすと、ちょうど20になります。これを・・・」
とバラバラに教える。
そんな感じです。
<続きます>